〜材木置き場〜 オーディンの森

化石の肋の向こう側             材木置き場に戻る

 

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連載三

 

早朝、ガルベス商会本店に出社してきた初老の社員が、店内で頭を殴打されて倒れている社長ガルベス氏を見つけた。

「まさか死亡推定時刻は」

とゴドー。ガーシュインは新聞から目を離さず、

「死亡推定時刻は二時から四時の間と見られる、とあるな」

ゴドーは低く口笛を吹いた。

「ビンゴだな。しっかり容疑者だぜ、俺ら」

二人はタクシーの後ろ座席に隣り合って座っていた。トロリー通りへと向かう途中である。

「くそっ、あの女、やっぱり関係あるんだよ」

とゴドーは吐き捨てるように言った。

タクシーはあまり信号に止められることもなく、スムーズにトロリー通りに着いた。

「車の通りがいつもより少ないな」

「テロが懸念される日に外に出たがる奴もそういないさ」

だいぶ小降りにはなったものの、雨はまだ降っていた。二人は傘を並べて、通りを横切る。通りを一つ越えた先にあるトロリー通りは住宅街なのだろう、四階建てのアパートメント風の建物が軒を並べ、小雨の中で見ると、まるで巨人が狭い通りにひしめきあって立ちつくしているようにも見えた。沈黙して並び立つ巨人の列がゆるやかな坂を上り始める通りの奥まったあたりにコートリアアパートメントはあった。

かんかんかんと金属の音を立てて、二人は外にしつらえられた階段を上り、三階に着くと、狭い通路を通って、2号室の小豆色の扉の前まで来た。呼び鈴をガーシュインが押す。ややあって、

「どちら様?」

細い女の声がインターフォン越しに聞こえた。

「速達です」

とゴドーがインターフォンに顔を近づけて応じた。少し待つように女は指示して、すぐにドアの鍵がはずれる音がした。ガーシュインはすぐにノブに手をかけると、ぐいっとそれを奥へと押した。

 大きく押し開かれたドアの向こうには両目を見開き、驚きと脅えの表情で青ざめたクララの顔があった。

「やあ、クララ」

固まった表情のまま、彼女は、

「どうして、ここが、…あの、あなた達、」

「君に会いたくなったのさ」

混乱した言葉を彼女が発している間にガーシュインはドアを閉め、ドアチェーンもかけた。

「あ、…もしかして、シンプソン、昔のことを思い出して、」

「ガーシュイン」

「…そうじゃないのね…ガーシュイン」

はっきりと落胆の色を見せて、彼女の視線が落ちる。

「夜中の二時に本人が教えもしない電話番号を調べ上げて鳴らしておいて、」

とガーシュイン。

「それなのに挨拶もなしか?」

いつもよりもさらに手厳しいガーシュインの言葉にクララの瞳がばつが悪そうに宙を漂った。手荒く舞い込んだ訪問者がそれほどいい知らせを持っているわけではないことだけははっきりとわかった顔だった。

「あの、それは、…ごめんなさい…」

と彼女は催促された挨拶をとりあえずする。そして、

「でも、どうしてここが、」

言いかけるのをガーシュインは遮って、

「質問するのは君じゃない。俺だ。探偵を雇って俺のことを調べさせたね」

「あの、それは、…シンプソンだと思って、…」

「夕べ、二時に電話をかけてきたのは何故?」

「……」

「応えて」

とゴドーが口を添えた。クララはためらう。

「あんたが、」

とガーシュイン。

「応えたくなくても、警察では言わなきゃならなくなるぜ」

「警察?」

「俺達が探っていた男が夜中に殺された。死亡推定時刻は二時から四時。俺はあんたが関係あると見ている」

「知らないわっ、」

「死亡推定時刻に電話をかけた理由は?」

「…夜中の二時に電話をかけるのが私達の習慣だったから…」

「甘い理由だな。なんで二時なんだ」

「夜勤の仕事をしていたの…覚えていない?」

「俺はシンプソンじゃない」

「…だから、眠くなった頃にかけてくれ、と言われていて…」

「シンプソンは君の何?」

「…従兄弟よ」

「甘い関係の従兄弟だね」

「弟みたいなものだったの。そういうふうに言わないで」

「それを証明する人は?ポートナムにはいないよね?」

クララは黙った。

「おい、」

とゴドーが聞きとがめる。

「ポートナムじゃないって何でそう思うんだ」

「前も言ったろ。ポートナムは小さな町なんだ。だが、俺が見つかった時には、誰も俺のことをシンプソンとは呼ばなかった。この女がポートナムでその従兄弟と一緒にいたのなら、誰かがそう呼んでも不思議じゃない。クララ、あんたは探偵に俺のことを調べさせて、それに話を合わせたんだ。最初からあんたは俺のことをシンプソンだなんて、信じてやしなかった。三日前に知ってから、記憶喪失の俺に自分の作り話を信じ込ませようとしたんだ。そうだろ?」

