オーディンの森

 

海の底の物語

 

その島にビアンカが来たのは予定よりも三時間もおくれてのことだった。途中、モンスーンをやり過ごしていたりしたものだから、必ずしも責任はビアンカのものではなかったが、やはりおくれて来たことにいい印象を持たれなかったのはしかたのないことだった。

「大変もうしわけないと思っていますわ」

ビアンカはだれも何も言わないのに、必死でおくれた理由をしゃべり続けていた。

「でも、あのセスナでしょう、途中でモンスーンに巻き込まれでもしたらと思うと、生きた心地もなくて……パイロットの判断は正しかったと思ってますわ」

「まあ、そうでしょうな」

口の重い館長は挨拶以外にはやっとそれだけ言っただけであった。それはただ館長の性格によるものだったが、ビアンカとしては何だか責められているような気がした。だから、

「この季節はモンスーンが多発しますの?それとも、あれほどの大きさのものはまれなのかしら?」

また必死で話題を探して、しゃべり続けるのだった。

ビアンカは物語作家である。彼女の書いた「海の底の物語」は出してすぐに売れはじめ、今では対象年齢の小、中学生の生徒の間では知らぬ者がいないと言われるくらい、この本は売れていた。

「でも、」

とビアンカ。

「本当にこの島は海の下にあるんですのね」

「まあ、そうですな」

重い口をよっこらしょと開いて、館長はそれだけ答えた。

海抜より低い島がある、と聞いて、まさにそこは「海の底の物語」だと大喜びしたのは担当の編集であった。

「ビアンカさんもそう思うでしょ」

と聞かれればビアンカとしても、

「ええ、まあ、そうね」

と言うしかなくて、

「なら、決まりだ」

と、ビアンカの島訪問が決まってしまったのだった。

 ビアンカは気が重いことこの上ない。

幼い頃から対人恐怖症の激しかった彼女は、そもそも人と向き合わなくていいと思い、物語作家になったのである。それを全く知り合いもいない島に、本の宣伝とは言え、行かされることになって、その日が来るまでの日々は悶々と過ごしたものだ。

ああ、帰りたい。

ビアンカはそっとこめかみを押さえた。

「海の底の物語」はSFである。放射能で汚染された地表に住めなくなった人類が海底に都市を築き、そこで人類が海に適応していく過程を描いた壮大な話である。

海より低い島を書いたんじゃないわ。

 ビアンカは海抜のことを覗けば、南の島という言葉から想像される風景と寸分の変わりもない島の眺めに無関心に目をやりながら、それでも、いい印象を与えなければという大人の分別に従って、無口な館長へ話しかける努力を続けている。

「海抜がゼロ以下というのに、どうして島は沈みませんの?」

「そりゃ、島がお椀型をしておるからに決まっておる」

「じゃあ、島はお椀が海に浮いているような形になるわけですのね」

その言葉に返事はなかった。ビアンカは嘆息する。

「館長!」

「ああ、コト」

長い図書館の廊下の途中で、閉架書庫から走り出てきた一人の少女が声をかけて、館長は初めて聞く柔和な声で彼女の名を呼んだ。

「閉架の整理は終わったのか?」

「はい。すっかり終わりました」

黒髪のコトがそう答えると、館長は、

「コト、こちらは、」

とビアンカに左の手の平を向けた。驚いたことに不愛想な館長はこの娘にビアンカのことを紹介してくれるつもりのようだった。

「こちらは、ビアンカ・フォレストさんだよ」

「え」

とコトは驚いたように目を見張った。

「フォレストさん?『海の底の物語』の?」

おそらく彼女は十二、三才くらいで、きっと彼女は読者の一人に違いなかった。ビアンカは微笑むと、

「ええ、そうですわ」

コトの頬はみるみる上気して、

「フォレストさん、私、『海の底の物語』読みました!」

ためらうように挨拶のための右手を差し出す。ビアンカはその手をしっかりと握りながら、

「ビアンカで結構よ。読んでくださってとっても嬉しいわ。よろしくね、コト」

やっと見つけたオアシスのような娘にビアンカはそっと微笑みかけた。

「私、熱心な読者の一人だと思います」

コトは憧れの作家に出会う突然の幸福をどう理解していいのかわからないようだったが、それでも、自分の情熱をきちんと伝えようと努力した。何だかビアンカはそういうところが自分に似ているような気がして、

「そう言ってくれる読者がいることが私にはこの上ない幸せよ」

正直な気持ちを打ち明けた。昔、自分がまだ小さな読者だった時、きっと憧れの作家に出会えば自分もこの娘のようにしただろうと思うと、なんだか懐かしいような気さえして、今の今までこの島に来たことを後悔していたのに、ほんの何秒かたっただけにも関わらず、島の全てが好ましいもののように思え、また、そういう自分がおかしくもあった。

結局、私は今も自分の中だけの現実を生きているのかもしれない、とビアンカはそう思った。

ビアンカの家は両親が共働きでいつも彼女は年老いた祖母と二人で家を守っていた。ビアンカはいつも外で遊びたかったが、祖母が見るのも気の毒なくらい心配をして、ビアンカは祖母を安心させるために家でおとなしく本を読んだり、人形遊びをしたりして子供時代を過ごした。一緒にいても、祖母は、

「私がもし急に具合が悪くなったりしたら、いったいどうしたらいいだろうかね」

といつも不安そうにこぼしていて、そういう時いつもビアンカは、

「おばあちゃん、大丈夫よ」

と言った。

「すぐに私は大きくなるわ。そうしたら私は背広を着てサラリーマンになるの。働いてお金を稼いで、おばあちゃんのめんどうを見てあげる。楽をさせてあげる」

その時はかなり真剣にそう思っていて、ずいぶん長いこと自分は背広を着たサラリーマンになるのだとどこかで思いこんでいたところがあった。

 「おかしなものですわね、女は背広を着られないということは頭ではわかっていたはずなんですけれども、会社に入って、いざスーツ姿で働こうとしても、背広を着ていないという違和感と喪失感とがございましてね」

と言うと、招かれた客はどっと声を上げて笑った。

物語作家ビアンカ・フォレスト歓迎セレモニーが行われたのはその日の晩のことである。

「そういうユニークな発想がこういう希有な物語を花開かせる原動力となったわけですな」

と一人の男性がコメントして、またその場に居合わせた客はみないっせいにうなづく。彼は児童文学研究者で、『海の底の物語』を大絶賛してくれていて、ビアンカは大変感謝している。

「そうおっしゃっていただけると嬉しいですわ」

と感謝の言葉を述べながら、笑い話として披露しただけなのに、と違和感も否めなかった。

私は笑い話をするような人間と見られていないのかもしれないと思った。だとすれば今の話は自慢話と取られてもおかしくなかったし、そう考えるのはなんだか不愉快だった。

昔に比べてだいぶん人には慣れたというものの、やはりこういう席は苦手だった。場を和ませようとしてした話だったのに、何だか得々と自分がいかに希有な人間かを披露したような気がして、急にビアンカは気が滅入ったのだった。

わかっているわ。考えすぎよ。誰もそんなことは言ってはしないわ。

でも、そんなことはたとえ思っても自分は言わない。結局、人がどう思うかは知りようがないのではないかと考えるにいたって、ますます気が滅入った。

「最近は自己実現のために物を書く女性が増えましたな」

と一人のタキシードの男が言い、

「作家としてデビューして、マスコミに多く顔を出すという手合いですな」

ともう一人が言い、

「結局、物語というのはパフォーマンスの一つに過ぎないということになってきますねえ」

と話が盛り上がる。

それは私に対する皮肉かしら、とビアンカはいらいらした。

私は違う。私の中には最初から物語があって、書くということが私の現実だったのよ。

胸の内ではそう主張しながら、別にそれについて問う人もなく、ビアンカの焦燥は募るばかりだった。

自分ってこんなにも自己主張が強かったんだとも気づいて、また気が滅入る。

誰も何も聞かないのに、一人でいらいらして、ビアンカはいい加減、疲れてしまった。

「ここの図書館にはまだ児童向けの本が足りないのです。ビアンカにもぜひ協力してもらって、子供らの環境を整えていきたいですな」

と児童文学研究者が言い、

「ええ、お役に立てれば光栄ですわ」

とビアンカはせいいっぱいの笑顔で答えた。

自分は昔、どこへ行きたかったのだろう。祖母と二人で家にいる時、どこへ行きたいと思っていただろう。結局、行かなかったから、行きたかった場所も今となってはわからない。

 

