オーディンの森
REALITY
〜 リアリティ 〜
腕時計は止まっていた。
アナログの螺子巻式。
今日に限って携帯は忘れた。
アクセサリーのつもりのアナログ時計だけが時を知る手段だったが、それもちっとも使えやしなかった。
「今何時っ?!」
と夏生は叫ぶが、大音響のライブハウスでは誰も聞いちゃいない。
立っているのが難しいほどの人、人、人。
ド派手に盛った茶髪が揺れて安っぽい整髪料の匂いに酔いそうになりながら夏生は時計を振ってみる。
振って動くわけでもないのに。
大晦日カウントダウン。
インディーズライブは異常な盛り上がりを見せていた。
色とりどりの照明がステージと客席を交互に照らす。ライブハウスの凝りようったらない。オーナーはもともと舞台の人だったと聞いたことがある。
時計に耳をあててみる。ちくともたくとも言わない。
「十一時四十五分だよ」
すぐそばで声がした。顔を上げるとステージを終えた一貴がいた。
白いガーゼシャツに細い黒革パンツ、赤いタータンチェックのキルトを腰に巻いている。
レッドブルを片手に、この混雑の中、器用にこぼしもせずに飲んでいる。
市販のガーゼシャツはロゴが入っているものだが、この男のは真っ白である。市販は高いからと手作りしていると聞いて、夏生はその器用さに恐れ入ったことがある。肩にはご丁寧にもDカンがついている。
男のくせにこの裁縫の才能は異常だ、と思う夏生には男性差別の意識があるかもしれない。
夏生は女のくせにと言われるのが好きではないが、男のくせに、と思ってしまう自分を意識もしている。
一貴は常に、男のくせに、と思わせる男だった。
「なんで?」
と一貴が聞いた。
「え?」
「なんで時間絶叫してたの?」
「ああ、カウントダウン終わったのかなと思って」
「このバンドの次だよ。そっか、ナツキさん、楽屋引っこんでたもんな」
実は楽屋で一揉めあった。
酒が入ってる客とあるバンドのメンバーが掴み合いの喧嘩になったのである。
夏生は一貴のバンド、レディシュリンプのスタッフだ。本当なら違うバンドの揉め事は関係なかったが、客の胸倉を掴んでいるギターが小学校の頃の顔馴染みだったから、止めに入って巻き込まれた形になった。
おかげでレディシュリンプのステージは見られなかった。
「残念だったね」
と一貴が言った。
一貴はレディシュリンプのボーカルだ。甘いマスクには似合わず、声を潰した低い声で地を這うようなリズムに乗って狂ったように歌う。
「時計」
と一貴が首を回しながら歌うように言った。
「は?」
「時計。残念だったねって」
「え、時計のことだったの?」
「何のことだと思ったの?」
「ライブ見られなかったことかと」
「ああ」
一貴は大笑いした。
「いつも見てるからいいじゃん」
「そういう問題じゃないでしょ」
それには答えず、一貴はレッドブルに口をつけた。
この男も年が明ければ十八になる。元旦生まれなのだ。
レディシュリンプという奇妙なバンド名のいわれは以前、聞いたことがある。
半年前、一喜と初めて会った頃だ。
有名なパンクバンド、セックス・ピストルズの名曲にAnarchy In The U.K.というのがある。
「その歌詞の中の空耳に”かみさん対甘エビ”ってのがあるの」
と一貴はおかしそうに話してくれた。
「ホントはIt's coming sometime and maybeなんだけどさ。これが空耳で”かみさん対甘エビ”に聞こえる」
「え、じゃあ、かみさんがレディで、甘エビがシュリンプ?」
「そう」
「くだらない!」
と夏生が叫ぶと、一貴は大笑いして、
「記号なんて意味なくていいんだよ」
と意味深なことをさらりと言ったのを覚えている。
命名したのはリーダーでドラムの和司だ、と一貴は言っていた。
