歴史の小舟

オーディンの森

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源義経は本物か?

 今、はまっているのが源義経。

義経に武家の家来がいないのはなぜか?

義経は偽物なのではないか?という裏面史ファンが好きそうな角度からのアプローチにはまってます。

きっかけは人から借りた漫画でしたが、この時代について何も知らないなと思い、ちょっと調べてみたらあなた、目からぼろぼろ鱗が落ちて膝まで埋まってしまいましたよ。

義経の母、常磐御前が三人の子供を抱えて命乞いをした話は知っていました。そいでもって、頼朝が熱田神宮宮司の娘の子で池禅尼の取りなしで命拾いしたのも知っていました。ついでに平家追討に源氏三兄弟が活躍したことも知っていて…

なのに、私はこの三兄弟、頼朝、範頼、義経をなぜか同母兄弟と思っていたのでした。

あああ、お馬鹿。上の情報を持ってしてもそうはならんぞ。

ホントになんにも知らんかったなーと痛感したことでした。

で、義経偽物説については以前、「義経は伊勢三郎だった」という話を聞いたことがありました。

が、私は「伊勢三郎って誰?」状態だったので、とりあえず『義経記』を図書館から借りてきたら、なああんだ、伊勢三郎が出ているじゃありませんか。ちぇ、さんざん調べたのに。

この時代に詳しい人には「この馬鹿たれがっ」と言われそうですが、伊勢三郎は義経の家来として登場していました。

これでは伊勢三郎義経説は成立しないのではないだろうかと今、思案中です。

なぜこの説が生まれたのだろうというのが目下の疑問。

目から鱗だったことの一つに頼朝が長男ではなかったということがありました。

私はずっっっと長子だと信じていたのですが、家系図を見て、三男だということがわかりました。

じゃあ、長男次男はどうしたんだろう?とこれは当然の疑問。調べましたよ。

人とも戦で亡くなっていて、頼朝挙兵当時はやっぱり頼朝が一番上だったというわけです。

あれ、義経の兄二人はどこに行ったのだろう?との疑問も湧いてきて、今若、乙若、牛若の三兄弟。

この二人も頼朝の傘下に入って戦っています。阿野全成と義円です。

全成は鎌倉幕府成立後、二代将軍頼家への謀反の容疑で殺されていますが、義円の方は源平合戦のおりに戦死を遂げています。

本当に源氏は兄弟総出で戦った戦だったんですねえ。

目下、はまり初めの義経伝説、私はもともと義経はあまり好きでなく、やっぱり頼朝よねっ!の立場なのですが、今回はじっくり調べてみたいと思ってます。情報あったらください。

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奈良は何語?

私は「外来語辞典」を持っている!

というのは自慢にも何にもなりませんが、字引というのは私の趣味の一つです。これも何の役にも立ちませんが。

で、何を調べてたのかなあ、調べてた横のページをひょいと見たら、「なら」が載っている。

奈良って外来語だったんだっ!!

【中 奈良、寧良、朝 nara】《原義:みやこ》(角川外来語辞典 荒川惣兵衛著より引用)

きゃあああ、奈良ってみやこって意味だったんだあー!知らなかった〜じゃあ、奈良の都っていうのは重複表現よねっ?じゃあ、飛鳥は?これも外来語?!…

興奮しまくって調べましたが、飛鳥は載っていませんでした。

飛鳥を「あすか」と呼ぶのは「飛ぶ鳥の」が「明日香」の枕言葉だったからと言われています。これも面白いけどね。「あすか」は日本語なんだろうか、という新たな疑問に悶々としている今日この頃、今度は図書館に地名辞典を調べに行こうと思っているところです。

地名辞典は面白いです。はい。ホントに字引は楽しいです。調べてほしいことがあったら言ってください。調べることがなくて寂しいので。

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富士山は何語?

上のお題を読んでいない人は、まあ、私がここで「外来語辞典」なるものを手にしていると思いねえ(森の石松かいな…)

辞典引いてて思い出したんだな、昔、エキサイトした発見を。

富士山の富士が載っていたんですよ、外来語辞典に。顔面蒼白。富士って日本語じゃないの!

フジ【中 火[fu]>朝pul+ち、アイヌhush,push】《アイヌpush噴出、噴火の義》

ちょっと待てっ!pushって英語と同じじゃないの〜っ!確かに古日本語は「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」だったってのは知っている。しかし、アイヌ語が英語と同じってのは…

もう疑問符飛びまくり。え、で、どうしたかって?いや、それで終わりですよ。驚いて終わり。

だって、素人ですもの〜(おいおい)詳しい方いらっしゃったら教えてください。

ちなみに「骨」は「ぽね」、poneです。

ホネ【アイヌpone】《参考:英bone》

p音とb音って確か簡単に行き来しませんでしたかね?

               (引用箇所は全て角川外来語辞典 荒川惣兵衛著より)

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明日香は何語?

奈良は何語?というお題で答えが出なかった「明日香は何語?」。
調べてきましたよ、地名辞典!
これ、私は知らんかったが、古事記の履中記にあるんですってね。読んだはずだが・・・;明日神宮へ参るから、明日香・・・正確には遠飛鳥と近飛鳥についての説明のようですが・・・わからない説明ですみません。リクエストがあればここで改めて説明するとして今は先を急ぎましょう;
で、地名辞典の答えはっ(焦らしてます、はい)、賀茂真淵・伴信友曰く「イカス」という鳥の名に由来するのではないか、あるいはア・スカ(接頭語+住処)、あるいはアス・カ(崩地+処)、あるいはア・スカ(接頭語+洲処)、あるいは大陸系渡来者の安住地(安宿)などがあり、要するに諸説紛々、これといった定説がないということのようなのです。なーんだ。
しかし、外来語辞典で発見した時のような血湧き肉踊るどきどき感のない、なんだか拍子抜けした調べ物なのでした。
だが、答えはわかった。明日香は大和言葉っ、なのだった。
奈良と明日香、並び称される二つの言葉ですが、生まれを異とする言葉だったんですねえ。当時の日本は国際的だったと言われますが、この言葉自体がそれを証明しているようでとても面白いと思いました。レポート終わり。

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日本人の髪はなぜ長い?

