(ゼロ)の男                         オーディンの森

一、雲英  二、コンビニ  

三、悪魔  四、エレベーター  五、発見

 

六、従兄弟

 

 その日は蒸し暑い一日だった。夕暮れになって大雨になった。黴雨に入ったのである。

「どうにもたまんないすねえ」

イトウは噴き出す汗をハンドタオルでいつまでも拭いながら、本当に嫌そうに眉間に皺を寄せてぼやいた。分厚い眼鏡のレンズが曇っていて、もともと汗かきなのだろう。

「死人が出ても不思議はないわよねえ」

と、いつ来たのか、黄泉比良坂がそのぼやきによくわからない相槌を打った。

「イトウさん、試験、もう終わったの?」

「いやあ、」

と黄泉比良坂に声をかけられて嬉しかったのか嫌だったのか、よく意味のわからない薄ら笑いを分厚い眼鏡の奥に浮かべて、イトウは、

「黄泉比良坂さんはよくここにいますよね」

とさらにわけのわからない言葉を返す。

「黄泉比良坂さんはダイコクさんの彼女なんですか?」

「あら、」

と黄泉比良坂。

「それもいいわね」

「違うんですか?」

「ほら、」

と彼女は嬉しそうに目を細めると、

「私、悪魔だから」

ダイコクに憑いているの、と嫣然とした笑みで応えた。

「なるほど…」

イトウは真面目な顔で相槌を打つ。馬鹿馬鹿しい、と那牟智は頭が痛い。

「はいはい、商売の邪魔だからあっち行ってね」

読みかけの本から目を上げようともせず、那牟智は右手をひらひらさせると二人を追い払うような仕種をした。

「商売の邪魔、って、」

とイトウはむっとして、

「ただ本読んでるだけじゃないですか」

「何読んでるの?」

「『雑祭式講義全書』」

入り口に人影が差す。

「ほら、」

とダイコクはようやく目を上げる。

「商売の邪魔だろ」

と言った。人影はすぐに本棚の影に入る。まだやまぬ夕立に降られたのだろう、通った後に水の染みが床に残った。足音が本棚の向こう側から聞こえる。立ち止まる気配がないのはお目当てが決まっているからだろう。こういう客は買う気で来ているに違いなかった。足音が曲がる。

「そうそういつも、」

と那牟智。

「レジの所でごちゃごちゃとお喋りされてちゃ客が寄れないじゃないか」

とこれはイトウと黄泉比良坂とに言っているのである。

「僕はダイコクさんはそういうことは言わない人だと思ってました」

とイトウがお定まりの文句を言う。

「そんなん、勝手に…」

「那牟智」

呼ばれて振り向く。ずぶぬれの背の高い男がレジの脇に立っていた。那牟智は黙る。黄色いポロシャツまでが濡れて、夕立に降られたさきほどの客に違いなかった。短い髪。大きな瞳。褐色の肌。厚い胸。太い腕。見事な体躯。濡れて張りついた黄色いポロシャツに鍛え抜かれた筋肉が透けて見えている。

「将馬」

と那牟智が呼んだ。男はにやりともしない。

「まだこんな所にいたんだな」

と将馬は言った。

「ちっとはまともにやっているかと思えば」

那牟智は黙っている。応えなければいけない道理もない。将馬は初めてその表情を不機嫌そうに歪めると、

「大黒の跡取りだってのにいい年してぶらぶらしやがって」

那牟智はしょうことなしに笑うと、

「お前、何しに来たんだ?」

将馬も、引きずられたように少しだけ笑うと、

「タオル貸してくれないか」

「そういうことはだなっ、」

那牟智はいきなり立ち上がると、

「早く言えっ」

言うなり、奥へ引っ込んだかと思うとだんだんだんっと階段を鳴らして二階へ上がり、まただんだんだんっと下りてきて、黄色いバスタオルを将馬に放った。空を飛んだタオルはふわりとうまい具合に頭にかぶって、それでがしがし濡れた頭をこすりながら、将馬はにやりっと笑った。

「また来るよ」

言うなり、そのまま出ていってしまった。

「なに、あれ」

と黄泉比良坂。

「従兄弟さ」

と那牟智は笑いながら言った。

「従兄弟?」

とイトウ。

「医者だっていう?」

「いや、あれはトライアスロンをやっている方」

「すごい筋肉だったわね」

那牟智は苦笑いを浮かべると、

「肉体の限界に挑むんだとさ。女房子供も仕事もほったらかしでどうするつもりかね」

「仕事?」

とイトウ。

「外資系の会社で働いているよ」

へええ、とイトウ。

「ダイコクさんがゼロの男なら従兄弟さんって人は”トータルな男”ですねえ」

はいはい、と那牟智。

「俺はタートルな男で結構だよ」

「トータル、ですよ」

「だから、俺はタートルって言ったんだよ」

「何ですか、タートルって?」

「…亀、だろう?」

「亀はトータスですよ!」

「…トータスが岡亀で、タートルが海亀だろう…」

僕、試験に行かなきゃ、とイトウ。

「今日は何だ?」

「英語、です」

だめだろうな、と那牟智は言った。縁起でもないこと言わないでください、とイトウは息巻く。縁起って面か、と那牟智は思ったが、イトウの返事は想像できたので口にはしなかった。