クララはうつむいたまま、何か小さくつぶやいた。

「なに?」

とガーシュイン。

「…違うわ…」

クララは何かを探すみたいに瞳をきょろきょろと動かしていたが、何も探すものは見つからないようだった。そのまま、彼女は、

「今でもあなたのことはシンプソンだわ。そのことは間違いないわ…でも、覚えていないみたいだったから、話を合わせているうちに思い出してくれるかも、と…」

「いもしない従兄弟、いもしない町、ありもしないことを信じたいんだ、あんたは」

「違うって言ってるでしょう…」

「あんたが何であろうと知ったこっちゃない。だが、あんたのせいで俺達は迷惑を蒙っているよ」

その時、小さな音が鳴った。二人は同時にゴドーを見る。ゴドーのジャケットの胸ポケットで電話が鳴っているのだった。ゴドーは目を大きく見開いてから、おもむろに電話を取った。

「はい、」

とゴドー。

「ゴドー」

と電話口で言ったのは顔見知りの刑事だった。

「お前らに事情聴取の話が来てるぞ」

みたいですね、濡れ衣だけどすぐ行きます、とゴドーは言ってから電話を切る。

「マクガバンか」

とガーシュイン。ゴドーはポケットに電話をしまいながら、

「御名答」

と応える。では、とガーシュインはクララにもう一度目を戻す。

「一緒に行こうか」

「話を聞いて」

「警察で聞くさ」

アパートメントの外に出ると、大通りの方では黒煙が上がっていて、人だかりができていた。テロリストは見当はずれのトロリー通りを攻撃したようだった。

 

 

 「でも、」

と言ったのはマクガバンだった。

「お前らは、昼間、店で一悶着起こしている」

「確かにね」

とゴドー。

 警察本部はトロリー通りで起きた爆発のおかげで、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。制服が行ったり来たりしていたが、大勢の警官がそちらに向かったのだろう、そのうち署内は嘘みたいに静かになった。

「よけいなこと言わなきゃよかったな」

ガーシュインは静かになった部屋でぽつりと呟いた。

「よけいなことって?」

とマクガバン。彼がガルベス殺人事件の担当なのだろう、署内に残った数少ない一人だった。

「こいつが、」

とゴドー。

「奥方から頼まれて浮気調査で来た、なんてでまかせ言ったから、ガルベスが怒って殴りかかってきたんですよ」

「ああ、ガルベスに浮気調査じゃ洒落にならんな」

「死人に鞭打つ発言はやめましょうや」

とガーシュイン。

「鞭打たんと仕事にならん」

とマクガバン。とにかく、

「動機、状況証拠はどうにもお前さんらに不利だな」

「あの、私が、ガーシュインさんに電話をかけたから、」

と今まで黙っていたクララがバツが悪そうに口を開く。

「今更遅いよ」

とガーシュインが言った。

小さな音が鳴った。三人はいっせいにガーシュインを見る。ガーシュインのスーツの内ポケットで電話が鳴ったのである。ガーシュインは気にせず、電話を取りだした。

「もしもし、ドージャーだが」

電話の主はガルブレイズ社のドージャーだった。

「ああ、とんだことになりましたね」

とガーシュイン。

「いや、すまんな。連絡が遅れたんだが、実は昨夜、ガルベス氏から融資の話はなかったことにしてほしいと電話があったんだよ。今朝になるまでその件はわしに伝わっていなくてな。早くに連絡しておれば、君もこんな馬鹿げたことには、」

「俺達じゃありませんよっ」

「…違うのかね?」

「もめはしましたが、違います」

「ああ、ならいいんだが…依頼料は振り込んでおくよ」

「調査データは郵送しておきます。保釈金立て替えてもらえるとさらに嬉しいんですが」

「手配してみるよ」

とだけ言って、電話は切れた。ガーシュインは電話をしまうと、

「現場には行けますか?」

とマクガバンに聞いた。

「現場?」

「あの店ですよ。ガルベスの。俺達は昼間、店に行っている。何か変わったことに気づくかもしれない」

「現場検証の段階でもないのに、それは…」

「怪しげな人間も見かけました。またそいつが来てるかもしれない」

「本当か?じゃあ、行くだけ行ってみよう」

マクガバンは、車を回してくる、と言って、部屋を出ていった。ドアが閉まるのを待ってから、

「ガルベスが夕べ、融資を断ってきていたそうだ」

とガーシュインは言った。

「ってことは?」

とゴドー。

「夢から醒めたか、」

あるいは、

「夢が叶ったか、どっちかだろう」

「なるほど」

「店に手がかりが残っているかもしれない」

「怪しげな人間ってのは?俺は気づかなかったけど」

「ありゃ嘘だ」

ガーシュインは真顔で答えた。

 

