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(ゼロ)の男 オーディンの森 一、雲英 二、コンビニ 三、悪魔 四、エレベーター 五、発見 六、従兄弟 七、値札 八、遺伝
九、ごっこ
黴雨は明けたと今朝のラジオで言っていたが、その日も朝から雨だった。
「どうしたんですかっ、ダイコクさんっ」
早速、朝からやってきたイトウは那牟智を見るなり素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ、うるさいな」
那牟智は機嫌が悪い。何しろ夕べ殺されかけたのである。機嫌がいいはずがなかった。が、それを察し取るほどのデリカシーはイトウにはない。分厚い眼鏡の奥の目を殊更大きく見開いて、
「何かあったんですかっ」
と相変わらず甲高い声で聞いた。
「だから、何でだよっ」
「首」
「え?」
「首、すごい痣になってますよ」
「え」
しまった、と思ったが、後の祭りである。首では、転んだ、といういいわけは通らないだろう。
「まさかっ、」
とイトウが大声を出して那牟智はぎょっとする。
「まさか、…なんだよ」
「自殺未遂じゃぁ、」
「するかっ」
「じゃあ、彼女に首しめられとか…」
那牟智は小首を傾げると、
「気の利いたことを言う奴だな」
「あ、そうですか?」
イトウは誉められたと思ったのだろう、ちょっと嬉しそうに鼻をふくらませて笑った。
「彼女?彼女がいるの?」
聞きとがめたように問い返したのは、いつ来たのか、悪魔と名乗る黄泉比良坂だった。イトウの背中から回り込むようにして出てくると、彼女は目を大きく見開いて、まるで咎めるように顔を近づけてきた。
「ねえ、」
「なんだよ」
「彼女に首しめられたって言ったの?」
「言ってねえだろ、誰も」
「言いましたよ、僕」
意味ありげな笑みが形のよい口元に浮かんで、
「へええ、すごい痣」
心なしか、嬉しそうに感想を述べた。そして、
「誰かに襲われたの?」
と聞く。
「襲われたんですか?」
とイトウも聞いた。お前らには関係ないだろう、と言って那牟智は話を打ち切ろうとしたが、一瞬早くイトウが、
「じゃあ、あの従兄弟ですか?」
と言って那牟智は一瞬、絶句する。
「ああ、そういや、凄い太い腕だったものね」
黄泉比良坂も合点して、
「でしょう?」
「あのくらい太い腕じゃないと首に痣なんてつけられないわよね」
「そうですよねえ」
「……違うよ」
と那牟智は反論したが、声に力が入らない。
「でも、なんで従兄弟がダイコクさんを襲うんでしょう?」
イトウは那牟智の蚊の鳴くような主張は無視して、自分の妄想に執着した。黄泉比良坂はすぐにこれに乗って、
「それは、ほら、あれよ」
と言ったが、うまいシチュエーションが思いつかないと見えて、うーん、と天井を仰ぐと、
「痴話喧嘩」
「おいっ」
と那牟智。黄泉比良坂は、あら、という顔でこちらを見ると、
「三角関係、の方がリアリティあったかしら?」
「違いますよっ、違いますよっ、」
イトウは何かいいことを思いついたらしく目を輝かせて思わず大きな声を上げると、
「きっとダイコクさんの不思議な力に目をつけて命を狙いに来たんですよ」
ダイコクはまた絶句する。黄泉比良坂は、きゃはは、と笑うと、
「それ面白ーい」
それにしよう、とまるで中学生のような口調で言った。ねー、いいでしょう、とイトウは自分の思いつきに有頂天になってそう言った。それでそれはそういうことになってしまった。こわいことに当たっているのだが、それを言う勇気は那牟智にはない。
「で?」
と黄泉比良坂。
「で、って?」
とイトウ。
「どうするの?」
「どうする?」
「従兄弟と戦うの?」
「戦うんですか?」
とイトウは那牟智の顔を見て聞いた。一瞬、返事につまる。何か言うべきなのか?このいかにも空言につき合っているふりをして?