「大黒の跡取りって?」

と黄泉比良坂。彼女は出ていった将馬の後ろ姿を追うように、まだ入り口を見ていた。

「俺だろ」

親戚縁者の中で大黒の姓を名乗っているのは今や那牟智だけだからである。

「まったく言いたいこと言いやがって」

那牟智は苦笑いを浮かべたまま、もう見えなくなった後ろ姿に毒づく。

「昔から可愛げのない奴だったけどな」

ふーん、と黄泉比良坂はまだ入り口を見ている。彼女があまりに熱心に見ているので、

「あいつ、女房子供、いるぞ」

那牟智は警告してやる。馬鹿ね、と黄泉比良坂は笑った。

「そんなんじゃないわよ」

甲高い彼女の笑い声が妙に那牟智には耳障りに響いた。

 

 久々にその夜は夢を見た気がした。

 何だろう。何の夢だろう。気がつくとダイコクは寝た時のままに布団の上にいた。何だ、と思う。これじゃあ目が醒めたのと一緒じゃないか。そう夢の中で思っているのがおかしいが、でも、夢の最中ではちっともおかしくはない。だから、やはり夢を見ているということなのだろう。

 わけのわからないことが頭を逡巡しているうちに天井が黒く渦を巻く。

 何だろう。何の模様だろう。

 最近は寝不足で、こんなところで夢を見ている暇などないのだが。

 渦がどんどんねじれていく。

 蛇。

 またか。

 芸がないな、と思った。

 どうも名前のせいか巳年のせいか、蛇には縁があるらしかった。

 蛇ってのは金にも縁があるんじゃなかったっけ。

 暢気にそんなことを考えている。

 一瞬、天井の渦が知っている顔になった。

 え。

 と思った。

 が、次の瞬間、目が醒めた。

 寝汗をびっしょりかいている。

起きた後ではそれが誰の顔だったのかは思い出せなかった。

心臓が早鐘のように打っている。息苦しいほどの動悸にダイコクは深呼吸をせざるを得ない。深く吸い込むとそれだけで胸が苦しかった。動悸は去らない。いっこうに鳴りやまない左の胸をダイコクは右手の人差し指でとんとんと軽く叩く。

 わかった。わかったから。

 言い聞かせるように胸の内で呟くが、何がどうわかったのか、自分でもわかっちゃいなかった。

 

 次の日は大雨だった。

 こういう日はたいてい客は来ないものである。案の定、今日ばかりはイトウも顔を見せず、憑いていると豪語した黄泉比良坂も来なかった。

 幽霊のたぐいは雨の日は出にくいと聞いたことがある。幽霊がいないというのではない。いつでもどこでも幽霊はいるのであるが、大気が湿気を含んでいると見えにくいというのである。本当かどうかは確かめた者もいないからわからないが、いかにも科学的な解説でそう言われると納得できそうである。この世で一番胡散臭いのは実は科学かもしれないとダイコクは思わないでもない。雷を見て、神の怒りだと言うのと、空気中の電気が放電しているのだと言うのと、どこがどう違うのだろう。納得がいくのならどっちでも同じように思えないでもない。

 どうせ客が来ないのだから店を閉めておけばいいようなものだが、彼は店を開ける。今日は来そうだと思った。

 昼過ぎ頃、入り口に影が差す。

「来るんじゃないかと思ったよ」

顔も上げずにダイコクは言った。

「どうしてわかった」

 目を丸くしてそう聞いたのは先日の従兄弟、中田将馬だった。

 手にビニールにくるまれた黄色いタオルを持っていて、

「どうせなら晴れの日に持ってこいよ」

ダイコクは苦笑いをする。まあ、あがれ、と彼は二階へと通す。

「いいのか?」

と階段を上がりながら将馬が聞く。店はいいのかと聞いているのである。

「こんな日に客が来るもんか」

とダイコクは当然そうに言った。

 大の男が二人上がるのだから急な飴色の階段は一足ごとにぎしりときしんだ。

「ここからお前、落ちたよな」

ダイコクがおかしそうに笑う。

「よせよ。小学生の時じゃないか」

弱ったような顔を初めて見せて将馬は小声で抗議した。

 部屋へと入る。今日はマットレスの回りにビール缶がかなり並んでいた。

「相変わらずだな」

将馬は眉をひそめた。そういうだけあって将馬は綺麗好きなのである。

「そう簡単にきれい好きになれるか」

ダイコクは当然そうに言って転がっている缶を立てた。

「黴が生えるぞ」

「黴雨だからな」

言いながら冷蔵庫を開ける。

「何か飲むか」

「いや、いい」

ダイコクは自分だけビールを取り出すと、柱に寄りかかって立ったまま缶を開ける。将馬は薦められないので仕方なく勝手にマットレスに座った。

「カズ、元気か?」

とダイコク。カズは将馬の一人息子である。確か幼稚園に入ったばかりだった。

「まあな」

将馬はうなだれて太い指を弄びながらどうということもない返事をした。

「そか」

とダイコクも応える。それきり何も言わない。丸めた従兄弟の背中を見ながらビールの缶を傾ける。でかい背中が小さく丸まっていてまるでゴミ袋が置いてあるように思えた。

 屋根を叩く雨の音がする。ただそれを聞いている。今さら将馬と話すこともなかった。仲が悪いわけではなかったが、殊更いいというわけでもなかった。どちらかといえば将馬の方は年上の従兄弟を敬遠していたような気がする。この家に従兄弟があまり来なくなったのは中田の叔父の転勤のせいだったか。あるいは祖父が死んでからか。あるいはその両方だったか。