翌日は講演会が予定されていたが、モンスーンが島を直撃して急きょ、取りやめになった。

「すごい嵐ですわね」

図書館の渡り廊下の窓からビアンカは今までに見たこともない荒れ狂う空をおののきながら眺めていた。

「あんたの物語には、」

と言ったのは同じく廊下の窓の前に立って外を見ていた、見たことのない顔だった。

「こういう嵐は出てこないの?」

不愛想な物言いはきっと館長の親戚に違いない。ビアンカは警戒して、

「ええ。残念ながら私は内陸部で育ったので、あまり嵐とかはぴんと来ませんわ」

「嵐がわからなくてよく海の話が書けたねえ」

ビアンカはむっとして男の顔を見る。彼は廊下の窓を見たままでいて、

「コトが言ってた、すごく面白いって」

とだけ言った。

「コト?」

昨日の娘である。

「彼女とお知り合い?」

「叔父だよ」

「おじさん?にしてはお若いのね」

彼はやっとビアンカの顔を見て、

「コトの父親とは二十違うからね」

と言った顔は相変わらず無表情だった。とりあえずビアンカは右手をのばし、

「ビアンカ・フォレストですわ」

と挨拶をする。彼は握手して、

「ネッロ、でいい」

とだけ言った。

「いいおじさんがいて、コトは幸せね」

とビアンカはお世辞を言ったが、

「世辞はいい」

とネッロが言って、ビアンカはひどく白けた気分になった。二人は沈黙して、ただ窓ガラスを揺らす嵐の音だけになる。このまま黙っていてやろうとビアンカは思ったが、それでもすぐに沈黙に耐えられなくなって、

「ネッロさんは図書館に勤めておいでなの?」

と話しかけた。

「いや。本は好きじゃないから」

とネッロ。あら、とビアンカ。

「本はお好きじゃないの?」

「好きじゃないね」

まあ、そういう人間がいるのも別に不思議はないが。

「あんたのは読んだ」

と言った。何だ、結局、読者なのではないか。

「嬉しいですわ」

「コトがあまり薦めるものでね」

「子供の頃に大きな物語にふれてほしいって私は思ってますわ」

「くだらない」

一瞬、ビアンカは自分の耳がどうかしたかと思った。

「は?」

「くだらないと言ったのさ」

ネッロはもう一度言ってのけた。ビアンカの頬がひきつる。くだらないって言ったの? あんなにみんなが絶賛してくれる私の物語をくだらないって言ったの?

「現実には何も行動しないやつが気宇壮大な物語を読むんだよ」

ネッロは別に目をそらしもせずにビアンカの顔にその茶色い瞳をあてたまま言った。

「放射能汚染だの、人類滅亡の危機だの、すごい大きな話だね。そういうおおげさな設定にしないと、人って悲しまないのかねえ」

「……そういう設定は国境を越えた多くの子供にわかりやすいとは思いますわ!」

「俺の身近には戦争もないし、妖精もいなきゃ、ピストルも魔法も超能力もないが、苦しい時は苦しいよ」

ビアンカは返す言葉がない。

「俺は孤児でも何でもないけれど、さびしい時はさびしいって感じる。あんたはきっと自分が孤児だって思いこみでもしなければ、さびしいって気持ちを追体験できないんだろうな。ま、机に座ってありもしない妄想にふけっているあんたにゃわからないか」

ビアンカの頬がわなわなと震えた。

「だって!」

思わず声を荒らげた。

「子供にはそういう想像力が必要なのよ!大きな気宇壮大な想像力が!神話的時間の必要性が叫ばれているのは御存知?ありもしないものを考えるのはあなたにとっては妄想なんでしょうけども、そういう物語の中で体験したものだけが子供の精神的支えにもなるって、──」

「そりゃあ、箱づめされた子供らには、ってことだろ?」

「え?」

「野原走り回って朝から晩まで遊び回っている子供にとっては、その遊び自体が気宇壮大な物語だろ。何も他人の妄想を借りなくたって、目の前に現実の物語があって、自分で紡ぎ出せるんだ。その子供のオリジナルの物語を取り上げといて、親切ごかしにあんたが作った物語おしつけられて、それで、子供には神話的時間が必要、とかよく言うよ」

でも。それは私のせいじゃない。

「野原かけまわって、すっころんで、膝すりむいて、それってさ、物語の中で片腕ちょんぎられるよりずっと痛いんだ。あんた、転んだことないのか?最近、自分の血、見たことないんじゃないか?」

そんなことわかっている。

でも。私は子供の頃、どこへ行きたいと思ったのだろう。外へ行かなかったからそれは今ではわからない。

でも。それは私が祖母を心配したからだわ。祖母に心配かけたくないって気持ちはなくていいっていうの?祖母の心配なんてほっといて私は野原へ駆けていけばよかったっていうの?私は家で気宇壮大な物語を作るしかなかった。人形に見立てて、本の中で。だから、私には本の中の冒険でもじゅうぶん現実の物語だったわ。でも、それは箱につめられたかわいそうな子供ってことなの?自分はそういう不自由な思いをしたこともないくせに。この男は──

「世の中にはね、外を走り回れる子供だけがいるわけじゃないのよ!」

そういう子供に大きな物語をプレゼントして何が悪いの!

ビアンカは怒りで頭が割れそうだった。

ああ、帰りたい。

「知ってるか?」

とネッロ。彼はまだ荒れ狂うモンスーンを見ている。

「…何を、ですの?」

もうこの男と話すのはまっぴらごめんだと思ったが、だが、沈黙するのも大人げないと思い、ビアンカはぶっきらぼうに返事をする。ネッロは初めてくすっと笑うと、

「この図書館はね、野原をつぶして建ててあるんだよ」

「──」

「本末転倒だなあと思ったのさ」

 

次の日もモンスーンは居座って相変わらずの大荒れだった。天気予報によると、しばらくは停滞するということでビアンカ達もしばらくは島に閉じこめられることを覚悟しなければならなかった。

「もう、ミックのせいよ」

とビアンカが編集者に当たると、彼は、

「モンスーンが来るとは思わなかったんだよ」

と面目なさそうにそう言ったが、

「しかし、図書館とホテルが一続きになっていてよかったじゃないか」

おかげで退屈しないですむだろう、とミックはのんきなことを言った。

「しかし、見事な図書館ですねえ」

と彼は責任から逃れるように話し相手をビアンカから館長に変えて、

「まるで迎賓館のようだ」

とお世辞を言ったが、それはあながちおおげさでもなかった。

「図書館というのだけでは外貨が稼げませんからな」

と不愛想な館長はぼそりとそれだけ言った。

「外貨稼ぎの図書館?」

とビアンカ。ええ、とだけ館長。なるほど、とミックが言って、

「この施設なら確かに観光客が集まるでしょうな。本だけじゃない。講演会もあるし、ギャラリーもあるし。コンピュータ施設も整っている」

「モンスーンさえ来なければね」

「コンピュータって?」

とビアンカが聞きとがめる。ミックは知らないのか、と言って、

「ここは電子本も充実しているんだ。ビデオやCD、MDなんかの貸出もやっているし、本土の図書館とも連携して検索が可能なんだぜ」

もっと多くのことをミックは言ったが、ビアンカにはさっぱり理解できない。もともと機械類はまったくわからないのだから当たり前だった。

「すごいのね」

とだけあいづちを打って、彼女は運ばれたコーヒーに口をつけた。

「でも、」

とコーヒーを一人一人に配りながら、

「講演会が中止になってとても残念です」

と言ったのはコトだった。ビアンカは微笑むと、

「大丈夫よ。モンスーンが行ったらすぐやるわ」

「モンスーンが早く行けばね」

とミック。

「どういうこと?」

「あまり時間がないってことさ」

モンスーンが居座るようなら講演会は中止しなければならない、とミックは言って、ビアンカはあきれると、

「あなたってホントに資本主義の原理に即して生きているのね」

「それでなくては食べていけない」

とミックはこともなげに言った。コトはくすくす笑いながら、

「資本主義の真ん中で、あれだけ壮大なお話を書けるフォレストさんってやっぱりすごいんですね」

と言ってくれて、ビアンカは本当にすくわれる思いがする。

それなのに。

ビアンカは思い出した。

この子の叔父ときたら。

ドアがきいっと開く。館長は一瞥をくれると、

「コンピュータの調子はどうかね?」

と言って、ドアの影から噂のコトの叔父ネッロが顔を出した。

「よくないね」

とネッロは相変わらず不愛想に言った。

「ネッロ、濡れてる」

とコト。

「コンピュータルームと本館との間にも渡り廊下つけてくれないか」

とネッロが彼らしい皮肉を言った。館長は、

「予算が足りなかったんだ」

とこともなげに言ってのけた。ミックが、

「技師の方ですか?」

と聞く。館長はじろりとミックに目を向けると、

「わしの末の弟です。コンピュータの方を頼んでいるんですがね。どうも調子が悪いようで」

「身内で手を打とうとするからだ」

とネッロがまた憎まれ口を叩いた。

「ネッロ、これ」

とコトがバスタオルを渡す。

「ああ、ありがとう」

とネッロは初めて少しだけの笑顔を見せた。

 