「でも、」
と黄泉比良坂は首を傾げる。
「どうやったら戦えるの?」
「そりゃあれですよ、」
とイトウ。
「絶体絶命という時にですね、ダイコクさんの真の力が目覚めて従兄弟と戦えるようになるんです」
「絶体絶命になるまでは苦戦を強いられるわけね?」
「大体そうですねえ。起承転結から行って」
「絶体絶命、ってどこいらへんまで?」
「死にそうになるまででいいんじゃないですか?」
「…じゃあ、何か、」
と那牟智。
「お前ら、俺に死にそうになるまで将馬と殴り合いの喧嘩でもしろ、ってのか?」
運動神経もへったくれもない三十男がトライアスロンの雄と殴り合いなんて御免だと思った。
「あら、」
と黄泉比良坂。けらけらけらっと弾けるように笑うと、
「やあねえ、ホントに殴り合いやれなんて言ってないわよ」
そうですよ、とイトウ。
「殴り合いじゃ駄目ですよ」
あら、と黄泉比良坂。
「殴り合いじゃ駄目なの?」
「駄目ですね。やっぱり、あれですね、精神波飛ばして、サイコキネシスのパワーで、」
「…ふっ飛ばしてやろうか?」
「飛ばせるんですかっ?」
「できるわけねえだろっ、大馬鹿野郎っ、お前はマンガの読み過ぎだっ」
「でも、あり得ない話じゃないでしょおー」
「あり得てたまるかっ」
ええー、だって、とイトウは反論した。
「ダイコクさんなら何でもあり、ですよ。だって、ほら、悪魔だって憑いてるじゃないですか」
「そうよそうよ」
と黄泉比良坂も加勢した。
「悪魔、ねえ…」
だが、これも嘘。全て嘘のごっこである。まったく、と嘆息すると、
「人の従兄弟を勝手に悪者にして遊ぶなよな」
那牟智は嘘をつく決心をした。
「そうなんですか」
まるで落とし物をしたようにイトウは急に声を落として呟いた。那牟智が絶体絶命になってもイトウにはごっこの世界の方がいいのだろう。作り物は何でも魅力的だ。確かに現実は一見つまらないに違いなかった。
「ちぇえ、嘘の話はいいよな」
と那牟智はやけくそに言った。
「ちょうど危ない時にいきなり力が増してさ。時間いっぱいで相手をやっつけられるんだろう。都合よく筋書き通りに話が運ぶ」
あら、と黄泉比良坂。
「嘘の話はたいてい筋が通って聞こえるものなのよ」
那牟智はちょっとだけ黙る。意味がわからない。代わりにイトウが、
「どうしてですか?」
と聞いた。黄泉比良坂は、
「嘘って言葉にしないと存在しないでしょう?だから、嘘つく人って全て言葉にしてしまって本当らしく見せようと躍起になるのよ。だから、聞かれもしないのに筋も裏も全て言ってしまうのよ」
「なるほど」
確かにそれは当たってるかもしれない、と那牟智は思った。嘘をつく時ほど人は饒舌になるものである。それは嘘を嘘で固めることで嘘という世界を構築する努力なのかもしれない。
「現実の話なら、それ自体、もう存在しているんだもの。辻褄合おうが合わなかろうが、存在するのよ。筋もへったくれもないでしょ」
「事実は小説よりも奇なり、ってやつか」
「奇妙なのは事実で小説なんかの虚構じゃないわ。虚構はね、奇妙すぎると存在意義すらないのよ」
だからね、と黄泉比良坂は付け加える。
「嘘をより本当らしく見せたければ全部見せないことよ。ぼかしておくの。わざとね」
聞いた方が勝手に想像してくれるから、と彼女は嬉しそうに言った。
「さすが嘘つきのプロは違うね」
「悪魔、だからね」
ぬけぬけと彼女はもっとも大きな嘘を言ってのけた。
とりあえず、もう一人の従兄弟の所へ行こうと那牟智は思った。
彼は医者である。外科医だが、こういう問題は素人よりはましな方法を思いつくだろうと期待したのである。
その日、店を早じまいして彼は車で出かけることにした。車に乗るのは久々だった。半年前、車で買い物に出かけた際、いつのまにか後部座席に女が乗っていて、走っている間じゅう愚痴を聞かされたのである。勿論、生きている女ではない。そういうことが何度かあって閉口して乗らなくなっている。
ガレージから出した車は丸い形の屋根に猫の足跡が点々とついていた。
乗り込む時、念のため、数珠を手首にはめる。同年代で笑う者は多いが、那牟智は数珠が意外と霊に対して効果があるのを経験から知っている。運転席にそうっと座ってバックミラーを見た。今日は女は乗っていないようだった。彼は安心してキーを差し込む。
「これだからな」
那牟智は身震いする車の振動を半年ぶりに味わいながら一人ごちた。外に出れば多くの生きていない者たちを見る。たいていがどう対処していいかわからないものばかりである。こういう力で世直しができると信じている将馬は本当に間抜けだと那牟智は思った。幽霊を見たい、というイトウの方がよほどましで現実的である。自らヴァーチャルの男と名乗ったイトウよりあの将馬の方が非現実の世界に踏み惑っているというのは那牟智には不思議に思えた。存外に境界線をうろつく者はその一線を越えないものなのかもしれない。むしろ境界線を見たことがない者の方がそれと気づかずにあっさりと越えていってしまうのではないだろうか。まあ、そういうとイトウはまた怒るだろうが。
つらつらと考えるうちに大通りへと出た。
出たとたん、前に壮麗な金の龍を乗せた車が入り込んできた。霊柩車である。那牟智は苦笑いした。車に乗り込む女がいなければ霊柩車とは出来過ぎていると思った。道路は渋滞していた。工事中の看板がところどころ立っている。霊柩車の後をのろのろとついていく。乗っている仏には悪いが、こういう巡り合わせはあまり嬉しくない。子供の頃、葬式にあったら親指を隠さないと親の死に目に合えないという話を聞いて、必死で隠していたのを思い出す。父親の死に目に合えたのはあの努力のおかげかもしれないと埒もないことを考えながらもハンドルを握る両の手の親指を見た。ハンドルを握っていては親指は隠せないだろう。母親はまだ健在だが、再婚しているから自分が死に目に合えなくても怒らないだろうと馬鹿なことをぼんやりと考えていた。やっと車が動き出した。少しずつ少しずつまるで心太が押し出されるように前へと動くが、なかなかスムーズには流れない。
