オーディンの森
言葉のお店
ネットの上のうろ覚え 〜 「ろ」か「る」か
私の十八番に「うろ覚え」ってのがありますが…って、十八番にしとくなっ(^^;;
本日のお題はこの「うろ覚え」です。
最近ネット上でちょっと気になることがありまして…「うる覚え」と表記してあることがあるんですよ。
最初は打ち間違えだろうと思ってたんですが、このところ頻繁に見かけるもんで、もしかしてこれは「うろおぼえ」が「うるおぼえ」と思いこまれている、ということなのでは?と気になったわけですね。しかし、もしかすると、「うるおぼえ」という言葉もあるのかもしれず、念のため、例によって例の如く、『広辞苑』第三版を引いてみることに。
で、やっぱり「うるおぼえ」なし。
「うろおぼえ」は「疎覚」らしい。疎略に覚えているわけですな。私はイメージとして「胡乱覚え」かあるいは「虚覚え」「空覚え」「洞覚え」かと思っていましたが、そうではないようです。紛らわしいこと書きました(^^;;「疎覚え」が正解ですんで;;でもまあ、イメージとしては穴だらけの覚え方、ということで、だいたいあっているかと思いますハイ。
まあ、そういうわけで。
「うるおぼえ」は完全なる誤りだというわけですが。
間違いでした、はい終わり、ではすっきりしないところもあるわけですね。
というのも、日本語というのは、誤りも、時には、新たな使用例として認められてしまうことがある、かなり寛大な言語なんですね。
どういうことかといえば。
たとえば、「佳」という字、最近では「けい」と使われますが、これは本来あり得ない読み方なんですな。つくりの「圭」は確かに「けい」と発音しますし、「桂」「珪」「畦」「硅」「閨」など、みな「けい」ですが、人偏の「佳」の読みは「か」なんですよ。元来間違われやすい漢字ではあったのですが、これが一般的に「けい」もあり、と認めさせたのは、最近では小椋佳氏が出てきてからではないかと個人的には思ってますけども。もともと「圭」をつくりに持っていて、「けい」と誤解されやすい下地が出来ているところへ、堂々と「けい」と名乗る有名人が出てきた。これによって「佳」はいっきに「けい」という読みを獲得していくに至ります。最近出た辞書には「佳」の項にそろそろ「けい」読みが掲載されていてもおかしくないかもしれませんね。
山峡などの「峡」も元は「狭」の誤字であったといいますから、誤字誤用出身の字はままあるわけですね。
ドイツやフランスなどでは外来語の流入をかなり敏感に制限していますが、これはヨーロッパの諸言語の成立ちを考慮に入れる必要があるでしょう。
ちょこっと言語に関心のある方なら御存知のように、これらの言語は「インド・ヨーロッパ語」に属する親戚関係にあります。最初、これを知った時には胸の内で絶叫しましたねえ…インドまで入るんかいっ!!って(^^;;インドですよアナタ、ヨーロッパと離れすぎ…とか思って;;はい、閑話休題ですね;;
もともとは同じところから出発し、枝分かれしていった言葉同士は、その差異は非常に微妙で、安易に外来語の流入を許していると、気がつくとドイツ語は英語になってました、てな冗談みたいなことも起こらないとも限らなかったりするらしいですね。考えようによっては外国語というよりも、インド・ヨーロッパ語圏における、ドイツ語、フランス語、英語、などは方言といった方が、その垣根の低さはわかりやすいかもしれません。日本国内で、標準語の流布に伴って、完璧なる方言を操れる人が少なくなっているように、下手するとインド・ヨーロッパ語の親戚語は個々の国における個性を外来語の流入によって失っていく危機はかなり現実的な危機だといっていいのだと思います。
では、外来語の流入は日本語にも同様の危機を与えているのかというとあながちそうでもないんですね。これは日本語という言葉がインド・ヨーロッパ語とは異なる成立ちをしているからだといえます。
さきほど見たようにインド・ヨーロッパ語たちが枝分かれして成立したのに比べて、日本語は、いろんな筋から流れこむ外国語を濁流のように一本に飲みこみ、日本語として形成してきた過程をたどってきているわけです。
日本語のルーツはなにか?ということは未だに謎のままですが、それほどに源流をたどるのが困難なのはこの合流してくる支流の多さを物語っているともいえます。要するに、日本語はあらゆる言語を飲みこみつつ、一つの大きな流れにしてきた言語なんですね。
だから、外来語には非常に強い言語なんです。
どんな外来語が入ってきても、カタカナ変換して、適当な意味合いに変質させ、取りこんでしまう。日本語は曖昧を旨とするところがありますね。その曖昧を好むあまりに微妙な意味合いをカタカナ表記された外来語に代弁させようとするところもあるといっていいのではないでしょうか。
たとえば、「さようなら」と「バイバイ」、「ありがとう」と「サンキュー」とでは、その言語の意味は同じでも意味合いは微妙に違う。この意味合いを見誤ると、あいつは場が読めない奴、とさげすまれることもままないわけではありません(^^;;
昨今よく聞かれるリストラだって、再構築というのがもともとの意味とは多くの人は知っていても、たいていの人はニュアンス的に、首切りを意味していると受けとめています。会社を辞めさせられた人のことを「リストラされた」とはいっても再構築の目的で起用された人材を「リストラ人材」とは言わないですよね。
頭で意味は知っていても、肌感覚では全然違うニュアンスを体感している、これが日本語の面白いところといえるのではないでしょうかね。
もちろん、誤用出身の新語すべてが新しい使用法として認知されるわけではないです。でなきゃ、日本語の辞書はもっとべらぼうに分厚いもんになっているはずですからね。誤用もただ単に一過性で終わることが多いというのも事実でして、流行語として一時もてはやされたとしても、その意味や響きが多用によって擦りきれてしまったり、意味するところのニュアンスが的外れであったり、時代とともに旧弊に帰すものであったりすれば、それとともに言葉自体も日本語の潮流に押し流されて過去の遺物として彼岸の岸に打ち上げられ置き去りにされてしまうわけです。多少なりとも時に君臨した記憶の残滓を死語と呼んだりもしますね。
流行語とは意味内容響きが時代とともに擦りきれていくものであると言い換えることも可能でしょう。本来、言葉とは時代に耐えうる耐久性を持っている必要があるわけですが、新味だけが身上の言葉が多く存在するのも日本語があらゆる濁流を飲みこんで形成された言葉であるからだということもできるでしょう。その流れが激しいあまりに、耐久性を持たない言葉はあっというまに擦りきれてしまうからです。
最近、よく言葉が荒れている、といわれますが、それをただ眉をひそめて批判することだけが日本語を守ることではないと思うのは私だけでしょうか。日本語は荒れないんです。ただ、使う人の心が淡白に単純になってはきているでしょうけれどね。多くの言葉を擁する日本語を持ちながら、数少ない言語のみで生きていくのはもったいないとは思いますね。
…で…
何の話をしてたんでしたっけ…(。。? ん〜っと(_ _?
まあ、要するにですね;;
完全なる間違いの「うろおぼえ」のうろおぼえ形態「うるおぼえ」が、日本語に定着するか否かは、この激しいネット言語の中で生き残れるかどうかによるわけで、今しばらく結果が出るには時間がかかると、…そういうことを、…言いたかったのか??違うのか???
ことほどさように日本語とは、女心と秋の空、移ろいやすいものでして…(- -)
久々に長々と喋ったな。はあ〜満足☆…そういう終わり方かい……
topに戻る
indexに戻る