人いきれに蒸しかえる中で、一貴はレッドブルにまた口をつける。
「”かみさん対甘エビ”かあ」
と夏生が呟いた。一喜は吹き出して、
「なんで今頃?」
「いや、なんかそんなネーミングだったなって思い出して」
「いつの話だよ」
一喜は笑った。
「最初はさ、まんま”かみさん対甘エビ”って名前にしようかって話もあったんだけどさ」
「え、バンド名が”かみさん対甘エビ”?」
思わず夏生が聞き返す。一貴はおかしそうに笑うと、
「俺、それはさすがに勘弁して、って言ったよ。俺、MCしなきゃなんだぜ?『どーもー、”かみさん対甘エビ”のカズキでーす』とか言いたくねえし」
「そりゃそうだ」
夏生は声を立てて笑った。一貴は嬉しそうにそれを眺めて、
「だからせめて英語にしようぜって言ったよ。かみさんはホントはwifeなんだろうけどさ、響きやだなあと思って。レディだったら、日本語だと準備オーケイのレディと同じに聞こえるしさ」
「確かにそうだ」
「エビは本当はロブスターの方がよかったんだけどね」
「なんで?」
「シュリンプって小エビなんだよ。でも、ロブスターだとレディーロブスターと伸ばす音が二つ続くからさ。それもなんだか間延びだなあと思って」
夏生はその感覚はよくわからない。
大音響がやんだ。
「終わったな」
と一貴がステージを眺めやって言った。
「次、ラストだな」
ラストバンドの最中にカウントダウンである。
「少し押してる?」
と夏生が聞く。
「うん。揉め事あったからな」
一喜がおかしそうに言うと、夏生は思い出して、
「あーそうだったー、私、見られなかったんだー」
思い切り大げさに嘆いて、
「大げさなんだよ」
と一貴は朗らかに笑った。そして、
「俺さ、」
と言った。
「レディシュリンプやめるわ」
え。
夏生の時間が止まった。
夏生がレディシュリンプを知ったのは、友達の友達からの紹介だった。
チケットを買ってほしがっている奴がいるんだけど、という話を伝言ゲームのように伝え聞いた。
家から五分のところにライブハウスがあった夏生は暇があると通っていたから、インディーズやその取り巻きに顔見知りが多かった。
顔見知りの誰が発信元だったかは今となってはもう思い出せない。
もっとも当時だってはっきりわからなかったかもしれない。
人脈でだけ伝わる情報というものがあって、それが顔見知りの間をぐるぐる回って聞こえてくるのである。
ガセも多かったが、それでもとりあえず面白そうなライブの情報はみなが欲しがっていたし、そういう中でだけ聞こえてくる情報を手にできるという優越感もあったかもしれない。インターネットだって携帯だってあるのに、あえて載せずに口コミだけにこだわっていた情報網はある種のステイタス的な意味もあったのかもしれない。
だから、当然、そのチケット情報もその仲間だけが手にできた情報だった。
そして、その手のライブは期待していいものが多かった。なぜなら、優越意識とともに回る情報は、その優越意識に見合うだけの中身である必要もあったからだ。それでこそ、情報を独占する意味があった。
だから、夏生も一度見るだけ見てみようと思い、どんなバンドか深く聞かずに、買う、と答えた。
チケットはメンバーが持ってるから直接コンタクトしてくれ、と言われ、待ち合わせをすることになった。
夏生、高校三年の初夏のことである。
高校三年とはいっても付属の短大にそのまま進学する予定だったから、夏生も同級生ものんびりしたものだった。
この時、仲介の労を取ってくれたのが笙子だったのは覚えている。電話で、
「土曜日の昼一時、駅前のヴァイセローゼ。青いタータンチェックのジャケット着てるはずだからすぐわかると思うよ」
と言われた時は聞き間違えだと思った。
ヴァイセローゼ?