有害な紫外線をさえぎってくれるものは大気がなくなった今、水だけだった。

ここから『海の底の物語』は始まる。

人間のからだが紫外線に適応し、進化し、その姿を変える前に大気は急速に消え失せてしまった。

今、人間は水底にしか住めなくなり、いづれその姿は水に適応していくのだろうか。

水かきができ、足にはヒレができるのだろうか。

星にも似た水のあぶくを数えながら、今日も気の遠くなるほどの昔と未来に思いを馳せる。

 この話の主人公のコウロは自分に似ているとコトは思う。

「人間が海の底に住むようになったら、」

と彼女は本から顔を上げて問うた。

「人間は水を呼吸するようになるかしら?」

「ならないよ」

とすぐにネッロは答えた。手元には今日の昼間にとったコンピュータのデータがある。

「手足にヒレができるかしら?」

とコトがもう一度聞く。

「できないよ」

とまたネッロは即答する。そして、顔を上げると、コトの手元にある本を見ながら、

「そんなのはあの馬鹿な作家の作り事だよ」

と言った。コトはふうっと小さく息をついて、

「ネッロはこのお話が気に入らなかったのね」

ネッロは口元だけで笑うと、何も言わずに目を伏せた。

「でも、」

とコトはこの叔父が好きである。まだ話がしたくて、

「どうしてネッロはそう言い切れるの?」

海に入れば人間の姿かたちが変わるかもしれないと想像することはコトにはとてもどきどきすることだった。ネッロは顔を上げると、

「今、ここにあるこの人間のからだだってじゅうぶんに不思議だよ。手があり、足がある。物がつかめるし、歩くこともできる。あたりまえのようにあるこのからだだって、すごい年月をかけて作られたものなんだ。それだって奇蹟に近いものなのに、手足にヒレができたり、水を呼吸するようになるには、また途方もない時間がかかる。何百世代、何千世代かけて、苦しみもがいて変化できないものは死んで、そうした屍の上にやっとなるかもしれないし、それでもならないかもしれない。そういう過程はすっとばして、物書きってのはすぐにでも変化が起きるようなことを言いやがる」

つい乱暴に言うネッロをくすっとコトは笑って、

「でも、どうして物書きの人たちはそういうことを言うのかしら?」

「ビーカーの中が好きだからさ」

ネッロは明快だった。

「本物よりもヴァーチャルが、現実よりもファンタジアが、努力よりも奇蹟が、進化よりも突然変異が好きなのさ」

「でも、」

とコト。

「たいていの人はそっちの方が好きだと思うわ」

自分だってきっとそっちが好きだとコトは思う。

「どうしてかわかるか?」

「どうして?」

「楽だからさ」

コトはどきりとする。ネッロがまた顔を上げる。

「現実に気づくと綺麗なところだけじゃない、きたないところも見たくないところも全部見なければならなくなる。それがいやだから、現実はおいといて、夢ばかりを追いたくなるのさ」

「ネッロは?ネッロは夢が好きじゃないの?」

「どうして?」

若い叔父は心底不思議そうな顔をした。

「現実はこんなに綺麗だよ?」

「きたないところもたくさんあるわ」

「そのきたなさに耐えられる自分が好きなのさ」

真顔でこんなことを言う叔父がコトは好きである。

「夢の中にいては、そういう自分にも会えやしないよ」

「ネッロは自分のこと好き?」

「好きだよ」

「私は……自分のこと、すごく嫌いなのに」

「それは、」

とネッロは相変わらず明快だった。

「コトが自分のことをちゃんと見ていないからさ。大事なのは物じゃない。点じゃない。大事なのは過程で、線だよ。大嫌いな自分を大好きな自分につなげられる線を引けるかどうかだ。大嫌いな自分だけが現実で、大好きな自分は夢の中にしかいないのじゃ、本当はつまらないはずだろう?」

「それは」

わかるような気がする。ネッロは空に目線を泳がせる。

「俺はろくでもない男かもしれないが、俺の前にはお袋がいて、おやじがいて、爺さんがいて、婆さんがいる。そうやって、ずっとずっとつながっている。そのこと自体は大したトピックスじゃないって、物書きは言うさ。だけど、それこそが現実で、俺が今、ここに生きているっていう確かな手応えだよ。取るに足らないこと、本当はそれが一番大事で、でも、たいていのやつらがおざなりにしていることだ。それを忘れきって、派手な設定でなきゃ、泣くことも笑うことも愛することもできないなんて、そいつがとっくに壊れちまってるってことだ」

ネッロは真顔でそう言った。ネッロをコトは天下無敵のロマンティストだと思っている。そういうネッロがコトは好きだった。

「からだが生きていることの証なら、魂はどこにあるの?魂の救済はあるの?」

魂の救済は『海の底の物語』のテーマでもあった。でも、ネッロはやはりビアンカとは違う。

「魂なんて誰が決めるんだ」

と言う。彼は少しだけ目線を落とすと、

「信じていた時もあったけど、今は日々の手応えのある思いやりの方が身にしみるよ」

「ネッロ」

「過酷な設定なんてくそくらえだ。普通に生きていてもさびしい時はさびしいし、つらい時はつらいんだ。作家が過酷な設定を好むのは単なるサディズムだ。自分の不幸から目をそらすために、フィクションに復讐しているだけなのさ」

コトがちょっと驚いて、

「ネッロ、過激なことを言うのね」

と言うと、ネッロは少しだけ頬を赤らめて、

「子供の前で言うことじゃなかったな」

子供、と言われるとコトはちょっと切ない。

「ねえ、ネッロ」

「何だ」

「ネッロはいつさびしいと思うの?」

ネッロは考え込んだみたいだった。ややあって、

「いつだろうな」

とだけ言った。

コトはこうやって語られる言葉にひそむネッロの物語をのぞき見ることが好きだった。叔父の物語はいつでも少し固くて、そして、切なくて、そういう叔父が彼女は好きだった。

誰でも一つは物語を人間は隠し持っているのかもしれないとコトは思う。その物語は語られないけれど、一つ一つがオリジナルで、こんなに綺麗な輝きをみんな放っているのだろう。

もしかするとネッロが言うのは、一人一人の物語を見もしないことへの憤りかもしれないとコトは思った。

でも、自分の中にこんなに綺麗な物語があるなんて信じない。きっとろくでもないものがひしめいていて、それを見るのがこわいからやはり人の物語に惹かれていくのだろうか。でも、それをあえて見ろ、とネッロは言っていて、コトはやはりそれは怖くてできないのだった。

人の物語の中のキーワードからたどっていく自分の物語じゃだめかしら。

コトは今度はそれをネッロに聞いてみようと思った。

 