昔から不思議だったのだが、どうして歴史上の日本人ってみんな髪が長いのでしょう?
そんなの気にするのはもしかして私くらいのもんかもしれないが、これって考えてみればすごーく不思議だと思いませんか?
髪って短い方が絶対動きやすいと思うのに埴輪の時代からみんな男も女も長髪なんですよ。おまけに髷を結っていて古代ほどおすべらかしと言われる垂らした髪ってないですよね?平安時代はそりゃあみな垂らしているけど、じゃあ、どうして縄文時代や弥生時代は髷を結っているんだ?
今のところ私が髪に関する神話や伝説で知っているのはたった一つ。聖書の中のサムソンとデリラの話だけ。有名なので御存知の方も多いでしょうけど、怪力サムソンの秘密は実は髪にあって、ある日、その髪を奸計によって切られてしまう、というお話です。
聖書と日本の文化との間に全く因果関係がないのは比較文化学に照らさなくてもわかるので、両者は全く無関係。
確かに髪が自然に伸びるということで、髪に不思議な力を認めていたということは十分考えられるでしょう。しかし、そういう曖昧な理屈だけか?と疑問山積。今、本を漁っている最中でございます。知っている方は是非教えてください。
しかし、これだけで終わってしまうのもつまらないので、違う話を一つ。
なんで昔の人が頭の真ん中を剃っていたか知ってます?
月代(さかやき)と呼ばれる、時代劇でも剃り上がっているあの部分ですが、これは知っているんだ、私(自慢するっ)・・・知っている人も多いと思いますが;;;
これは主に戦時中の習慣だったらしいのですが、兜をかぶりますよねえ、その時に気が逆上するのを防ぐために剃ったと言われています。のぼせ防止とでもいうんですか。あるいは高温多湿の季候ですから兜を被った頭が皮膚病になるのを防ぐためとも言われています。その証拠なのかどうかわかりませんが、兜のてっぺんは穴が開いていますよね。工夫されていたんだなと感心します。

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ヤソタケルの語源〜エゾ・エミシ・エビス

ここんとこ、歴史らしいネタがない。神話にかまけているせいが一番なのだが、いつまでも更新しないというのも何だし、困った時の語源ネタでいきます。
というわけで、ヤソタケル。
「古事記」「日本書紀」を読んだ人にはお馴染みでしょう。ヤソは八十で、たくさんを意味し、タケルは猛き人の意で、「広辞苑」曰く”多くの勇猛な夷族の長”。
じゃあ、ヤソタケルにこれ以外の語源なんてないんじゃないの?と思うのが普通で、私も別に疑って調べたわけではないのですが、例によって角川「外来語辞典」(荒川惣兵衛著、角川書店)ぺらぺらめくってたら、あったんですね、ヤソタケルが。
えっ、外来語なの?とびっくりしましたよ。
正しくは、ヤソ タ ケル、と区切るのだそうな。

【アイヌ esoro-tanne-kuru】昔の、えぞの首長。「esoro、tanne何れも”長し”、kuruは”人”の義」(上田万年他『日本外来語辞典』1915

ちょっとこれはびっくりしちゃいましたねえ。ヤソタケルってアイヌ語だったんだ・・・
じゃあ、その「えぞ」ってのは何だ?ってことで、こっちも調べてみる。

エゾ【アイヌ enchu,enju】《原義:人》� 埒夕錙侫┘潺掘�アイヌ。�◆埣鰐勝嬲務て擦慮転痢�「金田一博士はエゾはエンチュ〔enchu〕又はエンジュ〔enju〕という語の変化であると説かれた。之はアイヌ語では人という意味に外ならない語であるが、彼等自身が自らを称してかく呼んでいたのを、日本人が他称の語として受け入れてエゾとよびならわすに至ったという。その語は平安朝の末期、鎌倉時代の初期頃から日本の文献にあらわれてきた」新村出『外来語の話』1954

やっぱりアイヌ語だったんですねー。これはちょっとエキサイトしましたねー。さて、ここから話を発展させてみましょう。
夷っていう字、他にも読み方ありますよね?
そう、「えびす」。えびす様のえびすです。その「えびす」も調べてみます。

エビス【アイヌ emchiu】エミシのなまり。エゾ。アイヌ。転じて、夷狄。

つまり、ですね、エビス様っていうのは「外国の神様」て意味になってしまいませんかねえ。面白いな。
で、エビス様を今度は「広辞苑」(第三版、新村出編、岩波書店)で調べてみます。

えびす【恵比須・恵比寿・夷・戎・蛭子】

長いので説明はしょりますが、もと蛭子神であるとあります。蛭子神というのは「古事記」で国生みで最初に生まれて流されてしまう、あの蛭子です。この神が後にエビス様になったという話なんですね。ここから先はいづれ「神話の森」で、ということで。ちょいとあちこちたどってみました。ちょうどいい暇つぶしになったでしょうか?

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坂本龍馬暗殺犯

先日、っていってもずっっと前ですが、新聞に坂本龍馬暗殺の首謀者が実は薩摩藩だった、という記事が載っていて、びっくりしたことがあります。
坂本龍馬暗殺犯は今までのところ、見廻組説が一番有力だったのではないかと思います。
明治三年に刑部省によって元見廻組の今井信郎が取り調べを受け、その口書が今に残っていますが、ここには今井信郎をはじめ、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人の名前が具体的に上がっています。龍馬を襲った者は小太刀をよく使う者だと言われますが、佐々木只三郎が小太刀の名手だったと言うし、こんなに早い時点だと龍馬の敵討ちをしたいという者はまだたくさんいたでしょうから、そんな時にわざわざ今井信郎が嘘の供述をする理由もなく、これで確定と私は信じていたのでした。
それだけにこの記事には驚きましたねえ。
ただ、確かに見廻組が犯人なら幕府側には当然、報告が行っていてもおかしくはないはずで、それなのに、何故未だに真相が謎のままなのか、それはずっと疑問に思ってはいました。幕府側の人間もかなり明治政府に登用されていますし、そこいらあたりから真相とやらが公になっても不思議はないと思うのですよ。何といっても日本海軍の祖たる坂本龍馬に関することですから。
新聞記事には詳しいところまでは載っていませんでしたが、どうやら古い手紙が発見されたようです。そこに薩摩が出てきているらしい。いづれこの新発見はきちんとした形で発表されるのでしょうし、龍馬ファンの間からは当然、異論が出されることでしょう。
幕末史に関しては、最近やっと明治史観に捕らわれない歴史判断ができるようになってきたように思います。どんどん新資料が表に出てきて、あるいは今まで思っていたのとはまるで違う史実というのが出てくるのかなあ、と今からどきどきしていたりします。