紅茶の専門店のはずだが。
紅茶の専門店で待ち合わせということはガールズバンドだろうか。
黒髪ストレートのガールズバンドというのも悪くないと思い、土曜日の昼一時、約束通り、夏生はヴァイセローゼに出かけていった。
店が店だけにアンティークローズのワンピースを着ていった。
髪はずっとショートだが、ワンレンのショートだからワンピースが似合わないということはなかった。
硝子張りの扉を押すと、からんころんとドアベルが啼く。
真っ白な壁、真っ白な床、壁一面硝子張り、白木のテーブルに焦げ茶のソファ。
店内は明るくて、時間がら買い物帰りの主婦でごった返していた。
さすがに場違いな気がして、夏生は急いで店内を見渡す。
青いタータンチェックのジャケット。
よく考えたら初夏の湿度の高いこの時期に、ジャケット姿はおかしかっただろう。
半袖の女性達で溢れかえる店内で確かにジャケットの長袖は見つけやすかった。
青と茶のタータンチェックは店の一番奥のソファに座っていた。
白木のテーブルの上には三段トレイ。白い皿が乗っている。
すべて平らげた後のようで皿は三枚とも空である。
トレイの横には白いティーポットと白いカップ。
そして手には黄色とピンクのド派手な装丁の本を開き、何やら真剣に読んでいる男。
え、男?
夏生は一瞬戸惑った。
ガールズバンドのスタッフ?
ここに来ても夏生はその思い込みから解放されない。
うん、きっとスタッフだよ。年も若そうだし。
「あの、マキムラさん……?」
夏生は思い切って声をかける。男はぱっと機敏に目を上げると、
「セガワさん?」
と鼻にかかった甘ったるい声で夏生の名字を確認した。
「瀬川夏生です。笙子から聞いてます」
ヴァイセローゼを指名してきた相手がまさか男性だとは思わず、夏生は緊張しながら自己紹介をした。
マキムラの目元が笑う。
「どうぞ」
と自分の前の席を指差した。夏生はそれもそうだと席に座る。
「あの、チケット代、友達の分も預かってきたんですけど、」
と夏生が早速財布を取り出す。マキムラは笑って、
「なんか飲みます?」
全然関係ないことを聞いた。
黒い短い立てた髪、白い透き通るような肌、茶目がかった目玉、青いタータンチェックのジャケット。
それが初めて会った時の一貴だった。
「あ、じゃあ、紅茶……」
夏生はぼんやりとそう答えた。まあ、そうだろう。ここは紅茶の専門店である。目の前に座っている年若い坊やのようにアフタヌーンティーまで本格的に頼もうとは思わないが、紅茶以外に選択肢は思いつかない。
「紅茶、どれ?」
と一貴がメニューに目を落としながら聞いた。
え、何にするかって?茶葉の銘柄?
「今日のフレーバーティー、ストロベリーって店員さん言ってましたよ」
フレーバーティーのストロベリー?
男のくせに、と夏生は思った。
私より白い肌しやがってお前はどこの王子様だ、となんとなくむかつく。よく考えると別に一貴は悪くないのだが、なんでむかついたのかは今でもよくわからない。もしかしたら照れ隠しだったのかもしれない。
だが、胸の内の感情は決して口にはのぼらない。少なくとも夏生の場合はそうだった。
「……じゃあ、ストロベリーティーで」
小さな声でそれだけ言った。
高校三年生の初夏。
男と紅茶専門店。
タータンチェックのジャケットの彼と、アンティークローズのワンピースの彼女。
そんなシチュエーションが妙に恥ずかしかった。
なんでこんなこじゃれた店にかしこまって座っているのだろう。
一貴の目がすっと上がる。店の入り口に目をやった。店員を探しているのである。だが店員は探すまでもなく気づいてくれた。この風変わりな客に興味津津でずっと見ていたらしかった。飛ぶようにやってくると甘い声と笑顔で、ご注文ですか、と聞いた。
「ストロベリーティーお願いします」
と一貴が店員に微笑みかけながら言う。若い茶髪の女性店員はバイトだったかもしれない。風変わりな一貴への好奇心を隠そうともせず、連れの客が女性だったことの失望すら隠そうともせずに、
「かしこまりました」
と妙なイントネーションで答えたのだった。
夏生は妙な被害妄想に取りつかれていた。
王子様の連れがこんな女で悪かったわよ。
誰もそんなことは言ってないのに、劣等感が刺激されて、なんとなく意地悪な気持ちになっていたと今になって思う。
お金を渡してチケットをもらってハイさようなら、でよかったのに、それではあの店員から、やっぱりあの女は王子様に相手にされてないのよ、と陰口を叩かれるような気がした。自意識過剰もいいところである、と今になっては認めざるを得ない。だが、この時、わけのわからない劣等感が刺激されなかったら、一貴と親しく口をきくことはなかったかもしれない。
「あの、」
と夏生は取り出した財布をテーブルの上に置いて話しかけた。
「マキムラさんのサポートしてるバンドってどんな感じですか?」
「サポート?」
「はい、マキムラさんがチケット担当してるバンドです」
「あ、いや、俺、サポートじゃなくてボーカルです」
夏生はこの時ほど顔がほてるのを感じたことはない。
スタッフじゃないんだ。
それってものすごく失礼だったんじゃないだろうか?