モンスーンは三日間吹き荒れて、それからあっさりと行ってしまった。

島の中央、お椀形の一番深いところにはモンスーンによる雨と流れ込んだ海水とで、ちょっとした湖ができると聞いて、

「海抜より低いからね、真ん中にはやっぱり水がたまるんだろうね」

とミックがあきれたように言ったが、ビアンカは、

「面白いじゃない。海抜より低い湖よ」

言われて、ミックは、

「なるほど。そう言われればそうだな」

取材に行こうと車を出してくれた。

舗装された道路には水をひいたあとに魚が多く取り残されていて、まだびちびちと飛び跳ねていた。

「モンスーンのあとは手づかみで取れるんですよ」

とタクシーの運転手が説明してくれる。湖にもたくさんの魚がいるはずだ、と彼は言った。

タクシーが湖に着くと、

「あれがそうですよ」

と運転手に指差されるまでもなく、ゆるやかにすり鉢のようになっている坂の下に丸い湖は満々と水をたたえていた。

「いつもはあそこは何なんですの?」

とビアンカが聞くと、運転手は、

「公園にしてありますね」

確かに建物は建てられないだろう。公園の証のように湖からは木がにょきにょきと頭を出している。湖の周りで釣り糸を垂れる者もいて、

「今回は激しかったですから、大漁でしょうな」

と運転手は笑いながら言った。

「あら」

とビアンカが気づく。

「ネッロさん、じゃありません?」

ビアンカはすぐ目の前で釣り糸を垂れていたコトの叔父を見つけて、声をかけた。名前を呼ばれて彼は振り返ったが、

「ああ、あんたか」

と言っただけで、相変わらず無表情のまま、そのまま顔を湖に戻した。ビアンカは面白くない。それでも、ここで怒るのも大人げないと思い、

「魚は釣れました?」

と聞く。

「まあまあ、だね」

とおざなりな声が返る。

「写真がほしいな」

とミックは言い、カメラマンを連れてこなかったことに今さらながら気づいて、

「電話をかけてくる」

「携帯持ってないの?」

「雨で駄目になっちゃって」

と電話ボックスへと駆けていった。

「せわしないな、あんたたち」

と後ろからネッロが言って、ビアンカは、

「あら、うるさかったかしら、ごめんなさいね」

と言ったが、

「ああ、うるさかったよ」

と言われて、またむっとした。

ネッロの釣り竿がびくりと動いて、ネッロが引き上げると、糸は急に重力を失ったように宙を舞い、びちびちと激しく動き回る魚とともにネッロの手元へ戻ってきた。

「お上手ですのね」

とビアンカは思わず言ったが、ネッロは何も言わずに魚を針からはずすと、脇のバケツの中に入れた。ビアンカは、

「あら、」

と言って、

「キャッチ アンド リリースではないのね?」

釣った魚を放してやるのかと思ったが、バケツを覗き込むと、大漁と呼んでもいいほどの魚が入っていた。

「あんた、ベジタリアン?」

とネッロ。

「ええ、そうですけど」

「だと思った」

きっといい意味で言ったのではないと気づいて、ビアンカはまたむっとする。そして、

「まさかネッロさん、この魚、食べるとおっしゃるのじゃないでしょうね?」

「食べるよ」

「同じ生き物なのに」

「植物も生き物だろう。それは食べていいのか」

ビアンカは黙る。ネッロは彼女に一瞥をくれる。その様が館長そっくりである。

「この湖の魚は今日中にできるだけ釣り上げなきゃならないんだ。でなきゃ市の職員が水を除く作業をした後に腐敗した魚の撤去作業までしなきゃならなくなる」

「釣り竿で釣り上げるんですか?一匹ずつ?」

「そうだ」

「何かそれ用の機械とかないんですか?」

ネッロは不可解な表情を初めて眉間に刻むと、

「こんなことは年に一回あるかないか、だぜ。そのための機械なんてあるもんか」

「でも、非効率的ですねえ」

ネッロはちょっと黙ったが、

「あんたらしい見解だ」

と言って、またビアンカは面白くない。どうもこの男とはそりが合わなかった。

 

呼び寄せたカメラマンを待って、即席の湖を取材し、ビアンカが図書館に戻ってきた時にはコトが休憩所にいて、

「お疲れ様でした」

と声をかけてくれた。

「ありがとう」

とビアンカは何だかほっとして答える。そして、

「叔父様にお会いしたわよ」

「ええ。お聞きしました。それで今から家に戻るんです」

「今日はお仕事はないの?」

「私はアルバイトですから」

仕事はもう終わったのだ、とコトは言った。ちょうど昼過ぎで、

「ランチでも一緒にどうかしら?」

ビアンカはコトとゆっくり話したくて誘う。コトは一瞬、ぱあっと顔を輝かせて、

「お誘いくださるなんて、とっても幸せです!」

と言ったが、

「でも、ごめんなさい。今日は家で食べることになっていて──」

「そう。もうご家族が用意をなさっているのね」

「あ、そうだ、」

とコトは言うと、後ろを振り返って、同じ休憩所でテレビを見ている館長に、

「館長、フォレストさんをランチにお呼びしてはだめ?」

と声をかけた。館長はじろりと目玉だけこっちに向けると、

「ネッロに聞いてみろ」

とだけ言った。

「ネッロ?」

とビアンカ。

「ネッロが料理をしてくれているんです」

「…もしかして、ランチは魚料理?」

「ええ、そうですけど…フォレストさん、ベジタリアンですよね?うちの母もそうなんです。ネッロはそういう料理も作ってくれているはずですから」

ぜひおいでになってください、と言われて、自分から誘った手前、ビアンカは断ることもできず、

「喜んでうかがわせていただくわ」

と言うしかなかった。

「わあい」

とコトは喜んで、可愛いな、とビアンカは思ったが、あの不愛想な叔父と一緒に食卓を囲むかと思うと少々気が重くもあった。

 

車は緑のドームに包まれた広い庭の前で止まった。

「ここです」

コトがドアを開けて車から下りる。ビアンカも彼女にならって下りた。

「広いお庭ね」

まるで植物園のような庭を眺めながら、ビアンカは感嘆の声をあげる。

「夕べのモンスーンで結構大変だったんですよ」

と笑いながら、コトが言った。

「おかげで夕べは一睡もできんかった」

と館長が横で真顔で言って、コトは声を立てて笑うと、

「父の自慢の庭なんです」

とその理由を明かしてみせた。ビアンカは今さらながら驚いて、

「館長さんの娘さん?」

コトはええ、と笑うと、

「似てませんか?」

「あの、いえ、…あなたがお父さんのことを、館長、って呼んでいたものだから」

「図書館では、館長、と呼ぶように言われていますから」

とコトは笑いながら言った。考えてみれば館長の弟がネッロで、彼はコトの叔父なのだから、すぐにわかることだったが、彼女はあまりに父にも叔父にも似ていなくて不覚にも気がつかなかったのだった。

「ネッロー」

コトは呼びながら、緑の中に渡されたグレイの敷石をけって駆けていく。

「館長さんが手入れされてますの?」

「唯一の趣味みたいなもんだね」

ぼそりと彼は言った。

「本当に素敵なお住まいですね」

ビアンカが心をこめてそう言うと、今度は館長は少しだけ頬を赤らめて、

「誉めていただけると嬉しいよ」

と言った。いい年で照れているのもかっこいいものではないが、ビアンカにはなんだか館長が素敵に見えた。

 敷石を踏んで、二人が庭を進んでいくと、透明の屋根のついたサンルームが見えた。ダイニングテーブルが置かれていて、そこがすぐにダイニングになっているようだった。その証拠に部屋を仕切るカウンターの向こうにはエプロンをかけたネッロがフライパンを抱えて立っていたのが見えた。

「よくいらっしゃいましたわね!」

と明るい声をかけてくれたのはコトによく似た黒髪の女性で、彼女がコトの母親らしかった。

「お世話になりますわ」

とビアンカがていねいに挨拶をすると、彼女はとろけるような笑顔で、

「コトが先生のファンですのよ。御迷惑でなければよいのですけど」

と言ってくれて、ビアンカには何だかとてもあたたかった。

「とっても素敵な娘さんですね」

心をこめてそう言うと、母親は、

「今日は弟のネッロが腕をふるってくれますのよ。どうぞごゆっくりなさっていってくださいね」

と思い出してもあたたかい言葉をかけてくれた。

こういう生活に憧れていたのかしら、とビアンカは微笑み返しながら思った。祖母との二人だけの食事ではなく、赤の他人を受け入れられるほどの余裕のある食事。でも、祖母も父も母も大好きだった。