ぼんやりと眺める視界が急にぼやける。
あちゃー、と思った。霊だ。霊柩車の後ろの扉から靄のようなものが漂うように霧散していった。この先、これがどうにか関係してくるのだろうか。これが原因で何かが起こるのだろうか。たとえそうでもそうでなくてもそれはわからないままに違いなかった。理不尽というのはまさにこういうことなのだろう、と妙に那牟智は納得した。
車は高速への分岐点ではじき出されたようにスムーズに流れ出した。那牟智は高架をくぐる。細い道に出た途端見えるグレイの大きなビルへと車を走らせた。
総合病院の待合室の床は飴色だった。天井は高く、天窓に磨り硝子が入っていてそこから鈍い光が差し込んでいる。明治村かなにかで晒し物になっている旧館のようにまるで現実感というものがなかった。待合室にはスーツ姿の中年男、ポロシャツにジャージ姿の女や銀髪の老人、杖をついた若者などがいててんで不似合いの現実感を漂わせている。隅にはグレイの、妙に最新式の公衆電話が置かれていて、そこではパジャマ姿の若い女が熱心に喋っている。
「おおくろさま」
と呼ぶ者がいて腰を浮かすと、白衣の看護婦だった。
「お会いになれるそうです」
とだけ言うと、彼女は奥を右手で差す。奥へ行っていい、ということだろう。会釈だけして歩き出す。廊下もまた飴色だった。ぎしぎしと床板を言わせて那牟智は通路を奥へと向かう。腰高窓が廊下沿いにずっと続いている。窓からは荒れた庭が空き家のように黒々と覗いている。忙しなく白衣を着た看護婦が幾人も通り過ぎるが、彼女らは一瞥をくれるとすぐに目を伏せて通り過ぎて行った。
「那牟智」
呼ばれて顔を上げる。廊下の向こうから背の高い白衣の男が歩み寄ってきていた。
「キョウスケ」
と那牟智。
「久しぶりだね」
とキョウスケは言った。
「お前」
と那牟智。
「ん?」
とキョウスケ。
「白衣の下は裸か?」
確かに羽織った白衣の前がはだけるとその下は裸だった。那牟智は眉をひそめると、
「シャツくらい着ろよ」
「暑いんだよ」
「じゃあ、空調入れろよ」
「入れたら寒いよ」
キョウスケは仕方なしに笑うと、
「君は俺に露出狂のレッテルでも張りに来たのか?」
とおかしげに言った。そういえば、と那牟智は思い出す。大黒の跡取りと値札をつけに来たのは将馬だった。まあ、と従兄弟は言った。
「俺の部屋へ行こうか」
薄い笑みを浮かべると先に立って歩き出した。
磨り硝子のドアをいくつも通って、人の絶えた所で従兄弟はドアを開けた。ドアには札が下がっていて、「大原キョウスケ先生」と書かれていた。本名は狂介である。頑固でならした祖父が何事にも熱心に取り組む男になるように、とつけた名だったが、本人が名前で苦労しただろうことは想像に難くない。もっともあまり気にしない性格で、そういうところは那牟智と似ていた。さすがに医師となって「狂介」では聞こえが悪いとカタカナ書きをしているのだろう。
部屋は確かに空調も入れていなくて梅雨明けの蒸し暑さが充満していたが、狂介は気にならないようだった。裸ならなるほど涼しいだろう。髪も後ろを長く伸ばしたのをゴムで一くくりに括っている。由緒正しい総合病院でこういう格好が許されるとは不思議だが、会長の孫、院長の一人息子となれば何でも許されるのかもしれなかった。この会長が名付けの祖父である。今でも現役で診察を行っているというから彼が許していることなら何でも通るかもしれなかった。偏屈な祖父はきっと孫のこの奇妙な風体もお気に入りなのだろう。
「で?」
と狂介。
「将馬のことだけど」
と那牟智が言うと、ああ、と従兄弟は小さく笑って、
「あの暴れん坊将軍」
あいつがどうした、と聞いた。
「あいつが会社辞めたの知ってるか?」
「え、知らない。なんで?」
「中田の爺さんが痴呆で入院したのがショックだったらしくて」
「ああ、それは知ってるけど」
こちらで入院先を手配した、と狂介は言った。
「それで人生観、変わったってとこだろうけど」
「ごりごりごり押しの男だったからな」
狂介は面白そうに笑った。彼と将馬は同じ年である。年上の那牟智には多少の遠慮もあったようだが、同学年の狂介にはあからさまな態度を取っていたのは知っていた。顔立ちも女のように優しくて線が細い狂介は、それだけで将馬の侮蔑の対象だった。
「あいつ、おかしくなったんだ?」
と狂介。今でも細い、男にしては綺麗な顔立ちを那牟智に向けて聞く。
「そう思うか?」
「だって、あいつが会社を辞めるんだぜ?おかしいに決まってるじゃないか」
「──あいつさ、俺に心臓よこせって」
「は」
「世のため人のために幽霊見る力生かすからってさ」
一瞬、狂介はきょとんとした。黒目がちの瞳に那牟智が映る。が、次の瞬間、彼は大声で笑い出した。だろうな、と那牟智も思う。
「笑うなよ」
「だって、」
「気持ちわかるけどさ」
「幽霊見えるなんてぼけたこと言うなって怒ってた男が…それで世直しって、どういう繋がりだよ、」
狂介は笑いやめない。さもありなんである。彼はひいひい言いながら、まだ笑い足りないように、目を手の甲で拭って、
「あああ、おかしい」
と言った。
「久々のヒット。こんなに笑ったの、久しぶりだよ。世の中何があるかわからんな」
と正直な感想を述べた。
「俺だって笑いたいさ。でも、殺されかけたからな」
洒落になんねえよ、と言うと、また狂介はきょとんとして那牟智を見た。
「誰に?」