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かの有名な頼朝像は頼朝ではないのか?

源頼朝といえば浮かぶ顔がありますよねえ。教科書にも載っていたあのりりしい肖像画。
私は肖像画や写真で歴史上の人物を好きになったり嫌いになったりというのはあまりしない方なので、あの絵が凛々しいから頼朝が好きというわけではないのですが、肖像画の中でも大傑作と言われるこの絵が実は頼朝ではないのではないか、という疑問を持たれているのです。
これ、歴史ファンの方ならとっくに御存知だと思うのですが・・・わはは、今日はちゃんと資料があるぞっ、えっと、この疑問が最初に提議されたのが1995年。米倉迪夫氏の『源頼朝像 沈黙の肖像画』という一冊の本がきっかけだったそうです。
・・・でも〜、実は皆さんも疑問に思いませんでした?
この肖像画、よく知られているように平重盛像と対ですよねえ(正確には神護寺三像といって三枚なんですけど・・・って私もついこの間知った;)。
この二枚すごくよく似ていて、おまけに向かい合わせに描かれている如く、です。
小学生だか中学生だか、この二枚の絵を最初に見た時、思いませんでした?
なんで平氏と源氏が一対になって描かれているんだろう?って。
頼朝の相手が重盛っていうのもすごく解せなくて・・・なんか奥歯の奥に物がはさまっているような感じが長らくあったものでした。
だから、今回の異議あり、はすごく納得がいったのでした。
米森氏曰く、「頼朝像は実は足利尊氏の弟、足利直義であり、重盛像は尊氏である」と。おお〜、唐突っ、何を根拠にっ、と一瞬、思ったのですが、でもっ、確かに、確かに尊氏は垂れ目だったような気がする〜!
だって、ほら、あのざんばら髪の、あの有名な尊氏の肖像画・・・!あれ、垂れ目で顔だって横に広いし・・・似てる、重盛像に!・・・と狂喜乱舞。
ところが、そうじゃなかったんです・・・あのざんばら髪で刀、引っ担いでいる有名な尊氏像、あれも実は尊氏じゃないんじゃないか、と言われているんだとか・・・;;
閑話休題。米森氏の言うところによると、普通、複数の人物を描く場合、位の上の人の方が右に来るのだとか。そうすると、頼朝より重盛の方が偉いということになってしまう、と。なんか説得力ある御説だなあ〜と一人で納得してしまいました。
この説はまだ反論も多く、定説とはなっていませんが、さて、本当は誰なのでしょうね。わくわくする。これだから歴史はやめられません。

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土方歳三という人間

土方歳三という人物がどういう人かというのは御存知の方が多いと思います。新選組の副長ですよね。
また司馬遼太郎氏の小説「燃えよ剣」の主人公としても名高い人物ですね。
実は私が土方という人物について多少なりとも知ったのはやはり「燃えよ剣」を読んだ時でした。
でも、本当に土方がどういう人間なのかということに興味を持ったのは、このすぐ後に土方の子孫の方々のお話を読んだ時でした。
末裔の方曰く、故郷の多摩にいた頃はこれといった武勇伝もない普通の人だった、と。
小説やドラマ、マンガにいたるまで土方のイメージは若い時から喧嘩っぱやく、冷静冷徹な策士とされています。それが”普通の人”だったというのはすごくイメージと違う。どうやら実際はお話とは違うようだ。歴史の虚像と実像の差の面白さとでもいうものに気づいたのはおそらくこの時が最初だったように思います。

幕末という時代は面白い時代で、最大公約数的に多くの人が歴史と体感できる最後の時代、という気がします(意味不明でスミマセン)。
幕末以降はどちらかと言えば現代に通じる過去とでも言った方がしっくりする時代になるような気がするのです。はい、ただの主観ですが。
でも、幕末は歴史ながら過去とも相通じる曾々々お祖父ちゃんの昔話がリアルに語り残されている時代でもあります。

かつて本当に存在したということのリアリティにぞくぞくするほど魅了された身には聞き書きほど魅力的なものもありません。
ところが、この聞き書きや多くの史料で浮かび上がってくる土方歳三という人間は実に曖昧模糊としていて、一つの像を結ばないのです。
郷里では「如才ない愛嬌者」だったと語り残され、京都では「むっつりとしてあまり物を言わない」と言われ、やがて新選組となってからは「鬼」と言われ、宇都宮では敵前逃亡しようとした味方の兵卒を斬って自軍の士気を高めたかと思うと、従兄弟に、斬った兵卒が不憫であると涙し、墓を立ててやってくれと頼んでいる。そして、元新選組隊士をして、人が彼を慕う様は「赤子の母を慕うが如し」と言わせ、彼の訃報を聞いた隊士は「赤子の慈母を失うが如く」悲嘆にくれた、と期せずして別の二人の口から母とまで形容されています。
こんなにばらばらな印象がどうして一人の人間に対してあるのだろう、と私は不思議で仕方ない。
ただ気がつくのは、戦時において土方が戦争という異常事態の中で常に普通だったということです。戦乱の中で高揚し、忘我状態となることが多い中、彼が戦乱に取り憑かれることなく、普通であり続けたというのはとても面白いと思うのです。
こういうことを言うと土方ファンの人に怒られそうですが、土方が普通の人のまま、普通以上のことをなしていくのを見ると、同じ普通の人間としてとても励まされます。
少なくとも土方歳三という人間は私にとっては今のところ、まだ一人の人間としての像が結べていないままの人物ということなのです。

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大化改新の首謀者は中大兄か?

