〜材木置き場〜 オーディンの森
化石の肋の向こう側
材木置き場に戻るその日、ゴドーはついてなかった。
「朝からそれはないよな」
コーヒーを自動販売機で買ったが、出てきたコーヒーは毒入りだった。
「缶のやつ?」
とガーシュイン。
「いや、紙コップ」
「紙コップでどうやって毒入れるんだ?」
「だからさ、コーヒーの抽出口に塗るんだよ」
すぐにゴドーは警察に通報し、駆けつけた警官が塗られた毒を発見した。
「新手の犯行だね」
「缶に穴を開けて毒を注入したり、紙パックに注射したり、いろいろあったけど」
ゴドーはいれたてのレギュラーコーヒーを口直しに飲みながら、
「手口も大胆になってくるよね」
ごくりと喉をならしてからそう言った。ガーシュインはキーボードを叩く手を止めないままに、
「考えてみれば生活が飛躍的に便利になると必ずそれを引き留めるような犯行が起きるよな」
「っていうと?」
「ほら、無人銀行が普及し始めた頃にさ、機械の操作担当が不正な操作で摘発されたろ」
事件が起きた当初は信用の失墜と無人銀行の存続が危ぶまれたが、
「すっかり普及しちまったね」
とゴドーは二杯目を自分のカップに注ぐ。
「インターネットの時だってハッカー防止の誤操作で」
「オンラインシステムがぱあ」
「おまけに警察は初動捜査のミスを隠すために担当刑事が発見者を殺人未遂」
「ひでえもんだったよな」
「コンビニじゃあ店頭に並ぶサンドイッチに誰かが殺虫剤や洗剤を混入するし」
「チョコレートには青酸カリが塗られてるしな」
「電話は盗聴されてるし」
「チャットは街頭で大声で話してるのと同じだしさ」
「今じゃ、安全と信用と人間の尊厳は絶滅状態のレッドラインだもんな」
「よく飲むな」
とガーシュイン。ようやくキーボードの手を止めて顔を上げるとそう言った。
「へ?」
ゴドーはわからない。
「コーヒーだよ」
「ああ」
寝不足なもんでね、とゴドー。
「お前が?」
とガーシュイン。
「悪い?」
「別に悪かないけど」
ガーシュインはまたモニターに戻る。ゴドーが三杯目のコーヒーに口をつけながら、
「で、何をそんなに熱心にしてるの?」
モニターを覗きこんだ。
「ガルブレイズの件だよ」
ああ、とゴドーが合点する。モニターに羅列される数字群を見ながら、
「まあ、こういう御時世だから俺達も仕事が成り立つってことなんだろうけどさ」
ゴドーとガーシュインは金融機関専門の調査事務所を開設していた。
ガルブレイズは大手の都市銀行で顧客の身辺調査を依頼してきていた。あれからもう二週間が経つ。
「身辺も綺麗、男女関係の乱れもなし、見事なほどさ」
ガーシュインは吐き出すようにキーボードを叩いた。なるほどモニターにはそれを証拠づける資料が整理されて映し出されている。
「でも、」
とゴドー。
「ガーシュイン先生はそれが面白くないわけだ」
「綺麗すぎるのは怪しいってのが常道だろ」
調べられることを警戒している証拠だとガーシュインは金色の瞳でゴドーの笑う顔を見る。
「相変わらず慎重だね」
とゴドーの黒い瞳が笑う。
「慎重すぎるにこしたことはないさ」
ガーシュインは眉間に皺を寄せると、
「お前も少しは考えろよ、コンピュータだろう?」
ゴドーは笑うと、
「了解」
言いながら窓辺のラジオのスイッチを入れた。
確かにゴドーは精巧なアンドロイドだった。大事故で脳を大破、今では頭蓋骨の中には人工頭脳が入っている。本来なら死んだ本人のコピーとして生まれ変わるはずのものがこれまた設定ミスで、まるで別人格となってしまった。遺族に認知を拒否され、アンドロイドとして戸籍には登録、遺族との縁も切れていた。勿論、遺族側の希望で顔を整形し、ゴドーという名字だけは珍しい名ではないということで残っている。ガーシュインと知り合う前の話である。
ラジオからは天気予報が流れている。
「南太平洋、まだハリケーンが荒れているらしいな」
とガーシュイン。
「おかげで農作物は大損害だな」
「アジアでは記録的な旱魃だってのにな」
「南アメリカでは大洪水」
「世も末だね」
「世紀末にはずいぶんと間があるんだけどね」
「全くだ」
ガーシュインはパソコンの電源を切って立ち上がる。