ボーカルオーラがないと言ってるようなものである。
「えっと、や、若いからつい……」
と苦し紛れに言ったが、
「若い?」
とまた一貴が疑問形で聞いた。
「笙子さんから同い年って聞いてたけど」
「え?笙子と?」
笙子は夏生の二つ上である。
「いや、瀬川さんと」
「え、私?」
「高三、でしょ?」
同い年なんだ。
夏生と同じ十七。
言われてみれば、と思う。背だって夏生より高いし、手だって大きい。なんで中学生くらいと思ったのだろう。まじまじと一貴の顔を見る。たぶんそれは肌が綺麗だったからだろう。白い肌にニキビ一つなくてまるで子供の肌のようだった。
「バンドは、」
と一貴は夏生の動揺には気づかなかったようで、
「パンクバンドなのかな。よくジャンルわかってないんですけど」
と質問に答えた。
「ああ、パンク」
確かに、と思った。
さっきまでこの男が読んでいた本のタイトルが『STILL A PUNK』だった。
夏生はこの本を知っている。母親の本棚に並んでいたのを見たことがあった。母親の世代はパンクリアル世代であるから持っていても不思議はないが、リアル世代ジュニアともいえる一貴が読んでいるのは不思議な気がした。
そういや最近パンク流行ってるからな。
と思ったが、あれ、とも思う。一貴の格好はちっともパンクじゃなかった。
「革ジャンとか着ないんですか?」
と聞いてみる。
「革ジャン?なんで?」
一貴も不思議そうな顔して逆質問した。
「だって、パンクって革ジャン着るもんじゃないんですか?」
「そうなの?」
「違うの?」
軽い沈黙が訪れる。
やがてにこっと一貴が微笑んだ。
「こういうの、天使が通ったっていうんだってね」
この少女少年が、と夏生が思ったのは言うまでもない。
だが、この見るからにいかにもな草食系が少女少年でもどこかの王子様でもないことがわかったのは初めてのギグの時だった。
小さな箱でのライブ。
夏生は笙子ら五人で見に来ていた。
初ライブで人もまばらなライブハウスのステージに登場したレディシュリンプは、でかいドラムに坊主のギター、長髪のベースと赤い髪のボーカルの四人編成。ステージに現れた途端、MCもなく、いきなり大音響のベースとドラムが唸り声を上げた。薄い壁がびりびりと鳴り響く重低音に、どすのきいたボーカルが狂ったように歌いだした。
歌い歌って怒りを買って
回りはみんな敵だらけ
飛んでく銃弾ジュースの嵐
罵詈雑言の機関銃
それでも引かずに歌歌う
回りはみんな敵だらけ
隣のあいつも俺の敵
孤立無援の宇宙の中で
それでも一人で歌歌う
意味もよくわからない破滅的な歌。陰鬱な気分に突き落とされそうなネガティブなメロディが、しかし、夏生にはなんだかとっても気持ちよかった。
誰も暗くなっちゃいけないって言う。明るく前向きにって言う。でも、暗くなってもいいんだ。
滅茶苦茶な理屈だったが、なんだかとってもそう思えた。
ポジティブの強迫観念からの解放といってもいい。気持ちが沈む自分を責める必要はないのかもしれない。生きていれば誰だって嫌なことはある。それを否定する必要はないのかもしれない。
飛び出す言葉は機関銃
鋭くえぐる肺腑から
流れる鮮血とめどなく
それでも引かずに歌歌う
世の中不況
ニートにヒッキー
どいつもこいつもみなおかしい
だから言ったよ
おかしいって言った
だから飛んでく罵詈雑言
Lyrics were my arms.