大化改新というと若き皇子、中大兄、後の天智天皇らによって蘇我入鹿が討ち取られるシーンをイメージされる方が多いでしょう。
645年6月12日、二人の討ち手がためらっているのを見かねて中大兄自ら剣で入鹿に斬りかかります。この時、中大兄は19才。勇猛で進歩的な性格だったと言われ、大化改新をおしすすめた中心人物というのが定説です。
が、何故、彼は蘇我氏滅亡の後すぐに即位しなかったのでしょうか?
これって考えてみると結構、不思議だと思うんですけど。
以前、この問題についてテレビでやっていたのが”大化改新の首謀者が中大兄ではなかった”という説。孝徳天皇こそが首謀者だったのではないか、という仮説が立てられていて、目から鱗、でした。
確かに孝徳天皇が首謀者なら話はわかりやすくなります。蘇我氏の滅亡とともに即位したのはこの軽皇子、孝徳天皇だったんですから。年号を大化と改めたのも、大化改新の詔を発したのも孝徳天皇で、在位期間も9年の長きに亘っている。一般には中大兄がすぐに即位しなかった理由を年が若かったからとする説もありますが、孝徳天皇の崩御した年には中大兄は28になっているのに即位を固辞、母親たる斉明天皇が重祚したのは周知の通りです。皇子の方が動きやすかったという説や中臣鎌足ら側近が豪族を中心とした政治形態を目指していたからだとかも言われますが、どうなんでしょう。あれだけ血気の人であり、才気の人でもあった中大兄が28にもなって皇子でなければ身動き取れないというのも今一つ納得がいかない気はします。
それに、ですよ。彼の在位期間が実はたったの3年間しかないんです。何となく影の薄いような気のする孝徳天皇が実は9年も在位し、立て役者と言われた天智天皇が3年というのはなんだかすごく不思議な気がします。死期が早かったのだということもできるでしょう。しかし、彼は早世したわけではない、享年45で、長生きとは言えないまでも何か事を成す時間はあったと思うのです。
さらに面白い記述を見つけました。孝徳天皇こと軽皇子が蘇我入鹿とともに聖徳太子の息子である山背大兄王家を攻め、滅亡させたというのです。
『上宮聖徳太子伝補闕記』にそう書いてある、と『日本書紀・風土記』(直木孝次郎ほか編 角川書店)にあります。当時、軽皇子46才。あるいは蘇我入鹿に担ぎ出されただけなのかもしれませんが、世間に言われているようにただ穏当なだけの人物というわけでもなさそうで、政治への関心も意欲もかなりあったのではないだろうか、そういう想像をさせてくれて、大化改新首謀者説もかなり現実味を帯びて見えます。
孝徳天皇が首謀者だったとすれば、黒幕と立て役者との間で当然、対立はあったでしょうし、中大兄があれほど神経質だった理由もあるいはわかるような気がするのですが。さて、どうでしょうか?

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大阪の語源

語源シリーズも長くなりましたねえ、しかし、まさかここで大阪についてやろうとは思いもしませんでしたよ;
またまた「角川外来語辞典」(荒川惣兵衛著)。これで実はオーディンを引いていたんです。本当はこの本、オーディンが載っているから、ただそれだけの理由で買ってもらったんですけどね;;
閑話休題。
オーディンの前のページ。なにげなく見たら”オーサカ”とある。一瞬サーカス?と思ってしまいました。

オーサカ【アイヌ o-sa-t-ka】《川口のかわいた岸の義》現在の大阪市。『日本書紀』仁徳帝の歌に烏瑳介>小坂(おさか)>大坂(蓮如:ご文庫)>大阪(明治維新前)

目が点。思わず「本当かっ?」と叫びたくなりました。だって、日本語で大きな坂でもいいじゃない?しかし、仁徳帝には「おおさか」の「おお」は「烏」と書かれている。「烏」って「う」だっけ?「小坂」の頃があったってことは「大」が本来、そういう意味を持っていたのではなくて、名前に箔を付けるために「小」より「大」に変えたってことでしょうから「大きな坂」という意味という語源は消えることになる。つまり、字自体の意味からは語源はたどれないということか。だとすると・・・浅学の身には疑問山積。ああああ、わからない〜(思わずたれぱんだ・・・意味わからない人、気にしないでください)。ということで次は手がかりの仁徳記を見るしかないか。我が家には日本書紀、全巻ないので、図書館まで行ってきまーす。

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日出る処の天子は誰?

私はもう泣くぞ;何度更新しても消される;
オーサカの語源はどうしたって?;(↑参照)図書館行ってないんですもん;もう少しお待ちを。
で、割と有名なネタを。
私らの頃は、日本史の教科書に推古期、朝廷は煬帝へ使者を送り、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と書いた国書に煬帝が怒ったと載ってましたが、今はどうなんでしょう?
大和朝廷もなかなかやるな、と思ってたのですが、教科書の欄外にこのエピソードの出典が『隋書』だとあったのを見て、おや、と思いませんでした?なんで日本の書物じゃないの?って。
日出る天子という言葉の出典は日本の書物じゃないんですね。じゃあ、『隋書』に推古天皇だの聖徳太子だのが出てくるのかといえば出てきません。じゃあ、誰が出てくるかというと、『隋書』曰く、「開皇二十年、倭王あり」(『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波文庫)。姓は阿毎、字は多利思比孤または北孤です。
阿毎は「あめ」、「あめのたりしひこ」といったところでしょうか。
開皇二十年というと推古八年。じゃあ、この多利思比孤が推古天皇かといえば、多利思比孤には妻がいて、おまけに後宮に六〜七百人の女がいたといいますから、これはどう見ても男でしょう。「ひこ」と名前につくのもどうも女性らしくない。そう、辻褄が合わないんですよ。
多利思比孤の治めていた倭の国の習俗についてもかなり詳しく載っていますから、伝説の人物というわけではありません。確かに実在した王なのでしょうが・・・この矛盾を解釈するためにさまざまな説が唱えられましたが、どうも決定打に欠ける。とうとう多利思比孤は大和朝廷とは別の王朝の王だという説も出てくるようになります。
多利思比孤の国の習俗は大和朝廷と似ていると思うところもありますが、多利思比孤の性別のように大きな相違点もある。
この謎の王、多利思比孤が煬帝へ「日出る処の天子・・・」と国書に書いて使者を遣わした。つまり、「日出る処の天子」とは多利思比孤のことなんです。そして、この出来事は日本側の史料には記録されていません。
幾度かの朝貢の後、「此後遂絶」。いったいどうなってしまったのでしょう。