「どっか行くの?」
とゴドー。ガーシュインは茶色のスーツに白いシャツ、ベージュのネクタイをしめたその上からキャメル色の長めのコートを羽織りながら、
「ガルブレイズ社」
と言った。
「途中報告?」
「契約分は今ので終わったからな」
「ああ」
とゴドーが合点する。腕時計を見ながら、
「9月15日午前10時までって契約だっけ?」
「そう」
コートの襟を糺し終わるとガーシュインは、
「これから先も調査を継続するかどうかはガルブレイズが決めるのさ」
「それじゃあ」
出かけよう、とゴドーも脱いだばかりの黒い革のジャンバーを手に取った。
ボードレイクシティ。経度と緯度の割りには秋になってもまだ温かい日が続いている。
「早く寒くなればいいのにな」
とゴドー。
「何故?」
とガーシュイン。
「トレンチ着るの好きなんだ」
「それは」
とガーシュイン。笑いもせずに、
「わかる」
と言った。
「そういや、こないだ」
とゴドーは違う話をする。
「ガルブレイズのビルから飛び降り自殺した奴がいたね」
「ガルブレイズの社員だろ。ノイローゼになって解雇されたと思いこんで」
「人が死ぬのに理由なんていらないね」
「漠然とした不安があれば充分さ」
「今朝の新聞にもわけわかんないのがあったよ」
「どんな」
「ハイスクールの生徒が自分の弟をアパートメントの屋上から投げ落とした」
「はあ?」
「弟は助かったが、兄貴の方の動機は人が死ぬかどうか試したかったからだと」
「てめえでやりやがれ」
「そういうのもあったな」
「あの世の存在を検証すると書き残して自殺ってやつだろ」
「あったかどうかわかったところでどうするんだろうな」
「この世に戻ってこれなきゃな」
「来たくねえんだよ」
「こんな世の中だからな」
「悪意と不安と中傷だらけの世の中、ってか」
「そんな可愛いもんか」
「いやな時代に生まれたね。どっかに逃げ出したいが、タイムマシンでもなけりゃな」
「いつにいったって一緒だろうよ」
「そうか?」
とゴドー。
「しょうがねえさ。ここに生まれたんだ。ここにいなきゃ」
とガーシュイン。
ひとしきりぼやき終わる頃にガルブレイズビルが見えてくる。57階建てのビルはシルバーブルーの硝子張りでどんよりとした曇り空をそのハーフミラーに映していた。
「ガルブレイズはいいねえ。歩いて来れる」
「ずっとお仕事もらえたらいいな」
「今回の仕事をうまく片づけりゃそういうこともあるさ」
そりゃそうだ、とゴドーは合点した。
ビルを入ってすぐの受付で用向きを告げてから二人はすぐにエレベーターに乗り込む。
「受付の金髪嬢、ちょっと綺麗だったね」
とゴドー。
「金髪が好きか?」
とガーシュイン。ああ、とゴドーはうなづいて、
「だから、お前とうまくいくんじゃないか」
「はいはい」
軽くあしらってガーシュインは38階で開いたエレベーターを降りると、すぐ目の前の扉を開けた。扉の中には受付があって、眼鏡をかけたブルネットの女性が座っていた。
「お待ちしておりました」
言って彼女は奥へと入るように指示する。
「ブルネットは?」
奥への通路を通り過ぎながらガーシュインが小声で聞く。ゴドーは振り返って、
「いいねえ」
「誰でもいいんじゃないか」
ガーシュインは鼻白んで呟いた。
目の前に磨り硝子の扉があった。さっきもそうだったが自動ではない。ガーシュインはノブに手をかけて大きく押し開き、広い部屋へと入りながら、
「おはようございます、ミスター」
と言った。グレイの絨毯が敷き詰められた部屋の中央にしつらえられた机に足をかけたまま、ドージャー部長は絨毯と同じ色の髪を左手でなでつけながら、
「おや」
と答えただけだった。ガーシュインは気にしない。
「今日がお約束の期限でしたので、調査報告に伺いました」
「君が来るんだったのか」
「下で受け付けてもらいましたがね」
「違うガーシュインだと思ったのさ」
「ジョシュ・ガーシュインと言いましたよ」
「受付の彼女には金髪のガーシュインが来たら通すように、と言っていたからな」
「フルネームで言付けるべきでしたな」
ガーシュインはドージャーの無駄話に付き合う気はない。目線を落としてポケットからケースに入ったディスクを取りだして机の上に置いた。