それしかない
Lyrics were my arms.
それっきり
甲斐はあったさ
世の中変わった
価値の転換
高まる倫理
夢見る命に
授かる未来
歌い歌って称賛浴びて
回りがみんな唱和する
飛び出す絶賛拍手の嵐
それでも照れつつ歌歌う
Lyrics are in my arms.
今はこの手に
Lyrics are in my arms.
俺のこの手に
かつての同士が俺に言うのさ
腑抜けのピエロの歌歌い
時を止めろイメージになれ
平和なお前を見たくない
Lyrics were arms.
戦は終わった
Lyrics were arms.
馬鹿なハンガー
戦い終わって日が暮れて
もはや言葉は蛻の殻さ
だったらおどけて歌歌い
殺しの武器に薔薇咲かそ
笙子が小さな声で、
「レディシュリンプいいでしょ?」
と自慢そうに言ったのを覚えている。知る人ぞ知る自慢の新鋭。その価値を共有している者達の優越感。確かにその中に夏生もいた。
ステージの後、笙子に連れられて夏生らはレディシュリンプの打ち上げに参加した。笙子とリーダーでドラムの和司は顔見知りで、和司が誘ってくれたのである。
打ち上げの席で見た一貴はヴァイセローゼで会った時とはまるで別人だった。よく言えばワイルド、悪く言えば凶暴に見えて、不機嫌そうにグラスを舐めていた。黒かった髪も真っ赤に染められていて、より攻撃的に見える。
「ノリ悪いな」
とさすがに和司も閉口して、
「なんだよ、何が気に入らないんだよ、一貴」
と赤い頭をこづき回したが、
「なんか緊張した」
派手なパフォーマンスをやらかした男のセリフとは思えない不機嫌の理由を口にした。夏生が、ガキか、と心の中で突っ込んだのは言うまでもない。
そんな一貴を尻目に初ライブの成功に他の参加者は盛り上がった。
「最初の歌の、」
と言ったのは由香里だった気がする。
「最後の、薔薇咲かそ、がよかった!薔薇って彼女のことですよね?」
が、
「違う」
と相変わらず不機嫌そうな一貴が口をはさむ。由香里は少しひるんで、
「違うんだ……」
「違う」
寄りつく島もなかった。
「悪いな、」
和司がとりなすように言う。
「こいつ、詞にこだわる方だからさ」
「一貴君が詞書いてるんだ」
と笙子。一貴は答えない。何が気に入らないのか、どうもネガティブな態度が抜けない。が、笙子はそんな不安定な餓鬼の扱いには慣れている。
「Lyricって叙情ってことでしょ?叙情が自分の腕だって歌だもん、由香里が恋の歌だと思っても不思議ないわよ」
「は?」
一貴が目を剥いた。
「違うよ。Lyricは歌の歌詞。armsは腕じゃない、武器だよ。確かにin my armsの時は腕って意味とかけてるけどね。歌の歌詞が武器だって言ったんだよ。恋の歌だったらニートやヒッキーって関係ねえじゃん」
そこまで一気にまくし立てるとすぐに顔に手を当てて、眉間に深いしわを寄せて、
「ごめん、笙子さん、今のは忘れて。俺、ちょっと今日ぴりぴりしてるから」
まるでばね仕掛けのように速攻で謝った。笙子は肩をすくめると、
「少しは感情コントロールできるようになってよね」
ちくりと嫌味を言ったが、一貴はそれには答えなかった。
「じゃあ、薔薇は?」
と言ったのは夏生である。
「え?」
一貴も思わず反応した。顔の上の手を少しだけ持ち上げて、こちらを見る。あの時とまるで違う、常軌を逸した目がこちらを見ていた。
「薔薇の意味は?歌詞が武器ならなんで最後は薔薇になっちゃうの?」
「時代を攻撃してきた歌詞が目的を達成したら、もう攻撃する対象はなくなるだろ?」
一貴の顔は真剣だった。