「将馬に、だよ」
「あいつが?」
言って初めて彼は那牟智の首の痣に気がついたようだった。
「ああ、それがそうか」
と目線だけで痣を差して言った。ああ、と那牟智。
「いくら自分がとち狂ったからって従兄弟殿の首を絞めるとはね」
「あいつは冗談だって言ってたけどさ」
「酒でも入ってたのか?」
「いや」
「素面の冗談でそこまでやんないぞ、普通」
「だよな」
「警察には?」
「届けられるかよ」
従兄弟だからな、と那牟智。
「人がいいね、那牟智兄さんも」
「そのうち世直しごっこも目が醒めるだろうしさ」
「俺が言って聞くとも思えんけど」
「心臓移植しても性格とか体質とかに提供者の影響は受けないんだって説明だけでもしてやってくれないか」
「ああ、なるほど」
医者の言うことなら聞くかもしれない、と那牟智は言った。
「那牟智は?」
「へ?」
「爺さんの影響は受けてないのか?」
一瞬、黙ったが、
「受けるか、そんなもん」
狂介はまた嬉しそうに笑うと、
「だよな」
言ってみるよ、と狂介はにこやかに言ってくれた。
正直言うと、時々、那牟智は祖父の影響を受けているのではないか、と思うことがある。心臓がどくどくすれば祖父が何か言っているような気がするし、自分の中に祖父の何らかの意志を感じることがあるのは事実であった。本を読んだりもしたが、そっちの方面はちょっと苦手で、医学ではそういうことはありえないようだとわかっただけだった。自分の気のせいだというのはわかっていたが、でも、祖父がそういう力を持った人であっただけにありそうな気も充分している。
その日の夜、夢を見た。
気がつくと、自分はマットレスに寝ていた。時々そういう夢を見る。これでは起きているのと変わらないなと毎度のことながら苦笑する。が、ふと目を転じると、足元に誰か座っているのが見えて、ぎょっとした。
後ろ姿である。
大きな背中。
着物。
大島紬の織りが見える。
この柄。
見たことある。
あ。
「爺さん」
呼んだところで目が醒めた。
十、後悔
どうしようかな、と思う。
店である。
開けるかどうしようか、那牟智は悩んだ。
将馬がやって来るのではないかと思ったのである。あのことが一瞬の気の迷いだとよいが、まだ考えが変わってなかったらまた来る可能性は充分にあるような気がした。しかし。
まあ、逃げる必要もないし。
がらがらがらとシャッターを開けた。
いい天気である。そろそろ本格的に夏だと思われた。
「ダイコクさん」
呼ばれて振り返る。黄泉比良坂だった。
長い髪、細い目、形のいい口元。それらが小ぶりの顔におさまって那牟智を下から見上げていた。
「背、高いのね」
と言われて、
「ああ、いつも座っているからな」
確かにこうして立って並ぶのは初めてのような気がした。
「従兄弟、どうした?」
と彼女は聞いた。
「戦う決心、したの?」
「それはあの時の戯れ言だろう」
そういう話はイトウとしやがれ、と言いながら店に戻る。黄泉比良坂はついてきながら、
「あら、そうなの?なんだ、つまらない」
とがっかりする。
本棚を眺める。一冊抜き取る。小脇に抱えてレジの前に座った。
「今日は何の本?」
「新修ドイツ語辞典」
「辞書って楽しいの?」
「俺は好きだね」
「辞書読む人なんているの?」
「俺は読むよ」
「お爺さん、元気?」
「…爺さんは死んだよ」
「そう」
とだけ言った。あとはくすくす笑っている。気味が悪いといえば気味が悪い。だが、何が起こっているわけでもない。全ては気のせいなのだ。
Atem[アーテム]男性名詞/息、呼吸。
ドイツ語を辞書で拾い読みする。集中しない時はいつもこうする。へええ、
Beelzebubがあるじゃないか。[ベエるツェブープ]ベルゼブブ(悪魔の王の名)。出来過ぎだと思った。悪魔と名乗った女が目の前にいるのである。それとも目は無意識に悪魔の文字を拾っているのかもしれなかった。万引きした男を捕まえなければもしかしたら幽霊に憑かれることはなかったかもしれない。いや、幽霊が憑いたかどうかもわからなかった。ただ時計を拾ったのである。その晩、蛇の夢を見た。夢で腹を締めつけられて次の日、からだが痣だらけになっていた。まさに理不尽とはこういうことを言うのだろう。理由も関係も因縁もない。ただ、まるで関係ないできごと。そして、今、おかしくなった従兄弟に首を締められて首にも痣がついている。Ermahnung女性名詞/忠告;警告。警告は女性名詞とは恐れ入った。黄泉比良坂が現れたのは次の日である。蛇を見た?と彼女は問うた。
Einsenkung[アイン・ゼンクング]女性名詞/(地面などの)沈下;くぼ地。erst[エールスト]最初の、第一の、初めての。Erzeuger[エア・ツォイガァ]男性名詞/生産者;製造者、実父。Krach![クラッハ]ぱりっ、めりめり、がたん、どしん。Phonetisch[ふォネーティシュ]音声(学)の;発音どおりの。Photomontage[ふォトモンタージェ]女性名詞/写真モンタージュ、モンタージュ写真。
悪魔、と名乗った馬鹿な女。でも、綺麗な女。
Rede[レーデ]女性名詞/話、談話、会話;議(討)論;意見、主張。
「悪魔ってさ」
と那牟智。目はドイツ語の単語を拾いながら言う。
黄泉比良坂が那牟智を見た。が、那牟智は見なかった。だから、その時、黄泉比良坂がどんな顔をしていたか見なかったかもしれない。
「悪魔が?」
と黄泉比良坂が言った。Rederei[レーデライ]女性名詞/おしゃべり。
「どういう顔してるんだろうな」
Reformator[レふォルマートァ]男性名詞/宗教改革家;改革家、革新者。
「そりゃ」
と黄泉比良坂。Regel[レーゲる]女性名詞/規則;原則(理)、規範(準)、主義…