 車がガレージから出た時には雨はほとんど上がっていた。

「酸性雨警報が出とるそうだ」

と初老の刑事は、顔見知りの容疑者に同情するところもあるのか、親しげな話題を提供するようにぽつりと言った。

「注意報の方みたいでしたよ」

とゴドー。

「そうか?どっちでも似たようなもんだろうがね」

「注意報の時はたいてい酸性雨じゃないそうですよ」

とガーシュイン。

「そういうもんなのか?」

とゴドーが聞いた。

「賞味期限は早めに切ってあるのと同じで、本当に危ない時は警報で出すのさ」

「天気予報も信じられん時代だな」

とマクガバンが首を振りながら嘆いた。

「天気なんてもともと信じられるもんじゃないけど」

とゴドー。

「予報が信じられると思っていた時代の方がおかしかったのさ」

とガーシュイン。そういや、とゴドー。

「地震も津波も隕石落下も全部予測し尽くしたいって時代もあったな」

「予測したいって願望が、できるに違いないって錯覚に変わるのさ」

「少しの不安が人間を駆り立てるわけか」

納得が言ったのかマクガバンが言う。かもしれないですね、とガーシュイン。

「まあ、それが科学を発展させてきたってことですか。いいとも悪いとも言えないでしょうが」

「科学反対主義かね?」

「そうでもないですよ。恩恵は受けてますからね。単なるペシミストってことですか」

「御自分でよおくわかっておいでのようで」

ゴドーが茶化すと、

「そっちの方が気が楽さ」

ガーシュインは真顔で応えた。

車はじきにガルベスの店へ着いた。

 

昨日見たあのドアには今日は白い綱が張られていて、関係者以外を遮断していた。昨日までオープンの札を下げていた持ち上げられた象の鼻に綱の片方がくくりつけてあり、もう片方は消火栓にくくってあった。

ただでさえ窓のない部屋の中には電気を入れる者もいないのだろう、暗く、入り口からは部屋の奥まで見通せなかった。マクガバンが白い綱を引き上げながら、

「それにしても、」

と言った。

「あの女はなんだ?君らをはめたようだが」

署に置いてけぼりにしてきたクララのことである。

 ガーシュインとゴドーは綱の下をくぐる。

「なんなんでしょうね」

とガーシュインが言った。

「俺を知り合いの誰かと勘違いしているみたいですが」

「知り合いじゃないのかね」

「違います」

「ま、あんまり関わりにならんことだな」

マクガバンを先頭に三人は店の中へと入った。

暗い店内には昨夜争った跡はさすがになく、雑然とではあるが、商売の邪魔にはならぬていどに片づけられていた。

「昨日の朝ですよ」

とゴドーが言った。ガーシュインとガルベスがもめたことである。

「ここで?」

とマクガバン。

「このあたり」

チェス板のついたテーブルの前の床をガーシュインは指差した。

「ほら、あそこにガラスが散らばっている」

見ると、確かにランプかなにかが割れたのだろう、ガラスの破片がテーブルの下にもぐるように落ちていた。ガラスはそれ自体、色褪せたセピア色でまるでそこだけ違う時代のようだった。

ガーシュインがそのガラスを拾おうとして腰を屈める。が、

「触るなよ」

とマクガバンが止めた。

「あれ」

とガーシュイン。

「なんだ?」

「なにか落ちている」

ゴドーが見ると、小さな丸いガラスの容器みたいなものがテーブルの更に奥に横向きに転がっていた。

「香炉かな」

とガーシュイン。

「そういうものもあるかもしれんな」

と見向きもせずにマクガバンは、とにかく、

「触るなよ」

「了解」

マクガバンは更に奥へと進む。

「こっちの方の部屋だよ。ガルベスが倒れていたのは」

ドアを抜けて、辛うじて刑事の革靴のかかとが店内に残る。ガーシュインは足先でさっきの香炉を蹴飛ばした。香炉はころころころとまるで独楽みたいに回ると、かたかたかたっと早めに身震いをして、今度はちゃんとした向きで座った。

マクガバンの後を追おうとして立ち上がり、ガーシュインは何だか、気持ちが悪くなるのを感じた。目が回った気がして、天井を見上げる。回る香炉を見ていたせいかもしれない。低い天井に下がった電灯の笠を中心にして周囲の壁が少しぐるっと揺れたような感じがして、もう一度、ガーシュインは気持ち悪くなった。