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般若心経の意味

よく意味のわからないことを、お経みたいだ、てなことを言いますよね。事ほど左様にお経というのは意味がわからないもんだというのが一般理解というものになっているようです。
でも、お経も信仰の上でのお祈りであるわけだし、無意味ってことはないはず。
世界史を習う頃になると、お経が元々はサンスクリット語で書かれていて、それを中国語に訳したもんだ、ということを教わった方も多いでしょう。それを訳したのは(と、ここは世界史の先生が面白おかしく言うわけですが)、西遊記でお馴染みの玄奘三蔵!で、うちの先生が言ったのですが、「お経がわけわからないのは、この中国語訳をそのまま読んでいるからで、要するに、日本語訳しなかったんですねえ」なんて無精者なんだ、日本人は!
もっとも、これにも理由があって、支配者層がトップシークレットとして秘密にしておきたかったからじゃないか、という説があります。こういう知識を独り占めにしておくことで地位を保ちたかったということでしょう。こういう例は世界史的にも多いですし。
つまり、お経の伝える情報は、当時、それだけ貴重な知識であったとということで、やはり何が書かれているのか、興味あるところです。
で、カトリックのお祈りや神道の祝詞は、この世が栄えるように、とか、自分の身を守ってくれるように、といったお願いを神様にしているのだから、きっとお経もそうだろう、と私は思ったんです。
仏教だから、きっと信仰の対象である仏への賛美、仏への帰依といった文言が並べられている、と予想したんですね。
まあ、だからといって別に、熱心にそれを調べてみたわけじゃありません。正直に言うと;ただ漠然とそう想像していただけだったのですが、その時、ちょうど図書館で、『般若心経・金剛般若経』(中村元・紀野一義訳注、岩波文庫)という本を見つけたのでした。
訳注、という言葉に引きつけられたのです。「訳してあるっ!」と色めき立って借りてきましたねえ。これで漠然とした予想が裏付けられると思いました。裏付けられる、そう思ったんです。
が、読んで愕然。
絶対、自分の予想は正しいと思っていたんです。だって、お祈りの言葉でしょ、仏への賛美、帰依が書いてなかったら、何を言うんですか。でも、なかったんですよ;;
そこには仏についても信仰についても何も書いてませんでした。
そこに書かれてあったのは哲学だったんです。
白状しますが、読んだのは般若心経だけで、まあ、短いし、自分はよく知っていたし(金剛般若経は知らなかった)。それでここでは般若心経だけの話をしていきます。
で、要するに何が書かれていたかというと。
思い切りかいつまんで言うと、「この世に存在するものは五つの構成要素がある。しかも、これらの要素は、その本性から言うと、実体がない」ということで、これについて話が展開していきます。
私がびっくりした事共を列記していきます(あまり驚いたので人に言いたい;;)
まずはやっぱり般若。
般若の面とかあるじゃないですか〜。これってこういう顔の仏様がいて、それでこれは絶対、仏様の名前だよねえ、と信じて疑わなかったんです・・・
それがまあ、思い切り大はずれっ。
般若、というのは根源的な叡知のこと、なんですってよっ!
判断能力としての分別知とは違う無分別知と、本書には書かれています。
でも、だって、とあきらめきれない私は『広辞苑』(第三版、新村出編、岩波書店)も引いてみる。

心理を認識し、悟りを開くはたらき。最高の智慧。仏智。

とある。えええ〜っ、ここにちゃんと書いてあるっ;;知らなかった;;;あれ、じゃあ、般若の面はどうしてあんなしかめっ面なんだろう?女性の嫉妬の表情だと聞いたことがあるが、嫉妬と最高の智慧の関係はなんだろう?

能面の一。面打ち般若坊の始めた型の鬼女の面で、角があり、悲しみと怒りをたたえる。般若面。(『広辞苑』より)

・・・・茫然自失。般若って、般若って、作った人の名前?名前から来てるの?嘘っ!!・・・般若の本来の意味とは全然関係ないのだった・・・・
まあ、般若はわかった。じゃあ、♪はんにゃ〜はら〜みった〜・・・の「波羅蜜多」は何か?というと、「完成」、なのである。完成。実に普通名詞。これもちょっとショック。深い意味があると思っていただけに・・・いかにお経が意味不明だと思いこみをしていたかということですねえ。
つまり、般若波羅蜜多とは「智慧の完成」という意味なのでした。
実はこの般若波羅蜜多心経という名前(これが正式名称)はもともと最後の一文なのだそうだ。最後の一文をお経の名前として採用したということで、このお経が「ここに、智慧の完成の心が終った」(『般若心経〜』引用)という一文で終わっているということです。
じゃあ、菩薩は?菩薩という言葉も出てくるのですが、これは絶対、仏様の名前、よねえっ。だって、○○菩薩、って仏像、たくさんあるし。
が、菩薩は「求道者」なのだそうだっ。なんでだっ!!

