オーディンの森
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(ゼロ)の男
電車に乗る。
鈍行で十五分も行くと”雲英”という駅に着く。雲英と書いてキラと読む。
鉱石の雲母のことである。
鉱物の名をもつこの町はかつて炭坑で栄えた町だった。多くの住宅が作られ、数多の学校が子供達を受け入れる活気のある町だった。それでもお決まりのように石炭が堀り尽くされると鉱夫は家族と共に町を出た。誰も住まなくなった団地は廃墟となり、学校の幾つかは廃校となった。校舎が今でも残っているのは取り壊しの金すら町から出ないからである。
それでも、町が商業都市とベッドタウンをつなぐ路線沿いにあるために、駅には今でも電車がやってくる。無人駅だが、それでも客の乗り降りは少なからずあるのであった。
高架のため、駅は高い所にある。コンクリートのホームに降りてコンクリートの階段を下りる。よく日の当たる高架下には排気ガスで煤けた白いガードレールがある。そのまま歩道を右へと歩く。大人の足で歩いて五歩。木造二階建ての家があって、不釣り合いなほど大きく古ぼけた看板が掲げてあった。”大黒屋”と大書されて、そこは創業かなりの古本屋なのだった。
店の奥ではいつも一人の男が店番をしている。今年三十になったばかりだが、四、五才は若く見える。およそ古本屋とも思えぬ一張羅の皮ジャンをいつも着て青いジーンズをはいている。細くて長い手足をまるで折り畳むようにして、いつも一人で店の奥に座っているのだった。
「いらっしゃいませ」
の声も聞かない。もっとも愛想のいい古本屋なんて見たことないが、この男の不愛想は少し感じが違っていた。仏頂面というのではない。白い細面の顔はいつも下を向いていて、うっすらと笑みを浮べていた。その笑みは自分が今、読んでいる商売物の古本へと向けられているのだった。
店には窓が一つもない。通りに面した側は一応、ガラス貼りになってはいるが、そこにも本棚が置かれていて日はほとんど射し込まない。壁という壁は全て本棚で天井まで届いている。店の中にもおなじようなのが縦に三つ、並んでいる。天井には通路ごとに三つ、裸電球が灯っている。レジの脇の蛍光灯だけが異様に明るく、客に不親切この上なかった。だが、この店番は気にしない。自分が本を読むのに事足りれば別にそれでいいのである。
本棚には稀覯本の類はまるで置いてない。文庫本や、売れまくってその価値が摺り切れてしまったかつてのベストセラー本、古いマンガや雑誌などがほとんどの棚を占めていた。だが、男はそれでいいのである。よしんば稀覯本が手に入っても、本棚に並べたりはしないのである。男自身が無類の収集家なのであった。まるでやる気のない男が曲がりなりにも古本屋の看板を掲げていられるのは大学が近いせいである。この大学の学生達が三月の学期末には辞書やテキストを大量に売りに来て、四月の新学期シーズンにはまとめて買いに来てくれた。
この店番がこの古本屋で万引きを見つけたのは春というには蒸し暑い、早とちりの梅雨のような日だった。もっとも、別に見つけたくて見つけたわけでもない。たまたま入り口の前に立っていただけである。突然、
「許してくださいっ」
と店番の前で、でかい図体を小さく丸めて客の男が声を上げて泣き出したのだった。
「警察や親には知らせないでください!」
客は声を裏返らせて、必死に哀願して叫んだ。それでどうやら万引きらしいと店番にも知れたのである。
万引きしたのは大学生だった。顔じゅうニキビができていて分厚い眼鏡をかけていて、その男がしゃくり上げて泣き続けた。店の男もいつまでも泣き続けられても困るだけである。警察に届けるのもわずらわしくて、
「二度とするなよ」
「はい」
と男は従順だった。
「それじゃあ」
と許してやったが、只で許してはやれない。
「本か、二百円か、どっちかおいていけよ」
万引きした本がちょうど二百円だったからだが、盗人は、いりません、と本を置いた。さすがにあきれて、
「いらない本を盗んだのか」