「おい」

とゴドーが部屋を出かけて、振り返る。

「どうした?」

「何だか、気持ちが悪い」

とガーシュイン。ゴドーは笑って、

「寝不足か?」

「かもしれんな」

そう言って、もう一度、ガーシュインは天井を見上げた。

見上げた天井は少しだけゆっくりと、だが、確実にぐるっとねじれ始めていた。もう間違いはなかった。電灯の笠を中心に、時計とは反対回りに、周囲の壁がまるで飴のようにねじれて、交錯して、マクガバンがドアの向こうから何か言ったようだったが、その声もまるでスローモーションをかけたテレビみたいに低く、くぐもった声で、何を言ったのか聞き取れなかった。

奥へと通じるドアは見えていたし、マクガバンの片足もまだそこに見えていた。だが、その先には普通の足と壁と廊下とがあって、おかしいのはこの店の中だけのようだった。

「おい、」

とガーシュインが注意した。

「何だか変だ」

「ああ」

ゴドーも賛成した。

「この部屋だけがおかしくなっちまったみたいだ」

からだは別に何も感じはしないのに、見ると床が斜めにねじれ始めていた。見ていると転げ落ちそうなのに、ちっともからだは何ともないのである。見ているとますます天井も壁も床も全てが電灯の笠に向かって、丸くねじられていた。逆さになる感覚。でも、からだはちっともそれを感じない。見ていると気持ちが悪くなりそうで、ガーシュインは二度ほど強く目をつぶった。

「ガーシュイン、」

とゴドーが呼んで、彼は目を開く。

「これは」

とガーシュイン。

「どうしたんだ」

見ると、さっきまでのねじれた部屋はすっかり丸くなっており、天井で覆われたトンネルのようになっていた。電灯の笠や壁や調度品やらはすっかり飴細工のように引き延ばされて、トンネルのあちこちに白く筋となって走っていた。それはまるで骨格のように見えた。

「これは、まるで、」

とガーシュインは呟いた。

「シーラカンスの腹の中だ」

「なるほどね」

とゴドー。

 前を見る。後ろを見る。まるで出口も入り口も見えない、丸いトンネルがえんえんと続いている。暗い壁。白い骨がぼうっと浮き上がっていて、幾筋にもなって走っている空間。ごおーっ、という小さな地響きが遠くから響いてきていた。低く、高くなりながら、地響きは確実に近づいてきていた。

「何か来てるな」

「ああ。走るか?」

「どっちに?」

「こっちだ」

決めてガーシュインは走り出した。ゴドーもそれに倣う。

「根拠は?」

とゴドー。

「あるもんか」

 追いすがるように地響きはだんだんと音を上げて、まるで風のように早いスピードで追い上げてきているのが走る背中ではっきりとわかった。

暗い丸いトンネルの中、化石となったシーラカンスの肋骨の間を、彼らは走った。低く唸りながら追い上げてくる奇妙な地響きに追われながら、彼らは暗い空間を走り続けた。何分ほど、あるいは何時間だったかもしれない。どれほど長い時間走ったのだろうか。時間の感覚も麻痺するほどに走り続けて、後ろから追い上げる風に耳を煽られるほどになってから、ようやく、

「光だ」

前方が少しずつだが、明るくなっているのが見えた。走れば走るほど、その光は近づいてきて、ぬける、と思った瞬間、まばゆいほどの光の中に二人は突然、飛び出したのだった。

 

鳥の囀りが聞こえていた。陽光に包まれて、薄緑の葉が陰を作る木立の中に二人はいた。

「で」

とゴドー。

「ここはどこだ?」

答えのない問いを発する。

 柔らかい草が一面を覆う、温かい土の上に二人は立っていた。あたりを見回すと、木の葉の間から、薄い緑色の屋根の教会と取り囲むように立ち並ぶ家々が見おろせて、ここは小高い丘であるらしかった。

「墓地、だな」

とガーシュインが木立の向こうを見透かして言った。

「墓地?」

振り返ってみると、確かに緑の木々の先には点々と白い石でできた墓石がいくつか並んでいた。

 が、次の瞬間。

目の前がふっと暗くなって、次に目の前にあったのはチェス盤のついたテーブルだった。暗く、湿気を帯びた息苦しい狭い空間に雑然と並べられた骨董品。低い天井に下がる電灯の笠。

「こっちだ」

ドアの向こう側にはまだマクガバンの足が片方見えていて、そのマクガバンが呼んでいた。

「今行きます」

ゴドーは答えて、ガーシュインを見た。

「何だ、今のは?」

彼がそう言ったところを見ると、今のはガーシュインだけの錯覚ではなかったのだろう。

ガーシュインは何も言わず、腰を屈める。そして、さっき足先で転がした小さな香炉を拾い上げ、ポケットにそっとしまい込んだだけだった。

 

 

連載四 に続く

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