さとりを求めて修行する人。もと、成道以前の釈迦牟尼仏および前世のそれをさして言った。後に、大乗仏教で、自利・利他を求める修行者を指し、自利のみの小乗の声聞・縁覚に対するようになった。また、観世音・地蔵のように、仏に次ぐ崇拝対象ともされる。(『広辞苑』より引用)

ふう〜ん、ふう〜ん、やっぱり菩薩って求道者なんだ・・・・
面白いのは「舎利子」という言葉。こういう言葉がお経の中に何回か出てくるんですよ。
仏舎利とかいうし、きっとそういう意味の言葉だと思ってました。・・・はい、そうです、見当はずれでした;;これ、人の名前なんですよ、シャーリプトラという、釈尊のお弟子さんの一人で、智慧第一と言われた人なんだそうです。ちなみに「シャーリ」は鷺の一種、「プトラ」は子という意味だそうです。
つまり、これはシャーリプトラとの会話文なんですね。
じゃあ、誰と話しているかというと、これは玄奘が訳した小本と呼ばれるテキストにはどうも載っていないようで(←スミマセン、これは間違いです;正しくはこっち)、これとは別の本、大本の方によるとアヴァローキテーシュヴァラという長い名前の求道者となっています。大本によると、この会話が交わされた場所はラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクータ山(霊鷲山)。
般若心経はカトリックのお祈りや神道の祝詞というよりは、むしろ孔子の『論語』やキリスト教の『聖書』に近いということができるのではないでしょうか。
長くなってしまいましたね。ここいらで切りましょう。次に続きます。面白いです。

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 ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○ 
 

☆哲学する信仰

「般若心経の意味」第二弾です。まだこっちを読んでない人は、別に読まなくても意味は通じますが、読んだ方がより面白いかもしれません(^^;
で、いきなりですが、訂正をば;;
シャーリプトラの会話の相手が小本には出てこない、と言いましたが、間違いっ!出てきてます;;スミマセン;;相手であるアヴァローキテーシュヴァラ(ホントに長いな;)は観自在と訳されているのだそうです。これは意味による意訳です。アヴァローキテーが「観」、シュヴァラが「自在」の意味を持つため。
で、これを別の漢訳では「観音」または「観世音」と訳してあるのもあります。これも仏様の名前だと思ったんだけどな。この訳し方については今回テキストとして使用させていただいている『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)に詳しいです。本格的に知りたい方はそっちを是非読んでください。このくだりもすごく面白いですが、そうなると全部、ここに書き写さないといけなくなるので、そうなると著作権の問題も?ある?のかなあ?第一それより本屋さんで読んでもらった方が早いというものです。
で、菩薩は「般若心経の意味」で見た通り、求道者という意味なので、観自在菩薩とは、元々の意味は「聖者アヴァローキテーシュヴァラ」とでもいうようなことになるのではないかと思います。
ただ、これが次第にその意味が崇拝の対象となっていくようなんですよ。一個人の兼ね備えた徳としての智慧というものがアヴァローキテーシュヴァラという人格を離れて、智慧自体となっていく。そういう過程を経て、観自在菩薩は今、仏像で見るような菩薩様として信仰の対象になっていくのだと思うのです。
だから、仏像は哲学的思索の具象化したものということができるのではないでしょうか。
意味がわからないことをお経のようだという思いこみがあって、だから、ただ仏様に手を合わせているのが仏教なんだというふうに、実は漠然と思っていたのですが、実はもっと深遠なる哲学に支えられた教義をわかりやすく具象化したものが仏像で、私が見ていたのは、そのもっとも噛み砕いた形だったということになります。同じように思ってた方、多いんじゃないですか?
この一例からだけ結論を出すのはいけないかもしれませんが、これを見る限り、お経の意味するのは、哲学であり、その哲学の真理を正しいと認める一般大衆であり、仏教とは哲学の真理に崇拝の念を持ち、崇めようという信仰でしょう。仏教とは哲学と宗教とが渾然一体となった形と、ある意味、言ってもいいのかもしれません。
哲学と信仰は相容れない、と思っていた私はこれにとても驚いたのでした。 神をこの目で実際に見ることができない人間にとって、神概念を幻視や幻想といった超越した体験から理解するというアプローチの仕方があります。要するに奇蹟ですね。こういったアプローチは古くから世界各地で行われ、現在でも、多くの人の抱く宗教のイメージはかなりこちら寄りなんではないでしょうか。宗教とは非科学的、非論理的なものだという印象はここからきているのではないでしょうか。
しかし、このお経の意味を見ると、哲学的に理解するというアプローチもかなり古くからあったわけで、意外に信仰は科学的で論理的なものという側面もあるわけです。こうしてみると、初期の宗教が科学的で、時代を経るに従って、非科学的になっていくという一見して不思議な現象が起きていると見ることもできると思います。
さて、前置きがこんなに長く…;;;本題はまた次に伸ばすことにします。今度は「存在するものは五つの構成要素がある」という、その構成要素について見たいと思います。

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 ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○ 
 