「今日までの調査結果です。調査の継続をお望みでしたら承りますが」
「うむ」
ようやくドージャーは机から足を下ろし、のろのろとディスクを取り上げると、机上のコンピューターに差し込んだ。それから置きっぱなしになっている眼鏡をかけると、
「最近、電磁波が気になってね」
誰言うとはなくそう言った。ガーシュインはただうなづく。
「これは?」
とドージャー。眼鏡にモニターの映像が写ってちらついているのを眺めながらガーシュインは、
「調査結果です」
言わずもがなのことを言った。ドージャーは気にならない。低く口笛を吹くと、
「あれだけ派手なご活躍をしておいでのガルベス社の総帥が綺麗なもんだ」
「そうですね」
とガーシュイン。
「まるで調べられることがわかっているみたいに慎重に行動していますね」
ドージャーは上目遣いでガーシュインを見ると、
「君もそう思うかね?」
ガーシュインは両眉を引き上げると、小首を傾げて、
「普通はそう見ますね」
と言った。
「ガルベス氏は熱心な宗教家でもないし、慈善活動にも興味がない。夫婦仲もよくないことは周知の事実ですし、若いうちはよく女でしくじっている。派手好きでも有名な男だった。それがここ二三年は何事もない。金融恐慌以来、経営は思わしくないにも関わらず、借金もないし、異性問題も起こしていない。まるで何かの企みを成功させるために密かに地下に潜っているみたいだ」
「そこだよ」
ドージャーは顔をあげて右の人差し指を突きつけた。
「私もそれを疑っている。なにしろ買い付ける物があまりに以前とは異なっている」
「彼は古美術商ですよね」
とゴドー。ドージャーはうなづいて、
「それが絵画や壺を買わずに掘削機やパネルやコイルなんかを買いあさっている」
ガルベス社は先代からのガルブレイズの顧客だった。それが久々に融資を申し込んできたのである。
「ここ何年もガルベス社には問題がない。本当なら融資を断る理由はないんだが」
言いながらドージャーは右手で眼鏡をはずしながら立ち上がった。
「ガーシュイン、君は最近ささやかれている噂を知っているかね?」
「いいえ」
ドージャーは自分でもどうかしている、と言いたげにふっと仕方なく笑うと、
「ガルベスはね、今、タイムマシンを作っているんだそうだよ」
ガーシュインは一瞬、沈黙した。
「タイムマシン?」
と言ったのはゴドーだった。
「それは、」
と言ったのはガーシュインだった。
「何かの冗談ですか?」
ドージャーは情けなさそうに笑うと、
「君がそう思うのも無理ないがね。ガルベスが行きつけのバーで酔っぱらってバーテンダー達に大声でそう言ったそうだよ」
「酔っ払いの戯言でしょう」
「そう思うのが普通だよ。だが、ガルベスは酔いが醒めてからそのことを知ると真っ青になって、このことは誰にも言わないように、と居合わせた全員に金を渡したというんだ」
「醜態を見られたから?」
「いや、タイムマシンの件は、と釘を差した、というから、そういうわけではないらしい」
「ただの噂ということは?」
「私の息子が同席していた時のことだから間違いない。息子も実は金をもらったというんだ」
「ちゃっかりした息子さんをお持ちですな」
とゴドーが冷やかす。ドージャーは眉をひそめると、
「ガルベスは彼が私の息子だということは気づかなかったらしいがね。ガルベス社との付き合いも長い。下手な噂で名誉を損ねることになってもつまらんからな」
引き続き調査をしてもらいたい、とドージャーは言った。ガーシュインは書類を出すと、
「それでは手続きを」
今回の期限は無期限ということになった。
二人はドージャーのオフィスを出る。出たところで金髪の女性とすれ違う。
「君、ミスガーシュイン?」
とゴドーが唐突に聞いた。彼女は笑って、
「よくおわかりね」
「部長がお待ちかねだったよ」
「ありがとう」
宛然と笑って彼女はオフィスに消える。
「隅に置けないな」
ゴドーは小さく頭を振りながら呟いた。ガーシュインは仕方なさそうに笑う。
バーにはまだ客は二三人しかいなかった。
マホガニーのカウンターに座ってスコッチを飲みながらゴドーは、