「奥様もベジタリアンでいらっしゃるとか」

とビアンカ。彼女は困ったように眉をひそめると、

「ええ、病気をしてからは肉食を控えなければならなくて。おつきあいが悪くて申し訳ないのですけど」

と言って、彼女はビアンカがベジタリアンだというのを知らないようだった。

「ネッロはもう御存知?ネッロ、ネッロ──」

と義理の弟を呼ぶ。ビアンカはあわてて、

「あ、いえ、もう存じ上げております。さきほども湖で──」

「あんたか」

言いかけた時はもう手遅れでキッチンからエプロンがけのネッロが回り込んで彼女を見つけたところだった。

「ネッロ、彼女を御存知?」

と義理の姉が聞く。ネッロはうなづいて、

「ああ」

と言った。

「弟はね、」

と姉。

「今、島に戻ってきてくれているんですの。夫が彼に仕事を頼んだものですから、わざわざ事務所の仕事はパートナーに預けて、来てくれたんですのよ」

彼女には自慢の弟なのだろう、わざわざ説明してくれた。

「エルザ、薬は?」

まるで本当の弟のようにネッロは兄の妻の心配をした。

「ああ、そうだったわ」

ありがとう、と彼女はキッチンの方へと入っていく。彼女の背中を見送ってから、ネッロはビアンカに一瞥をくれると、

「テーブルの方へ行くといい」

とだけ言った。おそるべき不愛想にビアンカはいささか閉口したが、

「どうもありがとう」

とだけ言って、おとなしく引き下がることにした。

年が離れているといっても兄弟そっくりだとビアンカは思った。

兄弟がいるってどんな感じかしら。

まるで小学生が友達の家に生まれた赤ん坊を見て初めて気づくように、ビアンカはそんなことを思った。

食事が始まってテーブルに並んだ料理はとても男の手料理とは思えないほど繊細で見た目にも美しいものだった。

「イタリア料理ですのね」

とビアンカが言うと、

「両親がイタリアの移民でね」

と館長が言って、

「ネッロはオリーブオイルが好きなんですって」

とコトがはしゃぎながら教えてくれた。そして、

「フォレストさん、御存知?オリーブオイルって血を綺麗にする力があるんですって」

「そういえば、聞いたことあるわ」

「からだの中にオリーブオイルが入ると、きっと血の中では私たちの知らないドラマがあるんでしょうね」

とコトが言う。ビアンカは笑って、

「まるで昔見た映画のようね」

「映画?」

「ええ。人間が小さくなってからだの中に入るってお話だったの」

「ふうん」

主に話をするのはビアンカとコトで、それに時おり楽しげに母親が口をはさみ、二人の男たちはただ黙々と料理を口に運んでいるのだった。

私だったら、とビアンカは思う。

私だったらこうやって食卓で無口な人がいたら気になって仕方ないと思うわ。

でも、コトと母親は気にしない。それがあたりまえというふうに彼女らは時おり、あまり返事をしない男たちに普通に声をかけ、それに男たちも一言二言言葉を返した。自分にだって家族がいたが、こんな風景は見たこともなかった。父も母も祖母もお互い思いやり、食卓ではみなが笑いさざめくことができるように細心の注意をはらっていたように幼い頃のビアンカには思えた。だから、ビアンカも食卓ではできるだけ明るくふるまうようにしていたし、食卓では最高の笑顔と最高の笑い声を立てるものだと信じていた。

家族それぞれ、ということかしら。

ビアンカは今はもうなくなった幼い頃の家の食卓を思い出して、何だかとても懐かしい、せつない気持ちになった。祖母はもう亡くなってしまったけれど、今は田舎で暮らしている父と母に会いたいと思った。今度会ったら、私はきっと目の前のコトのようにはしゃいでおしゃべりをするわ。最高の笑顔でも笑い声でもないかもしれないけれど、会わなかった時間にあったできごとを全部伝えたいって一生懸命しゃべると思うわ。家に帰りたい。

何だかせつない思いが胸にこみ上げて、ビアンカはデザートのティラミスがのどにつかえてしかたがなかった。

 

次の日、延期になっていた講演会はやっと行うことができた。

最初にビアンカがどうして『海の底の物語』ができたのかについて話をした。

それは小さい頃から頭に描いていた物語であったこと、少しずつ話ができて、会社につとめるかたわら、少しずつ書きためていったこと、大手の出版社に書き送ったこと、そして、それが認められて、

「みなさんの元へお届けすることができ、それをみなさんが読んでくださったというわけです」

それほど広くないホールを埋め尽くした子ども達をビアンカは微笑みを浮かべて見回した。

「私の頭の中にあった時には、まさかこんなに多くの人たちが読んでくれるとは思わなかったわ。本当にありがとう」

子ども達からぱちぱちと遠慮がちな拍手が起こる。ビアンカの頬は喜びのために上気した。

「あなた方若い人たちが読んでくれなかったら、この物語は今頃、印刷会社の倉庫で眠ったままだったわね、きっと」

ビアンカがおどけてそう言うと、聴衆はどっと笑った。

「みなさんにも大きな物語を紡いでいってほしいと私は思います。今しか持つことができない神話的時間はきっとあなた達が将来、壁にぶつかった時に、あなた達の支えになってくれると、私は信じています」

話が終わると割れんばかりの大きな拍手が鳴り響いた。拍手の中にいて、ビアンカはとても幸福だと思った。

講演がすんで全ての予定は終了したはずだったが、何人かの聴衆がビアンカへ質問をしたがって、出版社を代表しているミックはとても困った。彼は時計を見ながら、

「もうホールの貸し出し時間は終了だよ」

すぐ後に別のグループがホールを借りていて、延長は無理だと彼は言った。

「そんなに大人数でもないのだもの。どこか別の部屋を借りればいいのじゃない?」

せっかく、モンスーンをぬけてここまでセスナを飛ばしてきたのだから、ビアンカは少しでも彼らの期待にこたえたかった。

「別の部屋、ったって…」

ミックは弱り果てて、

「館長にお伺いを立ててみるよ」

と言ったが、

「俺、あの人、苦手なんだけどな」

「仕事でしょ、ミック。がんばってね」

館長はしばらく沈黙していたが、

「休憩所で入るなら」

と職員の集まる部屋を提供してくれて、講演会の後まで残った十数人の熱心な読者、この中にはコトももちろん入っていたが、彼らをこの部屋へと案内してくれた。

ドアを開けると、ソファにネッロが書類を眺めながら寝そべっていて、

「あ、ネッロだ」

と子どもの中の一人がそう言った。なるほど島の子ども達はみな彼を知っているのだろう。

「ああ、ネッロだよ、いったい何が始まるんだい?」

と彼は目をあげて聞いた。

「読者サービスさ」

と館長が彼にしては気の利いたことを言って、そこをどくように命令した。そして、子供達には各自好きな所に腰掛けるように声をかけた。

「さあ、これで少しはフォレストさんにお話が聞けるようになったろう」

と館長は表情のとぼしい顔をそれでも子ども用に柔らげて、声をかけた。子ども達、中学生も高校生も、中には小学生もいたが、彼らは口々に館長に感謝の言葉を言い、ビアンカは彼らの素直さに感心した。彼女の住んでいた町ではこういう素直さは小学校にあがる前にとっくに消えてなくなっていた。それがここに残っているのはここが島だから、というよりも、館長が彼らを幼い頃から知っているということの方が大きいのだろう。彼らにとって館長は顔見知りのちょっとこわいおじさんにちがいなかった。

「さあ、」

とビアンカははりきって子供たちに明るく声をかけた。

「みんなの名前を教えてちょうだい」

じゃあ、あなたから、とビアンカは一番左端に座っている金髪の男の子を指名して、彼ははにかみながら、マイク・ハリスだと名乗った。そして、次々に彼らは名を名乗り、ビアンカは彼らの名前をできるだけ覚えて帰ろうと一人一人の名を頭に刻みこむようにした。そして、

「じゃあ、質問のある人は手をあげて質問をして」

ビアンカはまるで自分が教師になったように明るくそう言うと、すぐに手があがったのは小学生で、高校生ははにかむように顔を見合わせた。ビアンカは笑って、一番に手のあがった小学生を差して、

「じゃあ、ラルフ」

「フォレストさんは海の底に住んだことがありますか?」

ラルフは真剣な顔で言ったが、この質問には大きな子ども達の間で失笑が起こった。ラルフは誉められたようにみんなの顔を見て自分も微笑んだ。ビアンカも微笑んで、

「残念ながらないわね」

とこたえた。ラルフは、

「じゃあ、どうして海の底のことがわかったんですか?」

「わかったというより、海の底を想像して書いたの。もちろん、たくさんの海に関する本を読んで、それを参考にはしたけれど、この物語はずいぶんと未来のお話で、その時の海の底が今とまったく同じかどうかはわからないでしょ?だから、かなりの部分は私の想像ということになるわね」

「じゃあ、フォレストさん、」

と高校生が言おうとして、

「手をあげて、ジャック」

ビアンカが笑いながら注意すると、彼は笑いながら手をあげた。

「人類が海の底で生活するのは可能だと思いますか?」

「そうね。それについては何とも言えないわね。私は科学者じゃないし、あれは物語だから。でも、不可能だとは思っていないの。この地球での初めての生命は海に宿ったわ。生き物はみな海で育まれ、徐々に陸地へとうつってきた。それを考えると、海で人類が生活できるというのは不可能だとは思わないわ」

「大気がなくなる時が本当に来ると思いますか?」

「それも私からはっきりとしたことは言えないわ。でも、今みたいに空気を汚すことばかりしていては、オゾンに空いた穴はどんどん大きくなるでしょうし、ほうっておけばいつかなくなってしまっても不思議じゃないわね」

「そうなったら、やっぱり紫外線でみんな死んじゃうの?」

「そうならないように今から気をつけなくてはね。学校で習うでしょ?」

「想像力を養うにはどうしたらいいですか?私も物語を書きたいんだけど、何も思いつかないの」

「そうね。何でも見聞きして、何でもよく考えることね。そして、目の前にあることのずっと先まで考えてみること。そうなれば、想像することはできるようになるわ。それはきっと身近な人への気配りという役にも立つはずよ」