☆五つの構成要素

さて、般若心経の「存在するものは五つの構成要素がある」という話です。
これは般若心経の中の「五蘊(ごおん)」という言葉ですね。字は難しいですが、「五つの集まり」という意味だそうです(『般若心経・金剛般若経』岩波文庫)。物質的現象である「色」と精神作用である「受想行識」の五つ(漢字五つでしょ?)からなるということですね、ええっと、たぶん、そういうことだと思います;;間違ってたら指摘してください;;
「色」は形あるもの、「受」は感覚、「想」は表象、「行」は意志、「識」は知識、とこの本の中では訳してあります。最後の「識」=知識は頭にある知恵というより、普通は六識といって、眼・耳・鼻・舌・身・意の認識作用が認識する働きを総称して言うんだそうです。なんかわかる気がしますね。
で、この世の全てがこの五つからできている、と。
そいでもって、この五つも実体のないものである、と。
…・そういうことなんだと思う、…多分;;
で、あとは色(しき)の話ばかりになるようなんですが、色、つまり、物質的現象、ってことですね。
…物質的現象、ってなんだ?
ええっと、『般若心経〜』の本にはその原語ルーパから「形のあるもの」あるいは「壊れるもの」「変化するもの」という通俗語源的解釈が行われている、とありますね。これを古来、変壊(へんね)・質礙(ぜつげ)の義あり、として、「変壊」とは絶えず変化して一瞬も常恒でないこと、「質礙」とは物質が同時に同じ処を占有できないことをいう、と説明してある…
ううん、と、これはつまり、諸行無常、ってことですか。
うん、たぶんそうだと思う。(違うっ、という方、名乗りを上げてくださいよ;;)
で、有名な一文、「色即是空。空即是色」ですが。
空は原語でシューニヤターというそうで、これは「何もない状態」なのだそうだ。インド数学のゼロと書かれていますね。
つまり、この世の中の全てのことは現象としてはあっても、それは現象であって、実体ではない、ということですね。これを空というのだそうです。
全ては相対的に存在する今、眼の前にのみ見える状態であり、絶対的存在ではない、ということでしょう。うん、きっとそうだ。
全てが現象で、実体がない、ということなので、つまり、生じるということもない、滅びるということも、汚れることも、浄められるということも、減ることも、増えることもない。
うん、辻褄あってますね。つまり、実体がないから、そういう属性もあり得ないということです。
これが「不生不滅不垢不浄不増不減」(ふしょうふめつふくふじょうふぞうふげん)という部分ですね。
この論理がこのまま、全てに適応されていきます。
即ち、実体がない、ということは、悟りもない、ということは悟らないということもない。
迷いもない、ということは、迷わないということもない。
そろそろわかってきました?
老いも死も苦しみもないということはそれらがなくなるということもない。
知ることもないし、得るところもない。ということは心を覆うものがない。
全ては全否定であり、同時に全肯定である。
だから、安んじてあることができる、全てはここに完成する。
存在する全てを否定するところから入り、しかし、否定するところから一気にプラスの思考に転じていく鮮やかな論法なんですよ、これが。
否定がありながら、無常観、無気力なところで留まらず、全ての存在を二元的な発想(否定・肯定、善・悪、是・非、有・無などの対立軸)から開放していく、この転がるような展開の鮮やかさ!
ちょいと気持ちいいくらいの見事さじゃありませんか。
私は感動しましたね。
明快な論理というのは実に気持ちのいいものです。
風通しのよい爽快感を是非、皆様も。
どちらか、ということで人は迷う、その選択肢がなくなってしまえば、確かに人は安寧の境地を手に入れることができるということでしょう。
あああ、面白かった。

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日本の名前はなぜ日本か?

久々の更新です(^^)
ううむ;;更新予告と全く関係ない話題となってしまいました;;もう二度と予告なんてしないぞ;;
はい、今回のテーマは実にシンプル。
日本はなぜ日本か?という疑問です。考えたこともなかったんですけどね;;
本読んでたら出てきたんで。日本の名前がどうして日本になったかというと、って。読んで、そういやそうだなあ、不思議だなあ、と思いました(- -;;
読んだ本は岩波文庫『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書和国伝』(和田清、石原道博編訳、長いっ!)。手持ちが1982年発行なので注釈その他、最新版とはちょっと違うところがあるかもしれません。
中国には正史と呼ばれる、国の公式な歴史書(でも、いい加減なのもある;)が二十四あります。この中で日本について記述したと思われるものが十五あるそうです(本にあるまんま;)。この中には前の時代の正史をまんま写したものもあり、史料的価値のあるものは厳選して「三國志」「宋書」「隋書」だと言われてます。で、その中で日本という国がなんという名前で呼ばれているかというと…お気づきの方もおいでだと思いますが、そう、「隋書」以前は、倭と呼ばれていました。で、「新唐書」以降は日本、「旧唐書」では倭と日本、両方載っています。
『魏志倭人伝…』曰く、「唐朝をさかいとして、中國人の呼(称)が倭より日本にかわっているのが注目される」のだそうです;;
あ、余談ですが、この本、初版が1951年なんで、旧字体のまんまなんですよ。打つのに時間がかかりますので、新字体に変えているところもありますが、それについては( )で表記していますので、そこのところご了承願います。また、正史の名前についても本来は旧字体ですが、新字体で表記させていただいております。
で、閑話休題。
なんで唐を境に日本と呼ばれるようになったかというと、「旧唐書」曰く「日本國は倭国の別種なり。其の國日邊に在る故を以って、日本を以って名と為す。或は曰う、倭國自ら其の名雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと」。また、「新唐書」に曰く「倭の名を悪み、更めて日本と號す。使者自ら言う、國日出ずる所に近し、以に名と為すと」。
つまり、日本という名前は倭という名前を嫌った日本(倭)人が自分達でよい名前を考えてつけた、ということになります。そして、その名の由来は「日出ずる所に近し」という位置的な理由なのだということを伺い知ることができるわけです。
しかし、ここから先は本に書いてあるわけじゃなく、またまた、私の思いつきでありますが、日本が日の出るところに近いよ、という感覚は、どこに比べて近いのか、という基準が見え隠れしているわけなんじゃないでしょうか? つまり、中国より日の出る所に近い、ということなんじゃないか、と。
要するに、この日本という名前は中国を強烈に意識してつけられた、ということになるのではないでしょうか、……なんてことは私が勝手に言っていることで、偉い先生は誰も言ってません(^^;;
ここから一つの推理が成り立ちます。
日本という名前を考案した人は中国と日本の位置関係に詳しい人だったということです。
はい、実に当たり前の推論でしたね(^^;;
で、これは本に書いてあるので、本を持っている方、あるいは面白そうだからこれから読もうっと、という方は読まなくてもよいのですが、なんで「倭」か?という疑問に編訳者の先生は一つの説を述べてらっしゃいます。 この説は白鳥庫吉博士の説によるものだそうですが、筑前の怡土、つまり、伊都國の訛伝ではないか、と。ふーむ、なるほど。気がついてみると、確かに伊都國って「伊の都」って字を当ててあるんだねえ。
じゃあ、「伊」に何か意味があるのか、となると…「新字源」で調べてみます(- -;;
余談ながら、この本では、有名な漢の光武帝からもらったとされるあの金印の「漢委奴國王」を「漢のイト國の王」と読んでいます。この説、あるの知ってたけど、確かに「委」とあるのをわざわざ「倭」と置き換えて読むというのも変な話だよねえ。
これには三つの説があるそうで、即ち、もっとも有名な「漢の倭の奴の国王」(博多の旧名、奴國)、そして今言った「漢の委奴(イト)國の王」(糸島あたりの伊都國)、最後に「倭奴(ヤマト)の國王」(言わずと知れた大和國)。この本が執筆されたのはずいぶんと古いようですが、さて、今の歴史学上ではどれが最有力なのでしょうか?不明にして私は知りません。