「那牟智」

と将馬がようやく口を開いた。

「これからどうする気だ」

と従兄弟は言った。那牟智は缶から口を離す。

「こりゃまたいきなりだな」

とおかしかった。

「お袋が連絡したか?お前んちに」

「いや、」

と将馬は太い指を相変わらず弄びながら真面目に応えた。

「大黒も今はお前が跡取りだしな、と思ってさ」

確かに今、生きている身内では大黒を名乗っているのは那牟智だけだった。将馬の母ももう一人の叔母も他家へ嫁ぎ、跡取り娘となった那牟智の母も今では再婚して別の姓になっている。

「毎朝、仏壇にちゃんと水あげてるぞ」

と那牟智。

「墓守だってきちんとしている。夏には草取りに行ってさ」

「茶化すなよ」

将馬はむっとした顔で言った。別に茶化したつもりはないのだが、と那牟智は思ったが、将馬はむすりと下を向いていて、とりつく島もない。

「最近、よく爺さんのことを考えるんだ」

と将馬はぽつりと落とし物のように言った。

「お前が?」

「茶化すなよっ」

「茶化してねえだろう」

那牟智が初めて不快な声で言って、将馬は初めて目を上げた。が、すぐにその目が落ちる。

「最近つくづく世の中が嫌になった」

「そうか」

那牟智はさからわない。将馬が弱音を吐きに来たのだとわかったからである。この男が従兄弟に弱音を吐くのである。よほど参っているに違いなかった。

 雨音がしだいに細くなっていく。

「将馬」

と那牟智。

「飯でも喰ってけ」

「うん」

 存外に将馬は素直だった。

 客が来る用意はしていなくて残り物を入れて鍋にする。人参の切れ端や葱や白菜の一葉二葉を適当に切って入れる。豚の小間切れ肉があってそれも入れる。うどんの乾めんもゆでていれる。

「お前、器用だな」

将馬が素直に感心して言った。

「一人暮らしだからな」

苦笑いして那牟智は言った。将馬は昔からこういうことは苦手だった。大きな背中を丸めて将馬は畏まって座っていて、ただ従兄弟の手際を見ていた。那牟智は何だかおかしい。黴雨時だったが、二人はふうふう言いながらただ黙々と鍋を平らげた。

 

 

 七、値札

 

