神話の森
身辺雑記にかつて書きまくっていた『影の現象学』(河合隼雄、講談社学術文庫)。御記憶いただいている方もいらっしゃることと思いますが。ずいぶん前に買ったんですけどね。何度読んでも新鮮で得るとこ豊富。このサイトの傾向が性に合われる方はきっとはまること間違いなし、でしょう。
まあ。
そういうわけで。
この本を読む過程での思いつきが今回のテーマということで。
タイトル通り、主役は北欧神話のトリックスター、ロキです。
私も小学生の頃はとにかくロキが好きでしてねえ…お茶目でいたずらで憎めなくて、おまけに美形で才長けて、嫁にするならこういう人と…(甚違)
まあ、そのうち尻軽で軽口叩く、縦横無尽に好き放題なのに、主神という揺るぎない地位に君臨し続けるアンバランスな王の魅力に負け、オーディンオンリーになった私ですが☆力いっぱいどうでもいい話ですね…
でも、卒業論文のテーマ選ぶ時にはどっちにしようかずいぶんと悩んだのですよ。オーディンとロキ、どっちにしようかと。それくらいロキは私にとっては魅力的な存在でありました。
ロキの魅力の中でも私がもっとも惹かれたのはその不思議なスタンスでした。
巨人族の出でありながら、その類稀な才能ゆえに神々の仲間入りを果たすという一種微妙なスタンス。個人よりも一族、血族を大事にする時代において、その血のつながりを押しのけて、個人の持つ才覚のみで神々の中へ入ってくるロキの印象は鮮烈でした。
異分子としてのロキが神々の中でやりたい放題ししながらも、その才覚で危機を切り抜け、さらには自らだけでなく、神々全てを益していく過程は痛快ですらあります。
自ら蒔いた種を刈り取るはめになる行動はトリックスターのものだと言われますが、種は蒔きながらもそれまで以上の収穫をもたらすロキはトリックスターの範疇を超えているのでは?…贔屓の引き倒しですかあ?
個の才覚、個の台頭、そう考えればかなり現代的な存在といえるロキですが、だからこそ、現代で人気があるのかもしれませんが、しかし、そもそも、何故、ロキは巨人族の出身でなければならなかったのか?
彼が最初から神では何故いけないのか?
ロキが眉目秀麗であっても別に巨人の出でなければならない理由にはなりません。最初から眉目秀麗な神であってもいいはずです。
というよりも、問題はそういうことではなく。
巨人族の出の神は別にロキに限ったことじゃないはずなんです。
考えようによっては、オーディンも元は巨人の母から生れ出たわけで、彼の父も祖父も神とは定義されず、言ってみれば、オーディン以下の一族が、神と名乗ったのだということもできます。オーディンの代になって初めて、神と定義し得るような力を持ったのだということでしょう。
どこからが神か、という問題は何も北欧神話に限ったことではなく、ギリシア神話でも、ゼウスは神だが、祖父ウラノス、父クロノスは巨人といわれる。巨人と神の違いは何か、という問題は改めて考えることとして、とりあえず、オーディンを分岐点にその一族は神と認識されていることとしておきます。では、それ以降の神は巨人の出ではないかといえば、そういうわけでもないですね。
ティルは巨人ヒミルの孫ですし、スカジの父も巨人ティアシです。そうなると、何もわざわざロキだけが巨人族の出身と特筆される必要もないはずです。まあ、ティルに関してはオーディンの子という説もありますけどね。
それなのに、何故、わざわざロキに対してだけその出自が語られるのか。
で。
ようやく冒頭の本、『影の現象学』に戻るのですが、ここでもロキはふんだんに出てくるのですが、この中で道化について語ってありまして。
曰く、道化は王の影である。王権の具現者である王がその権威のために無し得ない必要悪を代行するのが道化の役割であると。王の守るべき内なる世界に比して、外なる世界は悪の世界として認識されなければならないが、現代でもそうであるように、たいていの場合、国は外なる世界、外国との交流なしには存続し得ないわけで、そのアンビバレンツな外界との橋渡しをするのが道化の役割というわけですな。この本にはそのようなことが書いてあります(たぶん;;思いきりの要約ですんで、詳細は是非ご一読を)。
道化が外界との接触が許されるのは、道化が愚者であるが故に善悪の判断がつかないからしょうがないのだと納得されるわけです。当然、王国存続のために必要な外界の情報はこうして道化の「愚行」によって内なる王にもたらされ、王はそれによってよりよく国を治めていけるという、まことに不可解な動きが不可欠なものとしてあったのだそうです。
で、この過程が、私には、北欧神話におけるロキのスタンスに重なってみえてしょうがないわけですね;;
愚者であるロキは、愚者であるが故に神々が手を出さない境界線を軽々と超えて、そこから更なる情報を引き出し、愚行という隠れ蓑によって、神々に最終的には益する結果となる。
これはギリシャ神話のプロメテウスが火を人類にもたらした行為にも比せられるかもしれません。
プロメテウスの行為は「愚行」でありながら、人間サイドには有益この上ない行為となっていますが、そのためにプロメテウスが賞賛されることはなく、むしろ、あ痛たっ、な懲罰に苦しむことになります。プロメテウスが道化の役割を担っているといえるかどうかは素人の身では判じかねますが、そう考えることもとりあえずはできるのではないかと。