「…こないだ、ここに女子高生が来てて…」
「は?」
客は唐突に言い出して何の話題かわからない。
「来てたでしょ?こないだの水曜日」
「…ああ、来てたな、そういえば」
さんざめく女子高生が三人、冷やかし半分で入ってきたのは一週間ほど前のことである。散々かしましくさえずって物珍しげに歓声を上げて、挙げ句には店番に根掘り葉掘り訊いていった。年がいくつだとか、本屋って楽しいのかとか、私も本屋になろうかなとか、およそ日本語とも思えぬ言葉を駆使しつつ喋りまくっていったことが確かにあって辟易したのを思い出した。
「あの時、ぶつかられて」
「は?」
「僕、ぶつかられたんですよ」
「女子高生に、か?」
大学生はうなづく。
「…なのに謝りもしなくて」
吐き捨てるように言うと、さも口惜しそうに唇を引き締めた。
「許せないと思って」
「…だからって、店にうさはらしするか?」
いや、そうじゃなくて、と大学生。
「何だか自分だけの場所が凌辱された気がして」
「よせやい」
気持ちの悪い、と言ってしょうがなしに苦笑いする。今時の若い者の考えることは店番にはどうもわからない。
「でも、まあ、」
と取りなし顔で、
「この店を気に入ってくれているんなら感謝はするよ」
と言ったのがいけなかったのだろう。
あの日以来、この万引きは親しげに足を運んでくるようになった。
「イトウです。僕、イトウです」
聞きもしないのに名を名乗り、
「ダイコクさん」
と教えもしないのに馴れ馴れしく呼ぶようになった。ダイコク、は確かにこの店の男の渾名である。常連客や取引先がそう呼ぶのを聞いてイトウも倣っているのであった。
「ダイコクさん、本名は何ていうんですか?」
と通い始めて三日目に聞いた。
「おおぐろ」
とダイコクは言う。別に教えてやれない理由もない。あ、とイトウは存外に飲み込みが早かった。
「だいこくや、じゃなくて、ホントは、おおぐろや、なんだ。」
店の屋号である。
「そう」
とダイコクは言った。表の看板には大黒屋と大書されている。
「大抵は、だいこくや、って読むね」
屋号としては確かにこっちの方が商売繁盛しそうである。
「おおぐろ何、ですか?」
どうもイトウはダイコクに興味があるらしい。でも、別に教えられない理由もなくて、
「おおぐろなむち」
「はあ?」
イトウは一度では聞き取れない。
「なむち、だよ。」
大黒那牟智と紙切れに書いてやる。思い切り妙な名前である。
「何ですか、那牟智、ってのは」
「那牟智、ってのは蛇、の意味だよ」
巳年生まれなのと那智の出身だったのとで爺さんがつけてくれたとダイコクも説明には慣れている。
「変わった名前ですね」
大抵の者はそう言った。
「僕、」
とイトウ。
「オカルト研に入っているんです」
名前の話題はそれで終わったようだった。イトウが自分の話をしないのは自分の名前が嫌いだからかもしれない。でも、別に聞かなければいけない話でもない。
「おかるとけん?」
とダイコクも一度では聞き取れない。
「オカルト、ですよ。幽霊とか怪奇現象とかを調べているんですよ」
「どうも最近の若い者のすることはわからんね」
とダイコクが嘆息するとイトウはむっとしたようだった。珍しく憤慨の気配を見せて、
「この世には目に見えない物が存在していても別におかしくないと思いませんか?」
人には誰でも譲れないものがあるものだが、きっとこれがイトウのそれだったのだろう。
「そりゃあ、まあ、賛成だがね」
とダイコクは逆らわない。その返答は満足だったと見えて、イトウは恍惚と空(くう)を仰ぐ。そして、
「僕、一度でいいから、幽霊、見てみたいなあ」
と呟いた。ダイコクはやっと顔を上げる。
「何だ、見たことねえのか?」
「ありませんよ、そりゃあ」
ダイコクはあきれて、
「それでよくオカルト研なんてやってんな」
「だって、幽霊ってそんなちょいちょい見えるもんじゃないでしょう」
「そうかあ?」
「そうですよ」
「俺はちょいちょい見てるけどなあ」
と言ったのがまずかったのだろう。この日からイトウの大黒屋通いが本格的に始まった。