「フォレストさんはあの物語をどうやって書いたの?」

「そうね。机の上で書いたわよ」

みんなは笑う。

「経験したこともたくさん入れたつもりだけど、それは姿を変えて、物語の中に入っているわ」

「経験しないことも書いた?」

「そうね。ほとんど実際には経験できないことばかりだわね」

また、みんなは笑った。

「僕、今、インターネットしているんだけど」

「あら、それは素敵ね」

「いろんなことができるんだ。フォレストさんも言ったけど、からだで体験しなくったって僕らは何でもやることができる。もうからだを重視しなければならないことなんて何一つないんじゃないかな」

「そうね」

と横に座っていた高校生の女の子もうなづいた。

「頭さえあればこんな不自由なからだなんていらないわ」

「不自由?どうして?」

とビアンカ。だって、と彼女は、

「不細工なんだもの」

みんなはいっせいに笑った。彼女はむきになって、

「みんなだってそう思うでしょう?顔がよければもっといい人間になれるのに、って」

「どんな顔でも一緒だろうよ」

と言ったのは後ろのソファに座っていたネッロだった。彼女は急いで振り返ると、

「ひどいわ、ネッロ!」

と抗議したが、彼は顔の前に書類をかかげたまま、

「そりゃ悪い」

とだけ言った。ビアンカは、

「まあ、でも、ほら、ローザ、」

ととりなして、

「ネッロさんのいうことも一理あるのよ。顔は問題じゃなくてよ」

が、ローザはさらにむきになって、

「フォレストさんも私がブスだって言うんですか!」

「そうは言ってないだろ」

とジャックがなだめる。不細工だって言ったのはローザ自身じゃないかとケインも言って、そりゃそうだけど、とローザはしぶしぶみとめた。ビアンカは冷や冷やしながら、

「ローザ、私が言いたかったのはね、不細工だから不自由だっていう考え方はちがうってことよ。私はあなたはとてもチャーミングだと思うわよ。でも、あなた自身が自分を不細工と思っていてはいけないと思うわよ」

「でも、想像力があれば経験は必要ないってフォレストさん、おっしゃったわ」

「必要ない、って言ったのではなくて、経験できないことも想像力で補えるって言ったのよ。伝わらなかったらごめんなさいね」

「でも、」

とマイク。

「それは同じことじゃないかな。だって、そうでしょ?経験できないことが補えるんだったら、経験できることも補えるってわけで、やっぱりからだは必要ないってことだよ」

「なんだ、そうなんだ」

と言ったのはラルフで、

「それなら、ぼく、朝からずっとテレビゲームやってていいってことだ!」

まるで大発見したようにそう叫んだ。ドアが開く。ビアンカが目を上げると、たった今、後ろの椅子に座っていたネッロが席を立ち、部屋を出ていったところだった。

「でも、」

と言ったのはコトだった。

「からだにはからだのいいことがある、と思うわ」

「たとえば?」

とジャック。

「私達みたいに知識が少ない若者は情報だけで知ることができることってとっても少ないと思うの。からだで経験すれば、頭でわかるよりずっと早く知識を得ることができるんじゃないかしら」

「って、」

とローザ。

「ネッロが言ったの?」

「いえ、それは私の意見よ」

「でも、」

とジャック。

「3Dで疑似体験というのもできるんだよ。それは実際にからだを使わないのに使った時と同じような記憶が頭に残るんだ。それと実際の経験とどう違うのかな」

「やっぱり、」

とラルフ。

「ぼくはテレビゲームを朝からしていればいいってことだね」

「テレビゲームは目によくないのよ」

とビアンカ。

「だから、疑似体験するなら本にしてちょうだいね」

と言う以外によい言葉が思いつかなかった。

「フォレストさんもそう思いますよね?」

とジャックがだめ押しに聞く。ビアンカは首を傾げるしかない。

「そうね。それは私にはわからないわ。いいかもしれないし、悪いかもしれない。なにしろ、今、コンピュータの文化は始まったばかりだもの。そのよしあしはまだおとなの間でも十分に議論しつくされていないのだから、あまり急いで結論を出すことはあまり賢いやり方とはいえないわね」

そういうのが無難だろう、とビアンカは思う。だから、と続けて、

「ジャック、あなたもすぐにからだは不要だと結論づけるのじゃなくて、もっとゆっくりと時間をかけて結論にたどりついてもいいと思うの。だって、もし、実はからだは必要だったってことにのちのちなっても、もし、早急に結論を出してしまっていたら、もう後戻りできなくなってしまうってこともあるかもしれないでしょ?」

ジャックは賢い子供だった。

「そうだね」

とうなづくと、

「フォレストさんの言うこともわかるよ。臨床例があまり報告されていない事例だからそれは当然かもしれないな」

とわかったように言って、彼は一人でうなづいた。

「でも、」

とローザはおさまらない。

「ネッロは失礼よ」

「ごめんなさいね」

とコト。

「叔父さんに悪気はないのだけど」

「彼は私に謝るべきだわ」

「でも、」

とラルフ。

「それはローザが自分で言い出したことじゃないか」

小学生にたしなめられて、みんなはまたどっと笑った。

ビアンカはつられて微笑みながら、なんだか暗澹たる気持ちになっていった。子供達というのはなんて性急な生き物だったのだろう、と今さらながら思ったのだった。

子供たちと小一時間話をして、やっと講演会はお開きになった。

口々に礼を言いながら出ていく子供達に笑顔でこたえながら、ビアンカは最後の一人が出ていった時、ほうっと深い溜息をついて、ソファに倒れ込んだ。そのとたん、きいっとまたドアが開いて、ビアンカはどきっとしてからだを起こしたが、ドアのすき間から顔をのぞかせたのはコトで、

「あの、コーヒーでもおいれしましょうか?」

とおそるおそる聞いたのだった。ビアンカはほっと安堵の溜息をつくと、

「あなたも疲れているでしょう?」

「いえ、平気ですよ」

「じゃあ、お願いしてもいいかしら」

はい、とコトは笑顔になって、すぐに休憩所の隅にある小さな台所に入っていった。

「みんな張り切ってたから、すごく白熱しちゃって、お疲れになったでしょう?」

とコトはいつもながらの気遣いをしてくれて、ビアンカはそのとおりであったが、

「そんなことないわよ」

とコトの心配をとりのぞきたくてそう言った。

「みんな、とても熱心でとても嬉しかったわ」

「そう思っていただけると嬉しいですけど」

「コトはとても気配りのできる人なのね」

ビアンカが賞賛すると、コトは頬を赤らめて、

「そういうのじゃないと思います。なんかあちこちに気を使いすぎて一人で疲れてしまうタイプなんです」

本当にこの子は自分によく似ている、とビアンカはつくづく思った。

「でも、」

と彼女はとりなして、

「そういう人は回りの人から好かれるでしょう?」

「そんなことないと思います。友達の中には偽善者だっていう子もいるし」

「偽善者?」

「ええ」

ビアンカはなんだか自分のことを言われたような気がして黙り込んだ。コトは勘違いして、

「いえ、もちろん冗談で、ですけど」

といいわけをした。でも、とコトは、

「自分はこういうふうにしかできませんから」

それは私の言葉だとビアンカは思った。私はこんなに毅然としていられたかしら。優等生ぶっていると言われるのがいやで自分をずいぶんと押し殺してきたような気がした。

「えらいわ、コト」

とビアンカが言うと、コトはにこりと笑って、

「嬉しいです」

と素直に言った。

 ドアがまたきいっと開く。

「まだいたのか?」

とびっくりしたような声が言って、顔をのぞかせたのはネッロだった。

「ネッロ」

とコトが台所から顔を覗かせて言った。

「ローザ、怒ってたわ」

ネッロは眉一つ動かすでもなく、

「ローザがああいうことを言うからだろ」

と言ったが、でも、とコトは言って、

「ローザは怒っていたのよ。おじさんがローザに謝るべきだって」

ネッロは黙る。コトは少しだけうつむくと、

「きっとローザはみんなの前で、私を責めるわ」

言った声は消え入りそうな声音だった。さっきまで毅然と笑っていたコトが今は身内の叔父の前で本音を言っているのにビアンカは気づく。

「じゃあ」

とネッロ。

「ローザに俺が謝ってたって伝えてくれ」

と言って、ビアンカは少しびっくりする。

「いいの?」

とコト。

「お前が困るんならな」

とネッロ。コトは嬉しいのか、哀しいのか、よくわからない複雑な顔をすると、

「やっぱり、いい」

と言った。

「なんで」

とネッロ。

「やっぱり、いいわ……だって、」

「言っておけよ」

「……うん」

ビアンカは今のコトの気持ちが痛いほどよくわかった。コトは気の強いローザに何か言われるのがこわくて、今、ネッロに八つ当たりをしたのだ。でも、すぐにそのことに気づいて、そういう自分を恥ずかしく思ったのだろう。自分の弱いところも受け止めてくれる家族がいることはなんて幸せなのだろう。ネッロはコトにとって、きっとそういう家族なのだろうとビアンカは思った。