「こういう顔でしょうよ」
schwarz[シュヴァルツ]黒い;暗黒の、黒ずんだ;汚れた。
「悪魔は神の兄弟だって話、あるよな」
Seele[ゼーれ]女性名詞/魂、霊魂;(死者の)魂;精神;心情、心。
「時間の始まる前からいたともいうよな」
「詳しいのね」
でも、と黄泉比良坂。
「信じた?」
「なに?」
「私」
「信じはしないけどさ」
「少しは信じた?」
「まあな」
くすくすっと女が小さく早く笑った。そして、
「ほら」
と呟いた。
その瞬間、しまった、と思った。
何故だかわからない。ただ、何だか取り返しのつかないことをしてしまったような後悔が激しく胸を噛んで、那牟智は顔を上げた。
目の前には黒い服を着た黄泉比良坂がいて、何事もなく、微笑みを浮かべていた。
笑っている。
ただそれだけである。
気のせいなのだ。全ては気のせい。
那牟智は辞書を閉じると、青い箱に納める。まるでしくじりもそこに共に納めてしまうかのように彼がそうすると、黴臭い匂いが微かに手に残ったようであった。
十一、不在
「将馬に会ったよ」
と狂介から電話が来たのは三日後のことだった。
「あいつ、どうした?」
と那牟智は聞く。あれから将馬は来なかった。
「家に帰るってさ」
「まだ帰ってなかったのか」
「どうやら女がいるらしいね」
「ああ、それは言ってた」
「骨髄移植をしたいようだけど、って話したんだが」
「ちょっと待てよ。骨髄移植って…」
「だって、」
と狂介の声は淀みがない。
「いきなり心臓移植はあきらめなさい、とも言えないだろう?」
那牟智から将馬が骨髄移植を希望していると聞いた、ということにして話をした、と狂介は言った。
「なるほど」
言われてみればそのとおりである。狂介は真相は知らないふりをして、それとなく臓器の移植について話をしたということだろう。確かにそうでなければあの将馬が狂介の言うことを聞くはずもない。
「骨髄移植をしても人格的な影響は出ない、って話したよ」
あいつも面倒なやつだな、と狂介は明るい声を立てて笑った。
「面倒かけたな」
と那牟智。なんの、と狂介。
「俺で役に立つことがあれば」
と彼は言葉を重ねた。
「お前」
いい奴だな、と言いかけて照れ臭くてやめにした。
「首は?」
と狂介。痣の具合を聞いているのである。だいぶいいみたいだ、と那牟智が言うと、
「からだ大事にしろよ。ホントにどうにかなったら洒落じゃすまないぜ」
「そうだな」
有難う、と礼を述べて那牟智は受話器を置いた。
その日の夜には今度はチズコから電話が入った。将馬の妻である。彼女は浮かれた声で夫の帰宅を告げた。それはよかった、と言うと、有難うございました、御迷惑をかけました、と繰り返し繰り返し述べて、夫が今、子供と一緒に風呂に入っているからその間にこっそりと電話をかけていることを白状した。二人の不仲はとっくにチズコにも知れているのかと思うと、那牟智は何となく面はゆい。夫が上がってきたから、と急に告げて、電話はそそくさと切れた。
やれやれと思う。
大したことなく事は済んだようだった。
祝杯を上げたくて冷蔵庫を開ける。ビールを切らしていて那牟智は革ジャンを引っかけて階段を降りて外へ出た。
もう夏だというのに革ジャンもないものだと思いながらも彼はこれを引っかけないと服を着たという気がしないのであった。
道路へ出る。車道を横切っていつものコンビニに向かう。あの黄色いジャンパーの幽霊がいる所である。
今日も幽霊は立ち読みをしていて、今日も那牟智はビールを買う。
銀色に光る缶の冷えた感触を左の手の平で味わいながら那牟智はまた来た道を戻る。車道の手前まで来て切れた街灯の下に人影があるのに気がついて立ち止まる。将馬かと思ってぎょっとした。が、違う。やせこけた一人の男。すぐにわかる。死んでいる男だ。将馬は今頃、一家団欒の最中でこんなところに来るはずもなかった。
那牟智はガードレールに腰掛けてビールの缶を開ける。やせこけた青白い男は幸いこちらには気づいていないようだった。ただ誰かを待っているようであった。
誰かを待っている幽霊もいるのかと思った。
那牟智は喉を鳴らしてビールを飲んだ。一気に飲んで大きく息をつく。
男はただ待っている。那牟智はただ見ている。こんな力で世の中が救えると思う男もいるのだな、と不思議になった。ただ見えるだけである。それ以上は右にも左にも動かない。動かないというより動けないのである。動いてしまうと憑いてしまうからである。動こうと思ったことは実は何度でもある。だが、人を救えると思った自分がいかに傲慢であるか思い知らされただけであった。人を救おうとして、その実、人に感謝されたい自分に気づくだけである。人は感謝しないし、報われないことで暗澹たる気持ちになることもあった。夜が眠れなかったのはいつのことだったろう。
それはつまり、父の言った当てがはずれるということだろうと気づいたのはずいぶん後のことのように思う。
人を救うのではない。
自分がいいと思うことをやるだけである。
そう思うことでずいぶん気が楽になったというものだった。
やれと言われればやる、が、そこにイデオロギーを持ち込むのは嫌だと思った。
他者はいらない。他者不在のままが一番気が楽だった。それはつまり、自分を映し出す自分用の他者である。その他者に、人はきっと、きらきらしい自分が映ることを最大限期待するのである。だが、そんな他者は今はもう那牟智には不要だった。ゼロでいられることで彼は今は満足なのだった。
幽霊はまだ人を待っている。
ビール缶は空になった。
「それじゃあ」
お先に、と呟いて、那牟智は家へと入っていった。
十二、行方不明
気がつくとマットレスの上だった。
マットレスの上に仰向けに寝ていた。
夢?