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江戸時代の鎖国の意味

江戸時代というと鎖国、というのは時代劇見てもわかるように(わかるか(^^;;)、今や周知の事実ってやつですが、では、なんで鎖国したの?っていうと、うっ☆と返事につまる人もおいでなんじゃないでしょうか?……って、私だけですか?そりゃ失礼いたしました;;
まあ、御存知の方もおいででしょうが、ここは知らない人におつきあいいただいて(^^;;
江戸幕府を開いたといえば徳川家康。
小学校の頃、家康の伝記ってのを読んだんですよ。その時得た教訓が「悪い奴でも勝つってことはあるんだな」と(^^;;堀埋める理由が凄いよな;;小さい頃、不遇な境遇だったといえ、だからって大人になってあくどいことしていいわけ?とか子供心に思いましたねえ;;史実をオブラートに包まないで小学生向けの伝記にそのまま載せた出版社に敬意を表します;;やっぱり事実は事実で載せないといけない思うんだよな。どう解釈するかは相手が子供でも任せた方がいいと、実体験から思うのでありました;;正義は勝つ、悪は負ける、じゃないストーリィに触れて、子供は「なぜ?!」って疑問符を抱くもんだと思いますねえ。考えてみれば私が歴史に興味を持った遠因があの本だったかもしれないな、と今、思いました(^^;;
閑話休題;;;
徳川の前の織田信長(すごいいい加減な表現だな;;あんまり有名すぎて書く気にもならないんだもん;;)あたりが西洋かぶれってくらいに、舶来物に抵抗がなかったのは御存知の通りですよね。
秀吉は、どうだったんだろう(ホントにここいらあたり興味ないなあ(^^;;)…まあ、ぶっちゃけた話、家康あたりまでは海外に抵抗はあまりなかったようなんですよ。それが秀忠あたりから急に鎖国へと向かい始めるんですね。
幕府が何故、外国を恐れ始めたのか?という疑問は当然、湧いてきます。
ここで結びつけられるのが、キリシタンですよね。キリシタンの禁令とほぼ同時期に鎖国は決まっていきますが、じゃあ、なんで、キリシタンは禁止されたんだろうか?という疑問もここで湧いてきます。
小学校の頃、歴史の授業で、キリシタン禁令と鎖国ってなんとなく同じ頃に習って、なんとなくそういうもんだと思っていて、つい最近まで疑問にも思わなかったんですよね、実を言えば(^^;;ホント初等教育の刷り込みって怖いっていうか、私ってば単純っていうか;;
家康は対外政策として通商主義でしたが、秀忠はこれを踏襲せず、鎖国へと突き進んでいきます。
家康の頃は、ウィリアム・アダムスこと三浦按針の影響でしょうね、イギリスが特権を持っていましたが、秀忠はこれを奪い、ポルトガル、イスパニアにも重圧をかけていきます。
ついにポルトガル船の来航が禁止となり、じゃあ、これで鎖国が完成したかというと、この二年後には平戸のオランダ商館が出島に移されるわけで…オランダ商館があるってことはオランダとは貿易をしてたってことで。これ小学校で習うから、知ってる人が多いと思いますが、鎖国中にもオランダとの貿易はあったわけですよ。ふうん、そういうもんか、と思ってたけど、よおく考えてみると不思議ですよねえ〜、って小学校の時に気づけって(^^;;
なんでポルトガルは駄目で、オランダはオッケーだったんでしょう?
これが、実は、キリシタンと関係あるんですよ。びっくりしましたよ。
オランダもキリシタンじゃん、と思うでしょ?それが普通ですよ。ところが、問題はもうちょい複雑だったんですよ。ポルトガルはカトリックで、オランダはプロテスタントだったんです☆つまり、禁止されたキリシタンっていうのはキリスト教の中でもカトリックのことで、国教がプロテスタントだったオランダは追放の対象とならなかった、ということみたいなんです。
イスパニアもそうだったのかどうか、まだ調べてませんが、これ、調べれば相当面白くなりそうな予感です。
じゃあ、どうしてカトリックが禁止になったかというと、一神教を厳密に守ろうとしたカトリックにとって従うべきは神のみであり、君主に従うことも教義に反するということで信徒が拒否したという話を聞いたことがあります。厳格な身分制度に支えられた徳川幕府が幕府の仕組みを根底から覆す可能性のある危険思想と考えても、無理からぬことかもしれません。布教の禁止から国外追放、来航の禁止、と厳しさの度合いが強まっているのを見ても、幕府とカトリックの折り合いがつかなかったのがよくわかるような気がします。また、カトリック教徒が領土的野心を持っていた、ということも聞いたような。
一方、プロテスタントは勤勉を奨励し、そのための努力を認めていますから、そういうスタンスで幕府との折り合いはついたということでしょうか。
元禄年間に来日した医師ケンペルの江戸参府の記録が残っていて、今も読むことができますが、これが面白い!う〜ん、これは改めて詳しくやりましょうか(^^)
2000年には、ウィリアム・アダムスが来日して日蘭交流がスタートして400周年を迎えました。改めてケンペルがたどった長崎街道を歩いてみるのもいいのではないでしょうか。彼は道すがらの城下町について大変詳細な記述を残していて、元禄時代の町並みを写真で見るかのごとくに描写しています。文字だけのタイムスリップを是非。

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