「まだかかるの?」

とコト。ネッロの仕事のことだろう。

「そうだな、もう少し」

とネッロが言った。もう夕暮れの差し色がずいぶんと濃くなってきた窓を見ながら、ネッロは、

「一人で帰れるか?」

と聞いた。

「私が送っていきますわ」

とビアンカが言って、ネッロは相変わらず無表情ながら、

「そうしてくれるとありがたい」

とだけ言うと、ソファの下に落ちていたフロッピーを一枚拾い上げた。

 

「いいおじさんね」

車を車庫から出しながらビアンカは助手席に座っているコトにそう言った。

「ええ」

コトは自分の叔父をほめられて心底嬉しそうに微笑んだ。でも、と言うと、

「フォレストさんには失礼なこと、言っているんじゃないかって心配なんです」

あら、とビアンカ。

「そんなことないわよ」

まさかそうだとも言えずにビアンカはそう言った。コトはふうっとためいきをつくと、

「ネッロは『海の底の物語』を夢物語だって言っていて、あ、ごめんなさいね、……」

「いいのよ」

「……自分をとりつくろう性格じゃないから、フォレストさんにもそう言ってるんじゃないかと思って……」

確かにね、とビアンカ。コトの心配はすでに現実のものだったが、わざわざそれをコトに知らせてやることもないとビアンカは思う。でも、とコト。

「私はあの物語はとても好きです。大好きなんです」

ビアンカはうれしい。

「どうもありがとう」

でも、とまたコト。

「ネッロの言う言葉で書かれていない物語も好きなんです」

「言葉で書かれていない物語?」

ビアンカにはわからない。

「おじさんは何ておっしゃるの、いつも、その物語のことを?」

「彼はそれが物語だなんてことは言いません。私が勝手に物語だって決めているだけなんですけど……ローザが言ったことに、ネッロ、口をはさんだでしょ?」

「ええ」

「ネッロは、今日、ジャックやマイクが言ったようなことは好きじゃないんです。つまり」

「からだは重要じゃないってことね?私もどう答えていいか正直のところ、わからなかったけれど」

「ええ。ネッロは、からだにこだわらなければ何でもできるっていうのは、単に言葉に置き換えられるものは何でも、ってだけだ、というんです」

「?」

「からだは言葉でできていないって」

「からだは言葉じゃないの?」

「ええ、彼はそう言うんです。ヴァーチャルなものはすべて言葉でできているから、言葉で理解することができない部分は理解されていないんだって……私の言っていること、わかります?」

「ええ、なんだか、とってもややこしいけれど、少しはわかっているみたいだわ」

「からだの中には別の言語が住んでいて、本当は私達はその言葉に耳を傾けなければいけないのに、そのめんどうな作業をないことにして避けて通ろうとしているって」

「からだの中に別の言葉?」

「からだはからっぽの器でその中に住んでいる頭だけが賢いってことはないって。からだを古いもの、重たいもの、じゃまなものとして忘れ去ろうとしているのは単なる怠慢だって、彼は言うんです」

ビアンカは驚いた。

「どうしてネッロはそんなことを思いつくの?」

「面白いでしょ?」

コトは嬉しそうに笑った。

「私、そういう彼の話って物語みたいにどきどきするんです。彼の物語は少し切なくてとってもどきどきして、私、大好きなんです」

ビアンカはなんだかわからなかったが、すごくせつない気持ちでいっぱいになる。これがからだの中の別の言葉なんだろうか。確かにからだは頭とは関係なくせつなかったり苦しかったりしているような気が、そう言われてみればするのだった。

「彼も物語を書けばいいのにね」

とビアンカ。あら、とコト。

「でも、ネッロは書きません。彼は自分が物語をしているなんて夢にも思っていないんですもの」

「じゃあ、彼にとってそういうお話はなんなのかしら?」

「現実なんです」

「現実?」

「彼にとって、現実こそが綺麗で素敵な空間なんです」

「でも、現実だけでは時に無味乾燥なのじゃない?」

「そういう無味乾燥に耐えられる自分が好きなんですって」

ああ、なるほど。そういう現実の乗り越え方もあるのだな、とビアンカは思った。

「私の物語とは違う方向だけど、」

とビアンカ。

「あなたのおじさんのアプローチも間違っていないと思うわ」

「そうですか?」

コトはやっぱりと言いたげにちょっと自慢げにそう言った。

 

ビアンカはコトを送って帰る道、ぼうっと車を走らせた。

南の島の夜は深くてとても綺麗だった。紺色の底に金の星が一つ二つ姿をあらわして、空は少しずつ光をともし始めていた。

結局、私ががまんしてきたことはなんだったのかしら、となぜかふとビアンカは思った。動かないでじっといい子でいることがまわりが自分に望んだことであり、それに答えることが最高の善だと信じてきた。ストイックでいる自分、でも、いつも損をしている自分にも気づいていて、それはでも、いつかはきっと物語の主人公のように報われる時が来るんだって信じていた。

今、自分はあのがまんしていた時を、物語という形に翻訳して、報われているといってよかった。でも、報われることを目的とした自分のがまんというのは、それは見返りを期待したものだったのだろうか、と今、思わないでもない。

ネッロは、そういうがまんしている自分が好きだということでがまんしてきた日々を昇華しているのだろう。くやしいが、そっちの方がずっと綺麗で、ずっと楽なような気がして、ビアンカはとても胸が苦しいのだった。

大袈裟な設定がなくても苦しい時は苦しいんだ。

はじめにネッロはそう言った。

ああ、そうよ。

何も起こらないこの日常の中で、今、私、とっても苦しいわ。

大気はなくならないけれど、家族は元気で、銃も魔法もないし、私は孤児でもないけれど、そういう苦しい気持ちを打ち明けられる人を誰も思いつかなくて、そういう自分が可哀想だと思うのだった。

自分のつらかった気持ちで、自分のようにつらい思いをしている子供が少しでも楽になれれば。そういう子供達の役に立ちたいと思った私の気持ちは結局、傲慢だったのかしら。

人の役に立てる、人を救うことができると安易に思っていた自分が今となってはこっけいでさえあった。

なんとなく面白くなくて、ビアンカは夜の町を車で走り回る。海岸線が見えてきて、道路は海へとつながっていた。しばらくは海岸を走る。

あら、と思った。

堤防の上に人影があって、

「ネッロさん?」

ビアンカは思わず車の窓から身を乗りだして声をかけた。わずかに頭が動く。確かにそれはネッロだった。

「また、」

と無感動な声が、

「あんたか」

と答えた。ビアンカはむっとして、

「コト、送ってきましたわよ」

と言うと、思い出したのだろう、両の眉を引き上げて、

「ああ、ありがとう」

と礼を言った。ビアンカはそののどかな反応がなんだかおかしい。急に気持ちが軽くなって、すぐ脇に車をとめると、車を下りた。ネッロは堤防の上から釣り竿を海に垂らしていた。