 雨は降り続いて三日後に晴れ間が覗いた。

「なんかいいことあった?」

久々に姿を現した黄泉比良坂はレジの側まで来ると挨拶代わりにそう言った。

「別に」

那牟智は顔も上げずに答える。

「ダイコクさんの表情が読めるんですか?」

と朝から時間を潰しているイトウが驚いたように聞く。だって、と黄泉比良坂。

「ほら、私、悪魔だから」

なるほど、とイトウが言って、馬鹿野郎、と那牟智は胸の内で毒づく。黄泉比良坂は那牟智の手元を覗き込むと、

「今日は何読んでいるの?」

と聞いた。

「『古代技術の復権』」

「ふうん」

黄泉比良坂のコメントは別段なかった。かわりのように、

「こないだ」

と言う。

「従兄弟が来た時」

黄泉比良坂はまだ従兄弟が気になるらしい。

「おかしかったわ」

「雨宿りに来ただけだろ」

「だって、タオル貸してやって」

「貸せって言われたから貸したんじゃないか。別におかしかないよ」

「だって、普通、雨宿りの人には傘を貸すものじゃないの?」

一瞬、沈黙の後、

「そうか?」

ダイコクの目が本から外れる。言われてみればその通りである。くすりと黄泉比良坂が笑った。

「ほら」

と言った。

「目盛りが動いた」

「目盛り?」

ダイコクは怪訝そうに黄泉比良坂を見上げる。

「ゼロじゃなくなったわ」

「ああ」

俺の気持ちの目盛り、と那牟智は合点した。イトウの言っていた戯れ言である。

「俺は」

と那牟智はまた目線を本に戻す。

「ゼロじゃないよ」

ゼロではないのだから、目盛りが動く、もなかった。しかし、

「ゼロと思っていただければ光栄だね」

「嬉しいの?」

「ひっそりと生きていたいのでね」

「年寄り臭いわね」

「結構」

でなきゃ一日店番なんかやってられるか、と毒づいた。何だか今日は気分がいい。黄泉比良坂の戯れ言にも付き合っていい気になっている。

「ねえ?」

と黄泉比良坂。もう一度顔を覗き込むと、

「従兄弟はまた来た?」

「あんた」

ダイコクはあきれて、

「どうしても従兄弟が気になるようだな」

ぱっと見上げた比良坂の顔が将馬になっていた。

 あれ。

「どうしたの」

と黄泉比良坂。

「いや」

とダイコク。

そういえば、将馬はどうして祖父のことを思い出したのだろう。

「先祖の供養でもしたいのかな」

「何?」

「いや」

黄泉比良坂の顔はもういつもどおりの黄泉比良坂だった。切れ長の細い目。形のいい唇。黒く長い髪。

「比良坂さんって、」

とイトウ。

「肩で揺れている髪が綺麗ですねえ」

とイトウ。イトウは比良坂に惚れているかもしれなかった。

「あら、嬉しいわ」

と比良坂は素直に喜ぶ。

「綺麗ですねえ、って面か」

と悪態をついて那牟智はまたイトウを怒らせた。

 那牟智はイトウの抗議の台詞を聞き流して黄泉比良坂を改めて見る。目の前の黄泉比良坂の髪は腰のあたりで揺れていた。大体最初からこの女の髪はこのくらい長かった。それを肩で揺れている、と表現するものかなと思った。何だかイトウとは見ているものが違うような気がした。

「女性は誉めなくちゃ」

とイトウ。

「あら、それって今のはお世辞ってこと?」

と比良坂。違いますよ、と嬉しそうに否定するイトウから目を離して那牟智はまた本に戻る。

 黄泉比良坂の髪の長さがどうだろうとダイコクはそれを確かめる気はない。だいたい誰が悪魔だろうと人間だろうとどうでもいいのである。悪魔や人間という言葉でくくってしまうことの方に抵抗があったと言っていいかもしれない。

 どうもダイコクには言葉に値札がついているような気がして仕方がない。言葉で呼んでしまうと値がつくような気がするのである。値がつくと何でもつまらなくなってしまうのは何故だろう。人への心のざわめきを恋と呼んでしまうことの退屈さ。走り回る子供を小学生と呼ぶことのつまらなさ。イトウを大学生と呼べば無味乾燥だし(あんな男が大学生という言葉でくくれるものか)、あの女が悪魔とくくられることも実にくだらなかった。だが、勝手なもので自分という人間は古本屋の親父という言葉の影に隠れてけろりと生きていたいのである。

「そういやテストは?」

と比良坂が聞く。

「英語が駄目でした」

とイトウ。

「当たり前だ」

とダイコクが断じて、

「何でですか」

とイトウが息巻いた。

「梅雨は嫌だねえ」

「ごまかさないでくださいよ」

「なんかさあ、からだに皮一枚かぶったみたいな気がしねえか」

「しませんよ」

「いいねえ、お前は鈍くて」

 入り口に影が差す。いやあ、と甲高い声が聞こえて、つられてダイコクは顔を上げる。頬のこけた女が一人、からだの割りに幼い顔つきの子供をつれていた。いやあ、と言ったのは子供である。子供がむずがっているのである。古本を買う客には見えなかった。あるいは本好きの親子かもしれない。ダイコクは興味もなくてまた顔を伏せる。

「あのう、」

やけに最後の”う”に力を入れて声をかける者があって顔を上げると、来たばかりの親子連れだった。母親が身を屈めておずおずとイトウの後ろからこちらを伺っていた。

「あ、やっぱりおおぐろさんだ」

痩せた女は微かな喜色を口の端に浮かべて、ダイコクは記憶を辿る。

「チズコさん?」

「はい」

思い出した。将馬の奥方だ。

「うちのはこちらに伺いませんでしたでしょうか」

と奥方は単刀直入に聞いた。将馬は”うちの”という言葉でくくられていた。チズコという女は将馬の妻という言葉でその人生をくくられているわけである。くくられる人生というのはどういうものだろう。ダイコクには、死ぬほど退屈か、あるいはそのことに気づかずにくくられた範囲内を幸せと呼んでいるかのどちらかのように見えた。が、あくまでもそれはダイコクの意見である。

「将馬がどうかしましたか」

とダイコク。

「それがちょっと、中田の祖父が痴呆症で入院しましてからは、なんていうんですか、ちょっとふさぎ込んでいる風でいまして」

痩せた頬骨を上下させながら彼女は回りくどい言い方をした。

「雨宿りに来たことはあるけど」

「また寄りましたら家に戻るようにお伝え願いませんか」

家に戻っていないのか、という言葉を飲み込んで、

「言っておきましょう」

と言った。有難うございます、と彼女は深々と頭を下げると、用件は済んだようだった。それ以上の会話をするつもりはないらしく、並ぶ本棚に目もくれず、相変わらずぐずる子供の手を引っぱって出ていってしまった。

「何、あれ」

と黄泉比良坂が見送りながら聞く。

「従兄弟の奥方だよ」

「何だかやつれた感じの人ですね」

もう見えなくなった入り口の彼方に彼女を見やりながらイトウが感想を述べる。

「昔は綺麗な人だったけどな」

値札がついちまったからな、とダイコク。

「値札ですか」

「値札だね」

はあ、と言ったが、イトウにはわからない。別に教えてやらなければならない理由もない。

「値札がついちまうとさ」

とダイコク。

「書画骨董も値段相応にしか見えなくなるもんだねえ」

そういうものですか、とイトウは言った。

「小泉八雲の話に”果心居士の話”ってのがあってさ、織田信長が、」

「こいずみやくも?」

イトウは知らなかった。まあ、教えてやる道理もない。

 将馬が鬱ぎ込んでいる理由がわかったのは那牟智には有難かった。

 人のこと跡取りがどうの、と言いやがって。

 大黒の跡取りという値札をつけにきた従兄弟を那牟智はちょっとだけ不愉快に思い出した。

「ねえ」

と黄泉比良坂。

「私のこと、好き?」

「はいはい」

どうも最近は従兄弟だけでなく、悪魔も調子が悪いみたいだった。

 