道化の役割はいってみれば、賞賛されることのない裏英雄といえるかもしれません。『影の現象学』中では王が旧態然としたものに固執すると、道化がもたらす新しい真実は受けつけられなくなり、この新しい真実をかざして反逆するようになると、道化はもはや道化ではなくなり、英雄となるとあります。その考えに従えば、裏英雄というまでもなく、道化と英雄は同質のものということになるのでしょう。
こういう言い方はロキファンの意には添わないかもしれませんが、ロキはいわば王権の象徴であるオーディンの影としての道化の役割を担っているのではないかということです。勿論、そう単純な構造ではないことは、オーディン自身が単純に王権だけを象徴していないことからも明らかではありますね。オーディン自身、王権の象徴と、影の部分の両方を使い分けており、二つの人格が共存するかのような一見ばらばらなアイデンティティに支えられてます。このことについてはオーディンにまつわる考察の流れの中で改めて触れていきますが、あるいは初期の段階においてオーディンとロキの役割はもともとオーディン一人のものだったかもしれません。ロキが神話内に入ってくるのは後の時代のことで、それまではオーディン一人で王と道化の両方をこなしていたのではないかということです。ロキの入ってきたことで、二人は別人格を有することになりますが、それ以前の逸話として、スッツングの蜜酒などオーディン一人が愚行を行うエピソードがあり、それ以降の逸話としてイドゥンの林檎のようにロキが愚行を行うことになっていくのかなと…これは全く根拠のあることではなく、全くの夢想なのですけどね。ただ、そうなると二人が義兄弟である理由もわかるし、二人が共に旅をする理由も納得がいくというだけの話でして…これについては改めて妄想を広げることとして(笑)、とりあえずロキの出自についてです。
さて、ロキを道化と考えることは可能でしょうか。
『影の現象学』の中で私が釘付けになったのは、道化がたいていの場合、外国人であった、という点でした。
そう、つまり、もうおわかりいただけたと思いますが、道化と考えると、ロキが何故、巨人族の出身だとしつこく言及されるのかの理由が解けるのです。彼が道化としての役割をこなすためにはアスガルドの人間ではいけなかったわけです。彼は外国、つまりウトガルドの人間である必要がどうしてもあった。だから、それが特別なことであるかどうかは別として、彼は外国の人間であるから、このような愚行が行われたのだという説明として、彼が巨人族の出であることが強調されるのではないかと。
内なる世界の共同体ではその連帯を壊す行動は許されません。共同体の連帯を崩さない者はその出自に関わらず、内なる者であり、崩す者はその出自にその理由を求めて、外なる者だからだとしたのではないでしょうか。
だからこそ、内なる人間と同等の資格を持ちながらも彼はどこまでも外なる存在と定義された。彼の出自がどこまでも彼について回るうちは彼の行動は制約されずにすんだということではないでしょうか。そして、その愚行と呼ばれる行為は賞賛されるどころか、お約束の痛罵を浴びつつ、内なる世界を潤すのですね。これこそが原初的道化の役割ではないでしょうか。だからこそ、ロキを道化の系譜として、タロットの愚者である位置に置いておくことは適当なのではないか、とまたまた私は夢想するわけです。この『影の現象学』を読みながら。もちろん、そんなこたぁどこにも書いてありませんけどね。
そして、更に道化は多くの場合、両性具有であったとも『影の現象学』で語られます。
両性具有であり、外なる人間である道化。
もちろん、いつまでも異分子は同じ運動を繰り返すわけではなく、賞賛されるべき結果をもたらした本人に与えられる懲罰という状態は当然アンバランスで、いづれはどちらかに寄っていきます。懲罰されることへの反発がロキというキャラクターの中に溜まったとしてもそれは当然の帰結のような気がします。そのことは結果、道化という役割を大きく逸脱し、無垢なる存在への復讐という形で、終焉を迎えます。バルドルの死ですね。これについてもいづれ改めて触れることにします。
『影の現象学』では、道化については次の三つがあると言っています。
つまり、dry fool(愚鈍なる道化)、sly fool(悪賢い道化)、bitter fool(辛辣なる道化)。ただひたすら笑われる道化であるdry、笑われながらも他を諷刺するsly、諷刺が過ぎて笑いすら忘れさせかねないbitter。これらを筆者の河合先生はシェイクスピア作品やマーク・トウェイン作品に見られるとしていますが、ロキの行動に当てはめることは可能でしょうか?
道化としてのトリックスターから英雄として一躍踊り出て、やがてbitterに過ぎる行為を引き起こし、悲劇の王として終幕を迎えるという全ての過程をたどったが故に絶大な人気を博していると言及されているのは太閤秀吉ですが、それをロキにもあてはめてみるというのは考えすぎでしょうか。おどけ者で、いたずら好きで、笑われることだけを代償として内に富みをもたらしたトリックスターはいづれ、そのバランスを失い、bitterに偏ることで、破滅への道を自ら招いていきます。それは賞賛されることなく、懲罰を引き受ける定めを負った道化としての当然の帰結なのかどうか。
道化という面から見たロキ考でした。
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