「夜釣りですの?」

と聞くと、

「プログラムを組んでいるように見えるか?」

と憎たらしい返事が返って、またむっとする。が、おとなげないから顔には出さない。かわりに、

「コトが、あなたが面白い、って」

と言った。ネッロは自覚していて、

「ああ、いつも変なこと言っているってだろう?」

「変なこと、とは言っていなかったけれど」

「変だよ」

とネッロは決めつけた。この男は意外と自分のことがわかっているのだなとビアンカは思った。

ネッロはそれきり黙る。ビアンカも言うことがなくて波の音に耳をすます。潮の匂いが鼻につく。白々と月の光が波頭を照らして、時折、きらりきらりと輝かせた。

「釣りって面白い?」

小さな声で聞いたつもりが思いの外、静寂に響いてあたりをはばかるような気持ちでビアンカが言う。

「面白いよ」

ぼそっとネッロが答えた。それきり黙る。

「この間、」

とビアンカ。

「何もない現実でもさみしい時はさみしい、っておっしゃいましたわよね?」

「言ったか?」

ビアンカはむっとするが、続けて、

「どういう時にそうお思いになるの?」

ネッロが意外にもくすっと笑った。ビアンカの方がうろたえる。

「どうしてお笑いになるの!」

「いや、」

とネッロ。

「コトにも同じことを聞かれた」

「ああ」

「どういう時だろうな」

「子供の時もそうお思いになった?」

子供の時、いつもビアンカはさみしかった。そう思ってきたわけではなかったが、きっとそうだったのだろうと今になって思うのである。

「子供の頃は、」

とネッロ。

「さみしけりゃ泣けるからね」

「お泣きになった?」

「いや、泣かない子供だったな」

だろうな、と思ったが、ビアンカは言わない。自分も確かに泣かない子供だった。いつもおとなぶって背伸びしていて、おかげで泣ける時を無駄に過ごした気がする。

「子供の頃ってのは、」

とネッロ。どうやら今日の彼は機嫌がいいようで、ビアンカと話をしてくれるようだった。コトを送っていったことでビアンカへの心証がよくなったのかもしれない。

「ほら、」

と彼は言って、

「人間ってどっか欠けていたりすると、子供の時ってのはそれを埋めようと躍起になれるじゃないか」

よくわからない言い方だったが、これがコトの言う、ネッロの物語なのだろう、とビアンカは思う。

「でも、」

と彼は続ける。

「大人になっちまうと、埋めることに疲れて、何でもいいから詰め込んで埋まった気になっているのじゃないかな」

「偽物で満足するの?」

「まあ、そうだな」

「偽物じゃ駄目かしら?」

「大人だからな。偽物でも泣かないで我慢するんだよ。だから、」

と彼は言った。

「そういうことに気づいた時に、ちょっとさみしいって気にはなるな」

ああ、とビアンカ。言葉の意味はわからなかったが、なんだか言いたいことはわかるような気がして、

「それって何だかわかります」

「そうかい」

と彼は言った。

「今、ちょっとさみしい気分」

とビアンカ。なるほど、と彼は言った。

「あんたもいろいろ大変だな」

と彼は言って、ビアンカは何だか胸がいっぱいになった。

「昼の餓鬼ども、とんでもなかったろう?」

「ええ、ええ」

こみあげてくるものを押さえながら、ビアンカはネッロに気づかれないように必死にこらえて答える。

「俺もちょっとせつなかったよ」

とネッロは白状して、

「まあ、大人だから」

泣かないけどさ、と言ったのだった。

「魚は?」

「釣れたよ」

「まだお帰りにはならないの?」

「まだ少しいるよ」

「せつないから?」

ネッロはむっとしたように、

「なわけないだろう」

とぶっきらぼうに言った。怒ったかと思ったが、彼はちょっとだけ息をはくと、

「なんで、あんなに簡単に偽物で手っ取り早く手を打ってしまうんだろうな」

と一人ごちて、ビアンカはそれもなんだかわかるような気がするのだった。

「不安なのじゃない?」

とビアンカ。不安だったから回りの期待を全て受け入れてきた自分を思い出す。

「子供たちが?」

とネッロ。

「ええ。不安なのだわ。自分が愛されているかどうかわからなくて」

「こんなに恵まれているのに。飢えもない、寒さも、戦争の恐怖もないのに」

ビアンカは声を立てて笑った。

「戦争も何もなくてもさみしい時はさみしい、って言ったのはあなたじゃないの」

「そりゃ、言ったが」

「ちょっとしたボタンのかけちがいでも、いくらでも人はさみしさもつらさも苦しさも自分の中に取り込んでしまえるのだと思うわ」

確かに自分は幸せだった。両親に愛されていたし、祖母も大好きだった。

「きっと自分のまわりがすべて同じものでいっぱいになってしまうと、それが愛情でも憎しみでも、感じることができなくなるんだと思うわ。それが不安でしかたないのは、きっとからだの中の言葉を理解しあぐねているからなのね」

ネッロが驚いた顔でビアンカの顔を見た。ビアンカはおかしそうに笑って、

「そうコトが教えてくれたのよ」

生きていくのには人は頭でわかる言葉だけではなく、からだに流れる物語も理解しなくてはいけないのかもしれない。子供の頃、さみしいと思ったのにビアンカは気づかないふりをしてきた自分を思った。あの時、きちんとさみしいって言えばよかったのかもしれない。人が自分に向けて発する言葉を頭でだけ理解するのに必死だった子供の頃、自分のからだの中に生まれた言葉、それはさみしかったり、つらかったり、苦しかったりする心そのものだったかもしれないが、それらはきっと気づかれずにきてしまったのだろう。

でも、そういう自分も嫌いじゃなかったわよ。

そうビアンカは思った。

私はおばあちゃんを心配させたくなかったのだもの。おばあちゃんのために私は大人でいようと決めたのだもの。今、その自分をわかってほめてやれる自分がいればいい。からだの言葉は理解されずにきたけれど、そのさみしさとせつなさが『海の底の物語』を作り上げたのだ。欠けた部分を埋めたそれは本物以外の何物でもない。それは間に合わせでも何でもない。それを私は誇りにしていい、とビアンカは思った。

「現実が一番綺麗だって思っていらっしゃるのですってね」

「コトのやつ…」

きっと月明かりがもっとさしていたら、ネッロが顔を赤らめているのが見られたに違いない。彼はコトに話した物語がビアンカの口から語られるのに心底恥じらっているようだった。

「でも、」

とビアンカ。

「おっしゃること、わかる気がしますわ」

「そうかい」

「きっとそうなんでしょうね」

そうやって生きていくのが一番楽なことなんでしょうね、とビアンカは思う。

「でも、きっとみんな楽がしたくて、結局、一番楽なことを避けて通ってしまっているのね」

ビアンカはくるっとネッロの方を向くと、

「でも、どのようにお思い?物語は起承転結がないと面白くないのよ?」

「それをご都合主義っていうんだよ」

辛辣な言葉が飛んで、またビアンカはむっとする。ネッロは気にしない。

「日常に起も承もへったくれもあるもんか。あるのは」

平々凡々の日常とその中で真綿にくるまれて息苦しい現実があるだけ。でも、

「その現実を乗り越えられる自分が、俺は好きだけどね」

とネッロが言って、ビアンカもそれは確かにそうだと思うのだった。

 

ビアンカの日程は完全に消化されて、今日が島を離れる日だった。

「次は南部の町に行かないといけないんですが」

とミックが言って、

「私、からだがあまり丈夫じゃないのよ」

とビアンカが抗議した。彼女を高く買ってくれている児童文学研究者は、

「南の町でもまたビアンカにお会いできたらいいね」

と言って、彼はそこにもついてくるつもりのようだった。

ビアンカは滞在中、ずっと世話をしてくれた館長に礼を言って、

「あまり子供達のお役に立てなくて申しわけありませんでした」

とわびた。館長は気にしない。

「子供の役に立てる大人などおらん。ただ餓鬼どもの心配をするだけが大人の仕事だな」

とぶっきらぼうに言って、それでもビアンカはなぐさめてくれているのだろうと思うことにした。

「ご家族にもお世話になりました。コトにも、奥様にも、ネッロさんにも」

「ネッロはもう島を出たがね」

図書館のコンピュータの調整が夕べのうちに終わったので、彼は最終便の飛行機で島を立った、と館長は言った。

「そうですか」

お礼を言いたかったのに、とビアンカ。

「あんたの方があいつには会う機会はあるでしょうな。事務所は首都にあるのだし」

と館長がいった。コトは別れの握手のために片手を伸ばして、

「またいつでも遊びに来て下さいね」

と言った。彼女はつとめて笑顔を浮かべていたが、やはり元気がなくて、愛する叔父と尊敬する作家をともに日常から失うことが彼女にはとてもショックなのだということが痛々しいほどビアンカにはわかった。

「コト、また来るわ」

とビアンカが言うと、コトの目に涙がにじんだ。

「コト」

とビアンカ。

「この間、あなたのおじさんがおっしゃったわ。日常に起承転結はないって」

「ネッロが?」

「ええ。そうよ。だから、私、思ったの。平々凡々の日常だから奇蹟も起こらないし、人と人との偶然の出会いもないわ」

「……それが現実ですよね……」

「だから、コト。ほんのささいな出来事を本当に大切にしなくっちゃ。偶然に会うことはもうないわ。だから、この出会いは偶然だったかもしれないけれど、次は私はあなたにきっと会いに来るわね。本当よ。ネッロさんにもきっとお礼を言いに行くわ。約束するわ」

物語の中で起きる奇跡や偶然はご都合主義だとネッロは言った。でも、現実ではそれは必然で起こせるものなのよ、とビアンカは思った。見てなさい、ネッロ。私が起承転結を作り出すのは言葉の中だけではないのよ。この現実の中でもきっと次へと展開してみせるわ。

「だから、コト」

とビアンカ。

「次会うまで私に手紙をちょうだい。この出会いがご都合主義で終わらないように」

「ええ、ええ!」

コトは涙ぐむ瞳を右の手の甲でおさえながら、ビアンカの言うことにうなづいた。

ビアンカ・フォレストを乗せたセスナはぐんぐんと高度を上げて、大空へと飛び立った。

雲一つない青い空だった。                    

                                      

 

         (終わり)