「攻撃の対象がなくなっても、支持した人はその歌を懐かしんで歌いたいって思う。ノスタルジーでもエンターテイメントでもいいじゃん。攻撃性をなくした歌を歌ったって。楽しんだっていいじゃん。でも、攻撃性を失ったアーティストにがっかりした、ってファン多いじゃん。アーティストが戦ってる後ろでただ感動してただけなのに、戦う必要がなくなったアーティストにまだファイティングポーズを求めるファンって結局何が起きてたかわかってないんだと思わね?誰と戦ってたかも知らないのに、戦いそのものをやめるな、いつまでもポーズ取ってろ、俺らのアイドルでいろ、てのはおかしいなって思ったんだ。だからarmsはそういう歌」
また一気に一喜はまくしたてる。夏生はなんだかそれはよくわかる気がして、
「ああ、そうなんだ」
と言った。そして、
「じゃあ、ハンガーは?」
一喜がにっと笑った。
「……パクリだから教えね」
攻撃性まるだしの、でも、いたずらっぽい笑顔だった。
「ずいぶんとインテリ坊やじゃない」
と笙子が嫌味を言ったが、
「ちょっとこいつ変わってるんだよ」
と和司がおかしそうに言った。
和司は変わり者のボーカルを気に入ってたんだと思う。
レディシュリンプの手伝いをしないかという声がかかったのはその後すぐだった。
「一貴君あしらうの上手だったからさ」
と笙子が笑いながら電話してきたのを覚えている。
「あしらってないよ」
と夏生は反論したが、
「あの子の不機嫌な時に物おじせずに対応できるのは貴重なんだって。和司なんかはおろおろするだけで何の役にも立たないしね。たぶん一貴君は理解者が少ないんだと思うんだ。ああやって話を聞いてやれる人がいてくれたらやりやすいと思うんだよね」
私は子守役か、と思ったが、バンドの裏側には興味がないわけでもなかったから、結局、夏生はその話を受けることにした。
ヴァイセローゼでの一貴の印象もまだ残っていた。
優雅なひと時。
まるでドラマのような時間だった。
穏やかな笑顔と穏やかな会話。
ゆっくりと流れる時間。
一貴は夏生の注文したストロベリーティーの代金も払ってくれた。
アフタヌーンティーセットだって決して安くはなかったはずなのに。
たぶん飲み会が初対面なら夏生も一貴にびびったに違いない。
穏やかな一貴を知っていたから、怖いとは思わなかったのだろう。
笙子から、携帯番号をレディシュリンプに教えていいかと聞かれ、オーケイする。
だから、携帯が鳴った時はそれほど驚かなかったが、電話から甘ったるい声が聞こえてきた時は少しだけ緊張した。
「ナツキさん?」
と甘ったるい声は今度は名字ではなく、下の名前で呼びかけた。
「ナツキでいいですよ」
と彼女が言うと、笑い声がして、
「じゃあ、そっちも敬語なしで」
と言った声はあの時の朗らかな一貴だった。
「デザインとか得意って聞いたから」
「デザインするよ。自分でTシャツとか作るし」
「チケット作り手伝ってくんないかな」
「いいけど」
「じゃあ、ヴァイセローゼで会える?」
またそこかよ、と夏生は思ったが、家からも近いし、結局は了承する。
なんとなくあの甘やかな時間が懐かしくもあった。
が、
「なんだよ、アンティークローズじゃないのかよ」
二度目に会った一貴は開口一番そう言った。
「はあ?」
と夏生は意味がわからない。
ヴァイセローゼの店の奥。白い壁に白い床。
さすがに一貴と会うのがわかっていて、乙女なワンピースは着る気がしない。スリムパンツと黒のTシャツで出かけたのが一貴には気に入らなかったようである。
「ヴァイセローゼに来る時はワンピースで来ようぜお嬢さん」
歌うように一貴が言って、
「何言ってんだか」
と夏生は突っ込んだ。
突っ込みながらなんだか自分で何かを台無しにしてしまったような気がしないでもなかった。何が台無しになったのかはそれは今でもわからない。
「シチュエーションって大事だと思わね?」
一貴は落ち着きなく畳みかけるように問いかける。
「何のシチュエーション?」
「だからさ、ちょっとゴシックな歌を作りたい時はヴァイセでアフタヌーンティーだよな、的な」
「ああ、なるほど」
それは夏生にもわからないでもない。