どうやらいつもの夢のようだった。
最近どうも夢見が悪いな。
と夢の中で一人ごちる。
そう?
とどこかで誰かが答えた。
悪いとも。
マットレスの足元にふと気配を感じて見ると大島紬の着物を羽織った大きな後ろ姿が座っている。
爺さん。
声に出したつもりだったが、聞こえなかった。
最近よく出てくるよね。
元気かい?
とっくに死んでしまっているのだから元気もなかったが、夢でも霊でも知り合いを見かけるとついそんな声をかけたくなる。大きな背中がゆらりと揺れる。
今日は振り返ってくれるつもりらしかった。
くるりと背中が動く。
その瞬間、急に那牟智は祖父の顔を見るのが怖くなった。白髪の頭が回ってこちらを向いたと思った瞬間。
目が覚めた。
鳥が啼いている朝日の中で那牟智はぼうっと天井を見ている。
夢でよかった。
そう思ったすぐ横に祖父がいた。
それが夢だったのかどうかよくわからない。
次の瞬間に彼はまた目を醒まして、もう一度朝だった。
「顔色よくないですねえ」
と今日のイトウは察しよくそう言った。
「最近、」
と那牟智。
「爺さんをよく見かけるんだよ」
「…爺さん、って、ダイコクさんのお爺さん、もう亡くなってませんでした?」
「ああ」
「…見かけるんですか?」
「見かけるんだよ」
イトウはちょっと黙っていた。たまには静かなイトウもいいだろう。
「お通夜みたいね。どうしたの?」
と入ってきた黄泉比良坂が聞いて、やっとイトウは口をきく。
「ダイコクさんのお爺さんが最近よく現れるそうですよ」
「あら、そうなの」
黄泉比良坂は別に動じない。
「夏も近いからねえ」
と受け答えして、
「どうして夏が近いとよく現れるんですか」
とイトウを不審がらせた。あら、だって、と黄泉比良坂。
「お盆も近くなるじゃない」
「ああ、なるほど」
何がなるほどだ、と那牟智は悪態を胸の内でつく。
「盂蘭盆っていうのよ」
「うらぼん?表盆っていうのもあるんですか?」
とイトウが言って、那牟智は馬鹿馬鹿しくなった。
「いや、でも、本盆、っていうのがあるところもあるから」
としゃがれ声で言ったのは祖父だった。
「盂蘭盆のうらを裏と考えてのことだな」
じゃあ、と那牟智は言って、
「イトウが言ってるようなことを他に考えた奴がいるってことだな」
祖父は掠れた声で笑って、
「そうだな」
「盆には帰ってくるのか?」
と那牟智。
「盆にか?」
「そう」
「さあてね」
「ダイコクさん」
イトウが顔を覗き込む。
「どうかしましたか?」
那牟智はイトウの顔を見たが、
「いや、別に」
と言っただけだった。
最近よく祖父を見かけるような気がする。それを錯覚といえば錯覚であろうし、幽霊といえば幽霊であろう。どちらだと言えるだけの確証がないだけである。ただ那牟智には目の前に見えるし、確かに祖父の声は聞こえる。だが、それだけである。
そういったものは確かに見えるが、いつもというわけではない。見える時はひどくよく見えるし、見えない時はさっぱりである。
「やっぱりそういう時期っていうのはあるんでしょうかね」
とイトウが訊いて、
「さあな」
と那牟智は言うしかない。
「今度、オカルト研の仲間と一緒に実験させてもらえませんか?」
とイトウが言って、
「いやだよ」
と那牟智が言う。
「今度、うちに来て、話をしてやってくださいよ。みんな面白がるだろうなあ」
「御免だね」
イトウはよくオカルト研の仲間のことを口にしたが、実際に連れてきたことは一度もなかったし、那牟智がオカルト研の方へ出向く話も具体化することはなかった。
次の日の夜、電話が鳴った。電話の相手は狂介で、
「将馬がいなくなったのを知っているか?」
と言った。
「将馬が?」
「うん。さっきチズコさんから電話があって、ここ数日、家に帰っていないって」
「またかよ」
「うん。それでどうしようかって話なんだけど」
女の所だろうと那牟智は思ったが、
「どうしようかって、どうしようもねえだろう」
警察にでも届けるつもりなのか、と聞くと、狂介は少し慌てて、
「そんな、あまりおおごとにしても何だろう、」
言っている意味がよくわからないまま、
「とにかく那牟智兄さん、来てくれよ」
と言った。
「俺が行ってどうするんだよ」
「…どうするってこれからのことを相談したいから。チズコさんに泣きつかれて困ってるんだ」
頼むよ、と言った。自分が行ったところでどうにもなるまい、と思ったが、
「今、病院か?」
と聞く。狂介は、恩に着る、と言ったのだった。
すぐにキーを差し込んで、ぶるんぶるんと車体を震わせて車は急発進する。道路に出た時、バックミラーを見ると、髪の長い女が座っていた。すっかり忘れていた。以前、よく乗ってきた、あの幽霊である。長い髪で顔は見えない。細い体に紫色のスーツ。膝の上には白いハンカチを握りしめていた。
もういなくなったと思ったのに。
バックミラーから目を離し、右を見、左を見る。交差点に出たのである。
女のすすり泣きが聞こえた。
後部座席で誰ともわからない女が泣いているのである。
那牟智は思わず鳥肌が立つ。幽霊に出くわすと鳥肌が立つ時がある。幽霊なのか枯れ尾花なのかわかって便利といえば便利である。
殺してやりたい、と女が呟いた。