「これも経費?」
と聞いた。ガーシュインは眉をしかめると、
「よせよ、折角の酒がまずくなる」
と言ったが、すぐに、
「経費だよ」
と言った。ゴドーは喜色満面に浮かべて、
「じゃあ、飲もう」
「酔うほど飲むなよ」
「俺は酔わないって」
「アンドロイドは酔わないなんて信じないぞ」
「電気羊の夢は見るんだぜ」
「俺は夢は見ないね」
「ガーシュインが?」
「ああ」
と相槌を打ってグラスを口から離すと、
「見ないね」
「へえ」
ゴドーは感心した。
「記憶がないと夢も見ないものなのか?」
「さあ」
ガーシュインが記憶喪失になってもう何年にもなる。その間に思い出すことはあまりなかった。
「動揺しない男だからな」
とゴドーが言った。
「関係あるのか」
「感情にがっちり鍵がかかってるからさ」
記憶にも鍵がかかっているんだろう、とゴドーは茶化した。
「言ってろ」
正直、全然思い出さないわけではない。断片のような記憶。彼が発見されたのはポートナムの港の近く、電話ボックスの中でだった。どこかに電話をしようとしていたようなのだが、全く思い出さなかった。警察も手を尽くして調べてはくれたが、とうとう身元がわからないまま、警察にも見放される状態となった。ポートナムは小さな港町だったから、彼が噂の種になるのにそう時間はかからなかった。何らかの犯罪に巻き込まれたのだろう、と多くの市民が想像し、多くのマスコミがはやし立てた。結局、何一つ手がかりは見つからなかったが、ポートナムでは彼は犯罪者ということで落着した。ゴドーと知り合う前の話である。
「来た」
言ってゴドーは椅子から腰を浮かせた。ガーシュインはグラスを口から離さずにそうっとドアの方を見た。入ってきたのは薄茶色の髪をきれいになでつけ、暗めの色のスーツを着込んだ若い男だった。
「これまたお洒落なスーツの坊やが来たね」
ゴドーは少しだけ声を高くしてカウンターの中のバーテンダーに話しかけた。バーテンダーはドアに一瞥をくれると、
「ああ、ドージャーさんですよ。証券会社に勤めている」
「証券会社?そんなふうには見えないね」
バーテンダーは笑うと、
「お洒落な人ですからね」
と言った。
「いいネクタイをしている」
とガーシュインがグラスに口をつけたまま、評する。
「どこのメーカーだろう」
バーテンダーは、
「お客さんもいいお召し物ですよ」
と世辞を言った。ガーシュインは上目使いで彼を見ると、
「ありがとう」
と言った。
「着る物には凝る方だからね。人のも気になる」
「ご本人にお聞きになった方が早いですよ。もうすぐこちらへお見えになります。カウンターでまずは一杯ってのがあの人のやり方ですから」
ほら来た、とバーテンダーは言って目線を移した。なるほどドージャーはカウンターの方へと歩み寄ってきて左手を軽くあげて挨拶をした。バーテンダーに向かっての挨拶である。
「やあ、まずは軽く一杯といこう」
男にしては少し甲高い声でドージャーは言ってガーシュインが座っているすぐ隣りの席によりかかるようにして立った。ガーシュインが目を上げる。ドージャーはあまりに近くに立ってしまったことに気がついたのだろう、先客への敬意を軽い会釈で示してみせた。
「いいネクタイだね」
とガーシュインは挨拶がわりに聞いた。ドージャーは嬉しそうな笑顔を浮かべて、
「これはどうも。確かにいいネクタイですよ」
と素直に答える。
「スーツもいい」
誉められて嫌な気はしないのだろう、ドージャーはそのままガーシュインの隣りの席に座る。ウイスキーを注文しながら、
「着道楽なものでね」
と目配せをしてみせた。ガーシュインは肯定の笑顔を微かに浮かべると、
「ここんところはろくなニュースをやってませんね」
「まったく暗くなるようなことばかりだ」
「原子力発電はまた放射能漏れを起こしたそうですよ」
ドージャーは知らなかったのだろう、大きく目を見開いて、またか、と声を上げた。
「これで明日の株価は大暴落だな」
ガーシュインが笑う。今までバーテンダーと喋っていたゴドーがぬっと顔を二人の間に突きだしてきて、
「こんな時代とはおさらばしたいってさっきもこいつと話してたんですよ」