「最近では、いつ見たんですか」
とイトウは店に入ってくるなり一直線にレジの所まで来ると、開口一番そう言った。折角来るのだから本棚の一つでも眺めてくれればいいのに、とダイコクは思うが、そういうことには気がつかない。入り口から店内を覗くと真正面にレジが見えるから居留守の使いようもなかった。
「そうだな、」
とダイコク。別に言えない理由もなくて、
「最近、だと、…ホラ、」
と外を指差す。イトウはひっと肩をすくめて指の先を怯えたように見た。ダイコクはあきれて、
「馬鹿か、お前は」
「だって、」
「ほら、そこの先にコンビニ、あるだろう?」
「え、ええ、ええ、ありますけど」
「あそこ」
「は」
「幽霊だよ」
「幽霊が、ですか?」
「うん」
「…コンビニで何してるんですか?」
「雑誌、立ち読みしてる」
「…ダイコクさんっ、」
イトウはいきなり声を荒らげた。
「実はオカルト嫌いなんでしょうっ!」
まるで大袈裟に声を裏返して叫ぶ。ダイコクにはわからない。
「…なんで?」
が、イトウはまるで聞いていない。ますます憤って、
「オカルトが嫌いなもんだから、僕を馬鹿にしているんだ!」
「…だから、何で?」
「そんな、コンビニで立ち読みしてる幽霊なんて、子供でも信じませんよっ!」
「なんだ、信じねえのか」
とダイコク。別に信じてもらう義理もない。
「ま、普通は信じねえよなあ、コンビニの幽霊なんて」
とだけ言うと無表情に顔を伏せた。手元の文庫本に目を落としたのである。
「…何の本ですか?」
「『古代国語の音韻に就いて』。」
「何ですか、それ」
「橋本進吉博士を知らねえのか?」
「知りません」
これだから今時の大学生は、とダイコクはぼやく。
「そんなことより、」
とイトウ。今時の大学生にとって橋本博士はそんなこと、である。
「そのコンビニの話、」
「ああ、信じたくなきゃしょうがねえけど」
「本当なんですか?」
「…あんた、からかってどうするんだよ」
ダイコクはあきれて顔を上げる。
「きっとあんたの言う幽霊って、もっとおどろおどろしてて怖ろしいもんなんだろうな」
揶揄るようにそう言った。
実際、一番現実に搦め取られているのは案外こういう奴らだろう、とダイコクは妙に納得する。
「ダイコクさん」
現実の虜囚が顔をぐいっと近づけた。
「連れてってください」
「コンビニに、かあ?」
「はい」
「一人で行きやがれ」
子供じゃあるまいし、とダイコク。が、
「お願いします」
両手をついて頭を下げられてしまった。ダイコクは嘆息する。
「それじゃあ、今夜来い」
「夜ですか!」
「普通、夜だろう!夜がこわくて幽霊見たいなんて言うなっ!」
「…ハイ」
妙に元気のない声が応えた。別に一緒に行ってやる義理もなかったが、何だかこの男につきまとわれる方が怖くて厄落としの意味でつき合ってやろう、と思ったのだった。退屈しのぎの気味もあったが、何だか、現実の虜囚に搦め取られたような気分だった。
二、コンビニ
雲英一丁目は住宅街だ。
かつては炭鉱関係の事務所が多く立ち並んでいたが、今ではそうした古びた町並みは一掃されて、口を拭ったように真新しいマンションが建っていた。特にワンルームマンションが多いのは大学が近いせいだろう。おかげで角のコンビニは深夜でも客に不自由しなかった。女性客が遠回りするような本のコーナーにも、正体不明の男達が毎晩同じ顔ぶれで、同じ順序で、お行儀良く並んで立ち読みをしていた。お行儀いいのは別に礼儀正しいわけではなくて通路が狭いから自然そうなるだけの話である。人間に礼儀を教えるのはつくづく環境だな、とダイコクは思ったりもするが、それもどうも違うような気もする。その無言の列に、九時頃になるといつも黄色いブルゾンを着た若い男が加わる。どっかの赤い野球帽をかぶって洗い晒しのGパンにスニーカーを履いた、いつも見ても同じ格好。いつもコンビニの硝子戸を押して入り、脇目もふらずに雑誌のコーナーへ行く。そして、いつも列に並んでお行儀良く雑誌を立ち読みしている。本人も回りも気づいていないようだったが、その実、とっくに死んでいる男である。あるいはこの男に気づいている者の方が少ないかもしれなかった。