 

 八、遺伝

 

 黴雨である。雨が降らない日の方が珍しい。その日もまた雨だった。

 ふいに入り口に影が差して、

「よう」

とダイコクは言ってから顔を上げる。果たして影の主は将馬だった。この前来た時と同じ黄色いポロシャツを着て、やはりびっしょりと濡れていた。シャツが胸に張りついてシャツの上からも鍛えられた筋肉がよくわかる。まるでプロレスラーだな、とダイコクは苦笑する。

「よくわかったな」

と将馬は無邪気に言った。

「来る頃だと思ってたよ」

と那牟智。

「何でわかった?」

「お前が暇っていったら雨の日くらいだもんな」

晴れている日にはいつも公園を走っているような男なのである。

「なるほど」

今度は将馬も納得した。待ってろ、と言うと二階からまたタオルを持ってくる。この間と同じ黄色いバスタオルを同じように放ってやる。将馬はやはり同じように黙って濡れた頭を拭きだした。

「お前、会社はどうしてるんだ?」

とダイコク。将馬は眉間に皺を寄せる。

「何故だ?チズコが来たのか?」

「昼の日中に暇なのは失業者くらいなもんだろう」

平日の真っ昼間だぞ、と冗談めかして言うと、ああ、と将馬は気弱く笑って、

「仕事はやめたよ」

「え」

「考えるところがあって会社をやめたんだ」

「生活はどうするんだ」

が、将馬は店を見回して、

「お前には言われたくないな」

軽い軽蔑をこめて言い返した。昔からこういう奴だった。那牟智は苦笑する。

「まあ、俺も何とか生活していけてるがね」

「いいな、暢気で」

「独り身だからな」

着替えを貸してやろう、と二階へ誘う。将馬は黙ってついてくる。階段は大きな体躯の男の重みに耐えかねてぎしっぎしっと音を立てた。

「シャワー浴びるか?」

「いや、いい」

部屋に入ると従兄弟はマットの上に座り、黙って黄色いポロシャツを脱ぎだした。

「おい」

那牟智は苦笑する。

「え?」

「濡れたままで座るな」

「あ。悪い」

仕方がないな、と那牟智はタンスを開いて奥の引き出しから白いTシャツを取りだして将馬に放った。

「あのな、那牟智」

白いシャツに手を通しながら、将馬が意を決したように言う。声がまるで掠れてて、何だか違う人間のようだった。

「痴呆症になった人間って見たことあるか?」

「あるよ」

と那牟智。

「大黒の曾祖母さんが痴呆になって、俺が世話をしたもの」

「…そうだったな。…今さ、中田の爺さんが痴呆症になっててさ」

「そうなのか?」

「ずいぶんと長いこと一恵が面倒見てたんだけど、今度病院に入るようになったんだ」

一恵は将馬の姉の名前である。

「一恵さんとこは共稼ぎだったからな、大変だったろうな」

「ああ、あいつは仕事をやめたよ」

「だろうな」

「で、俺も最近見舞いに行くんだけど、」

将馬はそこで一区切りすると、大きく息を吸い、

「俺のこともカズのことも覚えてないんだ」

と吐き出すように言った。那牟智はそっと笑うと、

「そうだな。そういう人多いな」

「おむつ当てられててさ」

「そうか」

「見てられなかったよ」

那牟智はそっと微笑んで、何も言わなかった。

「なあ、」

と将馬。

「ん」

と那牟智。

「昔、爺さんが生きていた頃、いろんな奴が相談に来てただろう?」

「大黒の?」

「そうだ」

「ああ」

そういえばそうだった。

「あんなのインチキだって俺、思っててさ」

と将馬はちょっとはにかむように笑う。那牟智は苦笑すると、

「ああ、そうだったな」

「でもさ、あれで救われてる人もいたんだなって今にして思うよ」

「そうか」

だからさ、と将馬は珍しく明るい表情を従兄弟に向けると、

「俺はお前の力を生かすべきだと思うんだ」

と言った。は、と思った。突然、意味がわからなくなった。力?何だろう。

「力ならお前の方があるだろう」

なんてったって鉄人レースを制する男である。が、

「そうじゃないよ」

と将馬は言った。

「お前のその不思議な力だよ」

将馬の瞳に喜色が浮かんだ。

「不思議な力?」

なんだろう。

「お前には不思議なものがいろいろ見えるじゃないか。爺さん譲りの」

ああ、と合点する。ああ、なるほど、その力。

「不思議なもの、はよかったな」

と那牟智は茶化したが、将馬は無視して、

「お前は俺達が見ないものをよく見ていた。俺はそんなお前を気持ち悪がったもんだったが」

「そうだったな」

「──お前はその力を社会や世のために生かすべきだよ」

「は」

「いいか、那牟智」

将馬はいたって真面目だった。真剣そのものの顔で鼻の頭を膨らましながら、

「お前のその力は遺伝だ。大黒の家には時々そんな力を持った者が出る。爺さんがそのいい例だ。お前はその血を一番濃く受けているんだ」