代わりに俺を殺すなよ、と那牟智は思うが、言わない。そこまでやる勇気はない。困ったな、と思ったが、どうしようもなかった。
数珠持ってくるのを忘れたなあ、とどうしようもなくて一人ごちた。
ほどなく車は狂介の勤める病院へと着いた。すうっと車体を駐車場へと入れる。夜間である。宿直の人間が出てくるかと思ったが、誰も出てはこなかった。ばたむっとドアを閉めて、さてどこから入ろうかと思案するまでもなく、夜間入り口の案内の横に白衣を着た狂介がポケットに手を突っ込んで待っていた。
「キョウスケ」
と那牟智が呼ぶ。狂介は照れ笑いを浮かべながら、
「へえ、来てくれたんだな」
とわけのわからないことを言った。
「お前が来い、って言ったんだろ」
「でも、来たくなさそうだったから」
狂介は先に立って病院の中に入る。
「チズコさん、来てるのか?」
と那牟智。いや、と狂介。広い待合室の照明は完全に消されていて、硝子戸越しにほのかに見えるランプが辛うじて椅子や会計のカウンターや電話の在処を教えていた。待合室を抜けて、飴色になった廊下を、ぎし、ぎしっと音を立てて歩く。昼間は気づかなかったほどの大きな音は暗い天井へと奇妙に響いた。
「この建物はさ、」
彼も床のきしむ音が気になったのだろう、狂介がまるで那牟智の心を見透かしたように口を開いた。
「戦前の建物でさ。看護婦も怖がって救急車でもない限り、入院病棟から下りてこないんだよ」
「建て替えないのか」
「金がないよ」
会長である祖父の懐具合を探るように狂介は言った。
しばらく歩く。廊下の壁には窓が空いていて、外では真っ黒い木々が狂ったように揺れていた。これがずうっと廊下沿いに続く。どこかでうめき声が聞こえていた。入院患者の声だろう。かすかな声を聞きながら、那牟智は、ここが夜更けの病院であることを改めて思い出した。
「病院で幽霊とか見ないのか?」
と狂介がふいに聞く。
「見ないよ」
と那牟智。今のところ、病院では不思議と見たことはなかった。
「ふうん」
と狂介。わかったのかわからなかったのかよくわからない相槌を打って、廊下を曲がれば彼の部屋だった。狂介がドアを開ける。那牟智はドアを抜けながら、狂介を振り返る。
「でも、将馬の奴、今度はどういうつもりなんだ?もう爺さんの血がどうのってのはあきらめたんだろう?」
と言う。狂介はドアを閉める。そして、そのドアに寄りかかり、
「それが、」
と言った。
「あきらめてないんだよ」
急に後ろで声がして、那牟智は驚いて振り返る。目の前には将馬が立っていた。
十三、おしまい
爺さんが歩いている。
お気に入りの大島紬を着て、爺さんがせかせかと歩いてきていた。
あれは確か小学校の校門の前だ。爺さん、その学校にはもう俺はいないよ。心臓発作で倒れたってどこの馬鹿が電話しやがったんだ。俺はもう発作は起こさないし、爺さんのおかげで健康になったんだ。母さんは泣いてたっけ。爺さんとの折り合いは決してよくはなかったけれど、だから、かえって泣いていたっけ。お義父さんのおかげで、って言っていたのが切れ切れに聞こえたのを覚えている。
父さんはとっくに死んじまってて、母さんはきっと苦労もしたのだろう。俺はみんなから可愛がられていたから、そういうことは考えもしなかった。
俺はもう健康になったんだよ。
俺はもう──
何かが早鐘のように鳴っていた。どこかから駆け足でやってきていて、抗っても無駄だった。それは痛みであったし、倦怠感であった。ああ、嫌だ嫌だ、だが、しかし、目が醒める。
目を開いてみると、そこは明るい日溜まりの中だった。
夢、だったのか。
そっと起き上がろうとして、でも、腕が何かに引っぱられて那牟智は身動きが取れないことに気づく。左手をそっと引っぱってみると、それは点滴の管だった。
病院。
冷たいベッド。
薄い白い布団。
布団と呼ぶには軽すぎる布団の頼りない重さを膝で蹴って、そうっと足を立てる。日溜まりと思ったのは蛍光灯の灯りで、その中に一人の男が立っていた。
白衣を羽織り、ポケットに両手をつっこみ、彼は顔をそうっと近づける。
「キョウスケ」
「那牟智、目、醒めたな」
狂介の顔が明るく笑った。こいつもいい年だが、子供のように屈託なく笑う。昔からそうだった。よかった、と狂介が言う。那牟智は思い出した。
がばっと起き上がる。左腕に刺さっていた点滴の針が思わずはずれて、激しい痛みが走った。
「おいおい、」
と狂介は驚いてベッドを回り込んでくると、
「乱暴だな。命が惜しくないのか?」
とベッドに透明の汁を滴らせている点滴の管を拾い上げた。
「…将馬はどうした?」
狂介の部屋に立っていた将馬。彼は嬉しそうに、まるで舌なめずりでもしたそうに口を歪めて立っていた。
あれが夢のはずはない。
狂介は両の眉を大きく引き上げる。
「でも、那牟智」
何に対して、でも、なのか、よくわからないまま、そう言って、
「心臓は取ってないよ」
「当たり前だ」
そう言いつつ、それでも那牟智は右手を心臓に当てる。手に確かな鼓動。早鐘のようになる心臓。でも、それでもてっきり那牟智はあの時、狂介の部屋で将馬に捕まった時、これでおしまいだと思ったのだった。こいつならやる、と思ったのだった。