「気にならないんですか?」
とイトウは息巻いて聞いた。
夕方六時を回る頃にやってきて迷惑この上ない。
「夜の九時だって言っただろう」
「だって、怖いじゃないですか」
と言われて文句を言う気も失せた。
「幽霊なんて、」
とダイコクは店のシャッターを下ろしながら、
「いちいち気にしていたらきりがないよ」
「そんなもんですか」
「そんなもんだよ」
俺も気にしないし、あっちも気にしない。
「興味をもって憑いてでも来られたらそっちの方が怖いじゃないか」
お前みたいに、と言いたかったが、さすがにダイコクもそこまでは言わない。そういうこととは露も知らず、へえー、とイトウは感心する。
「ダイコクさんでも怖いんですか?」
「当たり前だ」
俺を何だと思っているんだ、とダイコク。
「見える人はみんな、超能力かなんかあるんだと思ってました」
「あのな」
「だって、幽霊をお祓いできたりする人いるじゃないですか」
「俺はできないし、やりもしないよ」
「でも、」
とイトウはつと下を向くと、
「何かにその力、生かさないと勿体ないですよねえ」
と呟いた。その様子が、まるで道に落とした大福餅でも見ているようで、ダイコクはおかしい。ダイコクじゃなくてダイフクだ、と一人ごちながら、
「そうか?」
と答える。そんな力があったってなくったって世の中は回っている。
「俺はさ、」
とダイコク。
「何にもしないよ」
「何にも?」
「そう。何にもしない、ちょうど針の振れない真ん中あたりが居心地いいね」
「針って、気持ちの針ですか?」
「うん、感情の針だね」
その針を静かに真ん中に置いておく。
「目盛りでいや、ゼロ、だな。ゼロでいるのが気持ちいいね」
大きく動く気持ちを静かにゼロに置いておく。激しやすい感情を御してそうっとゼロにしておいて、それで見えてくることもある。
「かっこいいな」
とイトウ。
「ゼロの男ってやつですか」
「あんたは?」
とダイコク。
「僕はヴァーチャルな男です」
ゼロの男は笑った。
「よおうく自分でわかってるじゃねえか」
ついでに煩悩の男だ、と揶揄ると、今度はイトウは怒った。それは自覚していなかったらしい。
そんなこんなで夜も更けた。
二人は連れだって出かける。
「遅くなってしまいましたね」
とイトウ。
「お前が戻ってこないからだ」
とダイコク。九時までには時間があり過ぎて、時間つぶしに、とイトウはどこかへ出かけ、結局、戻ってきたのは十時近くになってだった。
「お前、」
とダイコク。
「ビール飲んできただろう?」
「わかります?」
ダイコクは応えず、
「畜生、俺も飲んでくればよかった」
と一人ごちた。
ガードレールをまたいで車道に出る。左右を見ても車のライトは見えない。住宅街だけにこの時間帯は静かだった。遠くでかすかに車の走り去る音が聞こえたが、すぐに途切れてしまう。何か聞こえてふと耳を澄ますと、それはたいてい自分の呼吸の音なのだった。足音だけに耳を済まして歩いていると直に闇の中に光の箱が浮かび上がる。角のコンビニである。
「いますかね」
とイトウ。幽霊のことである。
「そうだな」
とダイコク。
確かにこんなに遅くは来たことがない。コンビニの硝子戸に手をかけて大きく押してドアを開けると、いらっしゃいませ、と明るい声が店内に響いた。
あ。
ダイコクは思わず立ち止まる。
ドアからまっすぐの雑誌のコーナーに今日も男達がお行儀よく並んで立ち読みをしている。
「いますか?」
とイトウが聞く。
「見えないか?」
「見えません」
「──雑誌のコーナーのところ」
背広と黒いジャケットと学生服が並んでいた。
「背広のすぐそば、通路のところ」
黄色いブルゾンに赤い野球帽、洗い晒しのGパンにスニーカー。
が、どうしたのだろう。ダイコクはわけがわからなくなった。
「ど、どうしたんですか」
イトウが狼狽えた。既にパニックを起こしかけで聞く。
「幽霊が、」