「まあ、そうだろうな」

「だから、お前はその力を生かさなけりゃならないんだ」

「だから、何でだよ」

那牟智は仕方なしに笑う。将馬は真面目に、

「それが持てる者の義務だ」

「義務?」

もう我慢できなかった。那牟智はこらえきれずに声を上げて笑い出してしまった。

「お前、たちの悪い漫画でも読んだのか?」

悪い冗談である。笑いが止まらない。

「何でこんなものが力なんだよ。幽霊見る奴なんて山ほどいるんだぜ?それで世間が変えられるか?それで変えられりゃ苦労はないさ」

理不尽の理屈はどこにでも動いている。それが現実というものだ。あるいは将馬は今初めてその理不尽というものに出会ったのかもしれなかった。それはわからないでもない。だが、それを他人の義務に置き換えられてはたまらなかった。

「まあ、いろいろあるだろうけどさ、」

那牟智は、だが、この気の毒な従兄弟に腹は立たなかった。確かに大変な時なのである。

「とりあえずは頑張ってみろよ。考え方もそのうち変わるよ。俺も曾祖母さんにはいろいろ悩んだけどさ、そのうち、教わることも出てくるからさ。痴呆の人と向き合うとさ、こっちも結構教わることってのもあるんだぜ」

「いや」

と将馬は頑なに言った。

「そんなことを俺は言っているんじゃない」

将馬はあくまでも自分の考えに固執する。

「俺は俺一人のことを言っているんじゃない。そういう力を持つことで正しい道が見えてくるのじゃないかと思うんだ。ホントなら俺がそういう力を持てれば一番いいんだが、残念ながら俺は選ばれなかったらしいからな。俺一人が苦しくて言っていることじゃないんだ」

選ばれるって何だよ、と那牟智はおかしくてしょうがない。が、それでも何とか笑いを奥歯で噛みしめて、

「──でも、お前、その力、ってそれでどうするんだよ」

「具体的にはまだ何も考えていない」

「お前なあ、」

「が、とにかく自分に見える正しい道を人に説くことだ。とにかく俺一人の問題じゃないんだ。世間全体の問題なんだ」

と将馬は言い張った。お前一人の問題だよ、と那牟智は思ったが、今それを言っても無駄だろう。

「わかったよ」

と那牟智。将馬の顔にぱあっと明るい表情が広がった。

「わかってくれたのか?」

「ああ」

と那牟智。

「だから、とりあえず今日は帰れ」

「ああ」

「また改めて話そう。な?」

「ああ、ああ」

帰る、と将馬は喜々として言った。

 那牟智は将馬に傘と濡れた黄色いポロシャツを袋に入れて持たせ、帰っていく従兄弟を見送った。今日はこれで家に帰るだろう。妻のチズコも息子のカズも今日は大喜びで将馬を迎えるに違いなかった。

 将馬は小さい頃から努力家で自信家だった。有言実行とでもいうのか大言壮語もしたし、言っただけのことは必ず実行してきた男である。そういう意味ではイトウが言うように彼はトータルにこなしてきた男と言ってよかった。その男が今、どうしようもない現実の理不尽に直面していることは那牟智にもよくわかった。中田の祖父は将馬に似た実行家だった。自信家であり、強引なまでの実行力で事に当たってきた男だった。その祖父が痴呆で入院している。将馬はその現実を今、受け入れられずにいるのだ。時間がかかる問題だろうが、家族もいる、身内もいる、病院に入れるだけの環境も整っているのだから、そのうち、乗り越えてくれるだろう、と那牟智は思った。

 

 それから一週間が過ぎた。

 雨はやまないのに、今日は朝からイトウが店に来ていた。

「お前、学校は?」

「自主休講です」

要するにさぼりである。

「親に悪いと思わないのか」

「何でです?」

「一回の講義だって何千円って金がかかっているんだぞ」

「でも、僕はもう子供じゃありませんから」

自分のすることは自分で決めます、と胸を張ってそう言った。この馬鹿野郎めが、と那牟智が言って、イトウはいつものように抗議した。と、

「那牟智!」

突然、大声で呼ぶ声がして、何事かと見ると入り口から黄色いポロシャツが駆け込んできて、それは将馬だった。

 将馬はレジへ来るなり、前に立ちはだかっていたイトウの肩に手をかけると、ぐいっと後ろに押しやってから、那牟智の鼻先へと日焼けした黒い顔を突きつけた。

「こないだは世話になったな」

と彼は弾んだ声で珍しくも礼を言った。鼻が膨らんでいて大きな瞳が瞬きもせず、こっちを見ている。まるで大型犬のような瞳だった。

「ああ…」

言うこともなくてとりあえず那牟智はそう応える。

「で、こないだの話、考えてくれたか」

 え?何の話だったっけ。

 だが、将馬は那牟智の返事は待たずに、

「俺はとりあえずそういうことを話す場を持つことが大事だと思ったんだ、誰もが正しい道が見えるようになるのが理想なんだが、まあ、最初はとりあえず会場をまずセットしてだな…」