狂介がちょっと笑った。嬉しそうな笑顔が白い、細面の顔に広がった。
「心臓じゃなくて、骨髄もらったんだ」
とその白い笑顔が言った。
「え」
「だから、骨髄。いきなり心臓なんて物騒だから、とりあえず骨髄で様子を見ようってことになってさ」
「様子を見よう、って…お前、将馬とぐるだったのか?」
「違うよ。人聞きの悪い」
と狂介は綺麗な眉をひそめて、
「あの時、チズコさんが電話してきたのは本当だよ。将馬はその後、来たんだ。で、やっぱりどうしても那牟智の心臓がほしいって言ってきかなくてさ、俺、説得しきれなくて。だからって、はい、そうですか、じゃあ、那牟智に心臓ください、というわけにもいかないだろう?だから、」
とりあえず骨髄で、ということになったのだ、と狂介はまるで旅行先の相談でもしているように明るくにこやかにそう言った。
本当にそうだとすれば那牟智は狂介の機転で助かったことになる。那牟智は複雑な顔で、
「…で、将馬は?」
「死んだよ」
「──」
「拒絶反応起こして」
那牟智は黙る。狂介の口元にはまだ微かに笑みが残っていた。
まさか、と思った。まさか、
「──わざとじゃないだろうな。まさか拒絶反応が起きるとわかってて…」
「うん」
狂介は素直だった。
「狂介」
でも、と言う。
「でも、それは将馬自身も知っていたんだよ。それでもやってほしいって言うから、」
彼は肩をすくめると、
「断れないじゃないか」
那牟智は黙っている。何だかとても気分が悪かった。
ほら、と狂介。
「顔色悪いよ」
彼は那牟智の袖をまたまくり上げる。その腕にまた点滴の針を刺すつもりなのである。那牟智は腕を取られるに任せる。
「…いくらもらったんだ」
「家と土地の権利書くれたよ」
那牟智の目が驚いたように狂介の白い顔を見上げた。が、狂介は予想していたように、
「でもね、それはそのまんまチズコさんに返すつもりだよ」
言いつつ、そうっと針を微かな痛みと共に皮膚の下へともぐらせた。
「だって、」
と狂介。
「将馬のあんなちんけな家もらっても、俺はどうしようもないよ」
顔を上げる。そして、
「俺は那牟智が健康でいてくれることが一番なのさ」
「…正しくは、」
と那牟智。ようやく気がついた。
「俺のからだ、だよな」
狂介はにっこり笑った。
「網膜に写らない物を見、鼓膜を震わさない物を聞く、あんたのからだは俺の最大の楽しみだよ。現代医学では那牟智みたいなのは幻覚としてしか判断できない。だけどね、小さい頃から大黒の爺さんを見てきた俺はそれだけじゃないってことを知っている。大黒の爺さんがいるはずもない人を見る。その同じ時間に何千キロも離れたところでその人が死んでいる。心理学者ならユングの共時性とでも言うかな?だが、共時性って何だ?ユングだってフロイトだって医者でありながら全ての理論を思弁だけで築き上げている。だが、俺は違う。お前という実体が目の前にいるんだからな」
「──俺が死んだ時には献体してやる。思う存分、調べるんだな」
いやだなあ、と狂介が笑う。屈託のない笑顔である。
「死んだ君になんて興味ないよ。現代医学を超えたところにいるのは器の中に入っている、那牟智そのものなんだから」
人間が人間として生きていくことは難しいのだろうか。人は我が身に起こってくることを全て解釈し尽くそうとする。わかりやすい理解の中に納め尽くそうとするのだが、それを超えた理不尽がその理解を超える時、人は時にわざと気づかないふりをする。ただ自分の我欲を全うしたいために、人は理不尽な運命の前にあっさりと正しい理解を手放すのだろうか。気づかないという偽りの無垢に棹さして人はあっさりとどこか遠くへ行ってしまう。やるせない。切ないまでにやるせない。
夏が来た。
遅れに遅れたレポートを提出するために、イトウは夏休みに入ったというのに電車に乗って雲母の駅へとやってきた。
強い日射しが照りつける中、彼は長い長いコンクリートの階段を下りて、ようやく歩道へと降り立つ。そこから大人の足で五歩。大黒屋はすぐそこだった。寄ってみようか。イトウは振り返るが、まだ店のシャッターは閉まったままだった。もう長いこと、休業の札もないままにシャッターは閉まったままだった。しかたなくてイトウはそのまま学校へ行くバスに乗る。
その次の日もイトウは別のレポートを提出するために、雲母の駅へとやってくる。階段を降り、やはりシャッターが閉まったままの大黒屋を見やりながらバスに乗って大学へ行った。
イトウが雲母の町まで来たのはこの日までであった。夏の間、大学に行く用もなく、雲母の町に行くこともなかった。行くところもなく、イトウは大黒屋のことも忘れて長い長い二か月の夏休みをただじっと家で母親に嫌味を言われながらビデオを見てごろごろ過ごした。
夏休みが終わる。
大学が始まってまたイトウが電車に乗り、雲母の町へとやってくる。駅の長い階段を汗をかきながら降りてきて、ふと見ると、夏の間、締め切っていた大黒屋のシャッターが開いているのを見つける。あれ、と思って、イトウは久々に足を運んでみることにした。
小春日和の気持ちのいい朝だった。
(終わり)
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