「ど、どうしたんですかっ!」
素っ頓狂な声を上げて、レジの前の店員が迷惑そうにこちらを向く。
ダイコクにはわからない。
「あいつ、こっち向いてる…」
今夜に限って、幽霊は赤い帽子を目深に被り、庇の下から暗い目を覗かせて、通路に仁王立ちになって立っていた。黄色いブルゾンのポケットに両の手を入れて、少し頬を膨らませている顔は微かに笑んでいるようにも見えた。
あ。
「こっち来る」
イトウはあわてて通路を見るが、やはり何にも見えない。
「ダイコクさん!」
イトウが狼狽していたが、ダイコクはとりあえずそれよりも幽霊だった。
死んだ男はゆっくりとこちらへ近づいてきていた。どんどんどんどん近づいてきて、ダイコクとすれ違う。ダイコクは狭い硝子戸の隙間をからだをかわして空けてやった。が、幽霊は一瞥もくれず、それでも、からだを斜めにしてその隙間をすり抜ける。目の前を赤い野球帽がかすめて通る。布地の織りまで見えていて、生きた人間とも思えるが、その向こうにイトウが透けて見えて生身であるはずはなかった。目で死んだ男の後を追う。透けた後ろ姿が闇の中へ溶けるように遠ざかりつつあった。
「行こう」
とダイコク。
「一体、何があったんですか?」
「出て行っちまった」
「え」
「つけよう」
そう言うなり、ダイコクの手が硝子戸から離れる。静かに閉じようとするドアには目もくれず、ダイコクとイトウは闇の中へと走り出した。
何かまずいことをしたのかもしれない。
暗闇の中を走りながらダイコクは思う。針はゼロに置いておくと決めていたのに。胸のあたりがざわざわした。
目の前の闇に辛うじて見える白いスニーカーを追って、ダイコクは走った。自分の息遣いだけが異常に大きく響く。それでも目の前のスニーカーを見失うまいと必死に目を凝らして追った。白いスニーカーがまるでスローモーションを見ているみたいにゆっくりと地面を蹴る。もう一方の足が追いすがるように宙に浮く。もう一度。そして、もう一度。そのペースは少しずつ遅くなるように思われた。そして、もう一度。もう片方が地面を蹴る。そして、もう一度。が、宙に浮いた足はもう地面に下りてはこなかった。
見失ったか。
ダイコクは辺りを見回す。
が、やはり辺りには何もいない。ふと右手が明るくて、気がつくといつのまにか歩道沿いのビルの前に立っていた。黒っぽい外壁。見上げると通路の電灯が煌々と闇を滲ませている。数えて五つの通路が縦に並んでいて、一階を加えて六階建てのようだった。
「どうなったんです?」
はあはあと息をはずませながら、イトウはようやく追いついて息と同時に掠れた言葉を吐き出した。そして、ようやく目の前に聳えるビルに気づいて、
「ビルですね」
言わずもがなのことを言った。
「幽霊は?」
「ここで消えちまったよ」
「じゃあ、このビルに?」
「さあ」
言って気がつく。ビルの入り口の前、何か光っている。何だろう。ダイコクが拾い上げる。急にしゃがみ込んだので驚いたのだろう、ひいっとイトウが声を上げた。ダイコクはあきれるよりおかしい。
拾い上げてみると、それは銀色に光る腕時計だった。落として間がないのだろうか、ガラスに傷もない。文字盤に一つ一つ石が埋め込まれていて、細い針がちっちっちっと時を刻んでいた。
「高そうな時計ですね」
おずおずと覗きこみながらイトウが言った。
「もらっちまおうか」
冗談めかしてダイコクが言う。
「幽霊のかもしれないですよ」
「よせよ」
と笑った。
もう一度ビルを見上げる。
「もういいです。帰りましょ」
急にこわくなったのか、イトウは言った。
「もういいのか」
「ええ」
で、とイトウ。
「今晩、泊めてくれませんか?」
「馬鹿野郎、とっとと帰りやがれっ」
「だって、怖いじゃないですか!」
「幽霊、見える奴といる方がもっと怖いんだぞ。憑いていることあるからな」
「…やっぱりタクシーで帰ります」
イトウとはそこで別れた。
ダイコクはジーンズの膝のあたりを手で払う。埃を払ったつもりだったが、他の何かも払ったような気がした。それが何なのか、その時は自分でもよくわからなかった。