「ちょっと待て、将馬」

那牟智が止める。将馬はきょとんとする。

「なぜだ?」

「店先だぞ」

「いいじゃないか。客もいない」

「いるじゃないか」

言われてやっと気づいたように将馬はイトウに目を向けた。一転して何の感情も籠もらない瞳をイトウに向けると、

「あ、ああ」

とだけ言う。そして、まるで先程とは人が変わったような無表情で、

「また来る」

とだけ言い、来た道をのろのろと引き返して行った。

「何ですか、ありゃ」

イトウはむっとした感情を声だけに籠もらせて将馬の姿が消えてから、やっと不快を露わにした。

「すまんな」

と那牟智。

「乱暴ですよ。ダイコクさんのいとこ」

「うん。すまん」

「僕のことまるで見えていないみたいに、客はいないって」

「悪かったよ」

「痛かったですよ。すごい力でここんとこ押しのけて」

「すまん」

謝りながら、那牟智は何だか苦いものを噛んだような気分に襲われた。イトウは首を傾げると、

「正しい道ってなんですか?」

と訊いた。

「さあ、何だろうな」

苦笑して那牟智はそう言うしかなかった。

 

 その日の晩、電話が鳴った。電話の主はチズコだった。将馬がまだ戻っていないと言った。

「え、戻ってない?」

さすがに那牟智も驚いた。一週間だぞ。あれから一度も将馬は家には戻っていなかった。

 そちらに行くことがあったらくれぐれもよろしく、とチズコはくどくどと言って電話は切れた。

 どこへ行ったのだろう。

 那牟智はぼんやりと考える。

 が、考えても仕方がなくてそれきりやめてしまった。

 

 それからまた一週間が過ぎた。

 その日、那牟智は店を閉めてからコンビニへと出かけた。ビールを切らしているのに気がついたからである。いつもの角のコンビニに行く。いつものところでいつもの幽霊が立ち読みをしていた。あの黄色いブルゾンの幽霊である。那牟智も並んで立ち読みをして、手ぶらで店を出る。好みのビールは切れていた。他の店を探してまで飲みたいとも思わず、なければないで構わずに彼はぶらぶらと交通量のほとんどない車道を歩いて帰る。途中、タバコをくわえる。ライターで火をつけると胸いっぱいに吸い込んだ。ふうっと煙を吐き出して、見ると、目の先、店の閉じられたシャッターの前に誰かいるのに気がついた。

「よう」

と人影が言った。

「将馬か?」

と那牟智。

「ああ」

と影が答えた。

「すまなかったな。一週間も来なくてさ」

と将馬は暗がりから街灯の明かりの下へと姿を現した。いつもの黄色いポロシャツを今日も着ていて、それは家に帰っていないための一張羅だったかもしれないと今にして那牟智は気がつく。

「お前、どこにいるんだ?」

将馬はちょっとだけ笑うと、

「女の所、さ」

「女?」

那牟智が聞き返したのを無視して、将馬はひときわ声を張り上げると、

「お前も人が悪いよなあ」

と言う。その声が芝居がかっていて、那牟智は嫌な感じを受ける。

「チズコ、行ったんだってな」

「あ、ああ」

「チズコが俺が来たら家に帰るように言ってくれ、って頼んだんだろ?」

「…まあな」

「余計なことをする女だ」

「普通するだろ。奥さんなんだから」

「俺のメンツとか全然考えてないって言ってるんだよ。おかげでメンツまるつぶれだよ」

「人のこと言えんだろ。女囲ってさ」

「男の顔ってもんを立ててこその女房じゃないか。俺なんて簡単な男だよ。おだててればいいんだからさ」

それを余計なことをするからこういうことになるんだ、と将馬は言ったが、那牟智にはさっぱりわからない。ただ不愉快なだけだった。

「お前も、」

と将馬。苦々しく顔を歪めているのがわかる声音だった。

「こないだ、わかった、って言ったのは俺がそう言えば家に帰ると思ったからか?そう思ったから本当はわかってなかったくせに、わかった、って言って俺を帰そうとしたのか?」

「まあ、…そうだな」

将馬はそれとはっきり聞こえるほどに舌打ちを打った。そして、

「俺はさ、こんな世の中、間違ってると思うんだ」

またその話か、と那牟智。

「おい、将馬、ちっとは違う話をしようぜ。お前、釣りとか好きだったじゃないか」

が、将馬は、いや、とまるで耳に入ってくる言葉を振り落とすように小さく首を振って、

「考えてもみろよ」

と遮った。

「世界のあちこちで戦争があってるんだぞ。わけもなく人は殺されるし、ろくな政治家はいないし、おかしな犯罪は増えるばかりだ」

「…まあ、そうだな」

「何もしていない善良な市民ばかりが割りを食って悪者は大手を振って町を闊歩している。お前だってそんな世の中は間違っていると思うだろう?」

「まあ、そうかもしれんな」

「悪い奴は裁かれるべきなんだ。我々ばかりがひどい目にあっていいはずがない」

「お前がいつ、ひどい目にあったっていうんだよ」

国立大もストレートで合格し、外資系の会社に勤め、出世頭だったのである。給料のかなりの額を趣味のトライアスロンにそそぎ込み、いつもレースでは上位を飾っていた。那牟智はそのポロシャツの上からでもわかる筋骨隆々のからだを眺めながら、