と言って大笑いした。
「でも、そんなのタイムマシンでもなきゃ無理な相談だよな」
ドージャーも誘われて笑うと、
「タイムマシンと言えばタイムマシンを作るんだってわめいていたおっさんがいたな」
「タイムマシンを?」
ゴドーが目を大きく見開いた。
「作れたらノーベル賞ものじゃないか」
ドージャーはおかしそうに笑うと、
「ええ、でも、残念ながら酔っ払いの戯言ですよ。可哀想に彼は本当にできるものだと信じ込んでるようでしたがね」
「酔っ払いというより狂人に近いな」
「そうですね。でも、その酔っ払いのおかげで僕は小遣いを稼ぎましたよ」
「小遣い?」
「他言無用、ってことで口止め料をくれて。おかげでこのスーツを新調できたようなもんです」
ゴドーは低く口笛を吹いた。
「俺も会いたい」
ドージャーは大いに受けた。バーテンダーは笑いながら、
「ドージャーさん、それトップシークレットですよ」
と注意する。ドージャーは大袈裟に驚くと、
「あ、そうだった」
と言った。
「実はね」
とバーテンダー。声をひそめると、
「私ももらったんですよ。その口止め料ってやつ」
「で」
とゴドー。
「あんたは何を買ったんだい?」
「新しいバイクですよ」
「大盤振る舞いだな」
「でしょう?だから、狂人なんですよ。酒が醒めた後でもその調子なんですから」
「じゃあ、あんた達、」
とゴドー。
「気をつけなくちゃな。口止め料もらっておいてべらべら喋ったんだから」
「そうですね。ガードマンでもつけなくちゃ」
ドージャーはのりのいい若者だった。笑いながら彼の目線が遠くを見た。店の扉が開いて入ってきた新客と待ち合わせていたのだろう、
「それじゃあ僕はこれで」
と退場を宣言した。
「気をつけて」
とゴドーが戯れ言で返してドージャーはもう一度受けた。後ろ姿を見送ると赤毛の痩せた女の方へと歩み寄り、彼女の肩を抱いて、そのまま、隅のテーブルへと去っていった。
「今の世の中、おかしな人が多いですね」
とバーテンダーは言うと別な客に呼ばれてそちらの方へと行ってしまった。
「ドージャージュニアの証言の裏は取れたかい?」
ゴドーがガーシュインに呟いた。ああ、とガーシュイン。
「どうやらラリってたわけでもなさそうだ」
「今の世の中、妄想を言うやつ多いからね」
「帰るか」
「待てよ、もう少し飲ませろよ」
「経費でか?」
「でなきゃこんないいスコッチ頼むものか」
ゴドーはグラスに口をつけた。
夜が更けて店はだんだん客の入りが多くなってきていた。
「そろそろ引き上げようぜ」
とガーシュインが薄暗い店内に目をやりながらそう言った時だった。
「シンプソン?」
すぐそばで声がして、ガーシュインはそちらへ目をやる。そこには亜麻色の長い髪の女がガーシュインへひたと目を据えていた。
「ああ」
と彼女は温かい溜息を漏らすと、喜色満面に浮かべて、
「やっぱりシンプソンだわ」
と嬉しそうに言った。
「誰?」
と言ったのはゴドーだった。ガーシュインは彼女の青い瞳を見つめたままで、
「知らない」
と小さく頭を振った。
「探したのよ」
と彼女はまるでガーゼに水を染み込ませるように喜びを声ににじませて溜息とともに吐き出した。
「失礼ですが」
とガーシュイン。
「人違いのようですね」
言って腰を浮かす。彼女は慌てて、
「待って。シンプソン」
「ガーシュイン」
「ガーシュイン?それならそれでもいいわ、ガーシュイン、待ってちょうだい」
「悪いが、俺はあなたの、」
「クララよ。クララ・モリス」
「──クララ、君の探し人とは違う」
「でも、間違いないわ。あなたポートナムにいたことはなくて?」
「あるよ」
「あそこにいて私のことを知らないわけはないわ」
「残念なことにちょうど取り込み中だったからね」
君のことは知らない、と彼は言った。
「そんなことはないわ!」
彼女はヒステリックに叫んだ。
「あなたきっと忘れているのよ、記憶喪失か何かで!」
バーの客が何人かこちらに目を向けた。ガーシュインはバーの扉を見ながら、
「クララ」
と言った。
「改めて話をしよう」
「いいわ」
「ポートホールは知っているか?」
「──ええ」