一張羅の皮のジャンバーに首をすくめ、ポケットに両の手を突っ込む。どこかで犬が遠吠えしていた。
「さて」
と一人ごちて、家へと帰る。家はあの古本屋の二階である。
ぎしぎしと古い二階家は歩くたびに音を立てる。階段は狭く、おまけに急勾配で暗かった。戦前から残る木造二階家であるが、建て替える気は今のところない。金もないし、何よりも祖父が残してくれた形見でもあったから急いで崩す気にはならなかった。木の部分はとっくに飴色になっている。飴色の壁沿いに飴色の段を踏み上がる。上がり切ると二階である。八畳一間しかない。畳の部屋の真ん中には大きなマットレスが置かれている。周囲に沿うようにビールの空き缶が五、六個並べられていた。空き缶はいつもこうして置いていく。置くところがなくなったらゴミ袋を買う。雲母の町では指定されたゴミ袋を買わなければならないのでつい面倒でそういうことになる。缶が一個、転がっているのをダイコクは拾って立てる。缶が倒れると中の滴が畳を濡らして嫌である。別に神経質なわけではない。ビールの滴で汚れた畳を掃除しなければならないのが嫌なのである。しばらくはこの家に住むつもりであるから、早く家が傷むようなことには敏感になっているだけのことである。ついでにできれば掃除もしなくて済ませたい。
枕元には母親が結婚の時に持ってきたという大きな箪笥が置かれていた。正面が観音開きになっていて、大人が一人裕に入れるほどでかい。本当に子供の頃は従兄弟達と隠れん坊に使ってこっぴどく叱られたことがある。やっぱり飴色で今も中には服を入れている。大した服もなくてついでに本棚にもなっていた。そういや、カセットテープもCDも入っている。下の抽出には使えなくなった黒い電話機が入っていたような気がする。財布も入れていたような気がする。
あまり片づけは得意ではなくて、部屋じゅういたる所に新聞や脱いだズボンが放ってあった。台所やトイレは一階である。この部屋には寝るためだけに戻ってくる。
何だかひどく疲れてダイコクはそのまま、マットレスの上に倒れ込んだ。皮のジャケットを脱ぐと、ぽーんと放る。ジャケットはマットレスの足元にぱさりと広がって落ちた。ダイコクの他には誰もいなかったから、次に着るまではそこにあるままである。
そのまま、寝ついたのだろう。夢を見た。
自分はマットレスの上に寝ていた。眠った時と同じ格好で夢の中でもダイコクはマットレスに寝ていた。放ったジャケットまでがそのままだった。何だかひどく寝苦しくて彼は夢の中でもがいた。毛布を抱えて、ひどく苦しかった。そんな自分を誰かが見ている。そして、笑っていた。女の声のような気もした。笑っている。笑い声が聞こえる。
誰だ。
そう自分は言ったような気がする。
やっと。
声はそう応えたような気がする。というより一人ごちた感じであった。
やっと?
何かがからだに巻きついてくるのを感じる。もがきながら聞き返す。
蛇よ。
彼の問いには応えはなく、ただそう聞こえた。
蛇?
何で蛇が俺のからだに?
あら、だって、これはあなたにあげるのだもの。
何を言っている。
俺は蛇なんかいらない。
でも、あげる。
からだがしめつけられる。彼はあえぐ。
腹から脇から背中から胸にかけて何か長くて太いものがずるずると巻きついてくる。
ぬめりとした感触がひんやりと肌に張りついてひどく気持ちが悪い。
やっと手に入れたわ。
と女が言ったような気がする。
苦しい。
彼は喘いだ。
俺は蛇なんかいらないんだ。
もう一度言うと。
あなた、那牟智でしょ。
そう言って女の声が笑った。
脇腹が締めつけられる。
肋骨が折れそうになる。
とうとう声を上げた。
ずるずると巻きついていく。
やめろやめろやめろ。
脇腹がぎしっと音を立てた。
骨のきしむ音。
激しい痛みが走る。
鎌首が持ち上がった気配がして、それっきり気を失った。
目が覚めると朝だった。
(三、悪魔 につづく)
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