「お前をひどい目に合わせられる男がいたらお目にかかりたいもんだ」

と軽口を叩いた。が、将馬は無視して、

「那牟智」

と呼んだ。

「その力を社会のために生かそう。な。大黒の家を再興しよう。カズユキを養子にくれてやる。俺も協力するから」

那牟智にはわからない。どうしてそういう展開になるのだろう。元は祖父の痴呆が原因のはずだった。

「チズコさん知ってるのか?」

「何を」

「カズを養子にやるって」

「知るもんか」

「お前」

「何だ」

「狂ってるよ」

理不尽な目に遭って当てがはずれて世間を恨む、と言った父の言葉がぐるぐると頭の中を回った。将馬が善人だったかどうかは知らない。しかし、彼のエネルギーの全てが実に容易に負へと転換したのは事実だった。

「…俺がこれほどまでに頼んでいるのに」

将馬が低い唸るような声で漏らす。

「悪いが」

那牟智は無表情に言った。ややあって、

「…じゃあ、その力、俺にくれ」

将馬がぽつりと呟いた。

「え」

「俺だったらもっと上手に世の中の役に立たせられる。俺にくれ」

「……」

「俺にくれ。な」

将馬の口元が卑屈な笑いでひきつっていた。が、言っている意味がわからない。いったいどうやって、

「お前、爺さんの心臓、持ってるだろ?」

那牟智は黙った。将馬は笑って、

「爺さんが死んだ時、心臓をお前に、って遺言してさ。やったじゃないか、心臓移植」

「…まあ、な」

生まれつき心臓に欠陥のあった孫に祖父の心臓は遺言通り移植された。昔のことである。

「爺さんの心臓が手に入ったら俺もお前と同じ力が手に入る気がする」

だが、別に心臓を移植されてから幽霊だのが見えるようになったわけではない。

「那牟智」

が、今の将馬に必要なのは事実ではなかった。

「心臓、俺にくれ。な」

「…お前にやったら俺、死んじまうと思わねえか?」

返事はなかった。

 いきなり大きな体躯がその大きさからは想像もできないほどの敏捷さで飛びかかったかと思うと、その手が首へとかかった。あまりの勢いに後頭部を思い切り後ろのコンクリート塀へと打ちつける。が、痛いと声を上げる余裕はなかった。太い指が那牟智の柔らかい喉元を容赦なく締めつけていた。息ができない。苦しいとかそういう言葉は通り過ぎて、怒りで頭がいっぱいになる。逃れようと激しくもがく。が、手はびくとも動かない。

「大丈夫だよ」

熱い吐息を漏らしながら息を弾ませた将馬の声がすぐ耳元で聞こえた。眩む眼前に大きな瞳を瞬きもせず見据えている将馬の顔があった。口元には相変わらず卑屈な笑いが浮かんでいて、これ以上ないというくらいの満面の笑顔だった。

「死んだら」

声は掠れていた。

「すぐに病院に運んでやる」

だが、死んでから運ばれても嬉しくもなんともない。畜生っ。呻いたが声にはならない。やり場のない怒りがどうしようもなく沸き上がった。

 畜生っ。

いきなり那牟智は満面の笑みに頭突きを食らわした。がんっと音がして、あっ、と思わず将馬のからだは仰け反った。首を締め上げていた両手が外れた。激しく咳き込みながら那牟智は堰き止められていた空気を思い切り吸い込んだ。喉がぜいぜいと鳴った。畜生。まだ苦しい。目の前には手で顔を覆った将馬がいた。一息大きく吐き出すとその手が顔から離れる。鼻から黒ずんだものが垂れ下がり、ポロシャツに点々と染みになっていた。鼻血である。将馬は一度手の平を見、手の甲で鼻を拭きながら、やっと目を上げる。そして、

「あはは」

と笑った。

「あはははは、冗談だよ」

と将馬はさも面白そうに大笑いをした。どうしようもない怒りがまた沸き上がってきて、

「冗談で済むか、馬鹿野郎っ」

と怒鳴ったつもりが声にはならなかった。潰されかけた喉がただぜいぜいっと言っただけだった。

「また、来るよ」

将馬は鼻血が長く広がったままの顔で卑屈に笑うと、背を向けて真っ直ぐに伸びた車道を去っていった。

 大馬鹿野郎っ。

 胸の内で毒づきながら那牟智は立っているのがやっとだった。

 まだ喉がぜいぜい鳴っている。気がつくと心臓がどくどくと音を立てていた。

 わかっている。わかっているよ。

那牟智には脈打つ心臓の音がまるで祖父の言葉のような気がしてならない。将馬を何とかしなければ。わかっているよ。爺さん。那牟智は人差し指で心臓をとんとんと叩いた。だが、どうやれば何とかできるのか、皆目見当がつかなかった。

 

九、ごっこ につづく

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