「今夜、十一時過ぎにそこで会おう」
「どうやって探せばいいの?」
「ポリスにRRRと言えば教えてくれるよ」
「十一時過ぎね。わかったわ」
彼女は興奮のあまり涙ぐんだ瞳にレースのハンカチを当てながら消え入るようにそう呟いた。ガーシュインは彼女に一瞥もくれず、
「出よう」
と言った。
「ガーシュイン」
バーを出てすぐの大通りを駅の方へ歩いていきながらゴドーはガーシュインに声をかけた。
「もしかしてあの女、お前の昔を知っているんじゃないのか?」
「違うね」
ガーシュインは即答する。あまりの早さにゴドーは苦笑いを浮かべて、
「ちっとは考えろよ。大した自信だな」
「俺は」
とガーシュイン。
「ポートナムでの記憶は失っていないんだぜ」
「それ以前にもポートナムにいたってことだってあるだろう?」
「あり得ないね」
ガーシュインはゴドーの意見をけんもほろろに却下した。そして、
「彼女は妄想で物を言っているだけさ。彼女はおかしいのさ。ただ懐かしがる相手が欲しいだけだ」
「それでも今夜十一時にポートホールで会うんだろ?」
「ポートホールってのはチャットだよ」
「チャット?」
「インターネットの」
なるほど、とゴドーは合点した。
「出かける必要がない時には便利だ」
「チャットルームで待ち合わせねえ。すっかり電脳社会に取り込まれているねえ」
「機械は便利に使うさ」
「俺も?」
「お前は人間だろう」
言われてゴドーは、
「わからんぜ。機械かも」
言いながらくすくす笑った。
その日、十一時過ぎにクララはチャットワールド「ポートホール」へと出かけた。出かけた、と言っても別に外出するわけではない。コンピュータの前に座り、スイッチを入れ、プロバイダに接続をして、チャットワールドにつなげるだけである。つながったモニターには暗い夜の公園が画面一面に映し出された。画面には何人か既に人間の姿が映っていた。人間と言っても画面に写るのは勝手に選び出した人物のフォトである。モニター上の人物が中年男だったとしても実際にそれを操るのが中年の男性とは限らなかった。クララは自分の映像としてはシンプソンが探しやすいように現実の自分に近い亜麻色の二十五、六才の女のフォトを使う。名前も好きにつけられるが、この場合、クララと設定した。ポリスは公園内の警察署にいるはずだった。ポリスはこの世界の案内役である。初めてここを訪れる人間はポリスに何でも聞くことができた。
クララは早速、ポリスにRRRが来ていないかどうか訊ねる。
「来ているよ」
スピーカーから低い声が聞こえてくる。クララはマイクに向かって、
「どこに行けば会えますか?」
と訊ねた。ポリスは、RRRがクララに会いたいかどうか確認してみるから、と警察署の中に消える。5秒かそれくらいの間があって、
「RRRは噴水の所にいるよ」
と教えてくれた。
噴水は公園の真ん中にある。クララが噴水まで来ると、そこには小さなジーンズを履いた男の子が待っていた。
「RRR?」
「そうだよ」
男の子は舌足らずの声で応えた。
「あなたの分身って子供なのね」
クララは挨拶代わりに感想を言う。
「やあ、クララ」
RRRは気にしない。
「で、俺が誰だって」
「昼、言ったとおりよ」
クララは名前は言わない。ネット上で言えば往来で大声で怒鳴るのと同じだからである。シンプソンの名前が公にされていいわけがなかった。
「犯罪に巻き込まれた哀れなあんたの男?」
「違うわ」
失礼ね、とクララは憤慨する。
「彼はそんな人じゃないわ。ただ彼とは幼なじみで」
「何故、俺が彼だと思う?」
「そのものだもの」
顔も声も。
「でも、違う」
「あなた、記憶喪失になったことは?」
「現在進行形で喪失している」
「ほら、ごらんなさい」
「誰に雇われた?」
「え?」
「あんたは誰に頼まれたんだ」
クララはむっとする。
「もういいわ」
いいしな接続を切った。数秒、消えてしまった真っ黒な画面と向き合っていた。が、すぐに再接続した。画面にさきほどの噴水がすぐに映ったが、もうRRRはどこにもいなかった。 (つづく)
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