夏生が最初にワンピースで着たのも店の雰囲気を考慮したからだ。
「雰囲気ってことか」
「うん」
今日の一貴はご機嫌のようだった。
「そういうチケットにしたいってことか」
「うん」
一貴は嬉しそうにまたうなずいた。
彼はそのシチュエーションとやらを大事にしたのだろう、黒いスリムなジャケットに黒いパンツ、細いネクタイをルーズに締めていて、やたらとスタイリッシュである。
髪も黒に戻していた。
「髪が黒い」
と夏生が言うと、
「赤はライブの時だけね」
と一貴はいたずらっぽく笑った。
「真面目に高校生やってるんだ」
「高校はやめたよ」
「え、そうなの?」
「うん」
母親が入院したのだと彼は言った。
聞けば、母子家庭の親一人子一人で、その母親が病気で入院したのだと言う。
いいとこのお坊ちゃんだと思っていた夏生はひどく意外で、一体誰の話をしているのかどうしてもピンと来なかった。
「金はいいんだ。保険もあるし」
と彼は言った。
「でも、いつ何があるかわかんないからさ」
何があるかわからないって。夏生の思考が停止する。その意味をそれ以上考えたくなかった。現実から逃げている。それは自分でもわかってる。でも受け止める自信はない。
そうか、と夏生は気づく。
ライブの日、一貴がぴりぴりしてた理由がわかった気がした。母親の病状がすでに思わしくなかったのだ。
「バイトはずっとしてるしね。今さら生活が変わるわけじゃない。バンドも続けるよ」
穏やかな口調と穏やかな笑顔を浮かべて一貴が言った。
「そっか」
夏生はそう言うのがやっとだった。
どういう顔をしていいかわからない。穏やかな笑顔がなんだか辛くて夏生の視線は自然と落ちる。落ちた先には一貴の手があった。大きな手。顔に似合わず節くれだった逞しい手。それはよく働く男の手だった。
彼がおごってくれたストロベリーティーのお金。
親からもらったおこずかいではなく、遊ぶために稼いだバイト代でもなく、彼が生きるために稼いだお金だったんだな、と夏生は思うとなんだかとっても切なかった。
重たいなと思う。
生きるって重たいんだな。
その後、チケットのデザインの話もしたが、そっちの方はどんな話だったかよく覚えていない。
彼はいくつものパターンをデザインしてきていて、それについての意見を夏生が言ったような気がする。
結局、また作り直すと一貴が言って、店を出る時、今度はおごらせてくれ、と夏生は言ったけど、
「貧乏人だからって憐れまないでくれよ」
彼はすっかり見透していて、申し訳なさそうな笑みを浮かべて、
「見栄くらいは張らせてほしいな」
茶化すように笑いながら、やっぱり彼が払ったのだった。
子供のように不安定で、妙に男らしいこの頑固者の役に立ってやるにはどうしたらいいのだろうと夏生は途方に暮れた。
夏生の家も母子家庭だった。
両親は夏生が物心ついてすぐ離婚していて、別れた理由は性格の不一致とかそういうものだったらしい。
もっとも母親だけの証言だから本当かどうかはわからない。夏生には知りようもなかったし、別に興味もなかった。
父親がいなくて寂しいと思ったことは一度もない。物心ついたすぐから母子家庭だとそれが家庭の定義のデフォルトになる。夏生にとっては自分の家庭が普通の家庭だったし、当たり前の生活だった。夏生自身、両親そろった、いわゆる普通の家庭の子と見られることがほとんどだったし、あえて自分から言うチャンスもないから、夏生の真実は割と知られていなかったはずである。
母親もいたって普通の母親だった。
普通に会社に行き、事務をこなし、定時に帰ってくる。中肉中背、ひざ丈スカート、セミロングのパーマヘア。母親という言葉からイメージされる範疇に十分おさまる母親だった。
夏生がライブハウス通いを始めたのは別に母親の影響でもなかった。家の中で音楽が流れていたことはほとんどんなかったし、家で聞こえる音といえばテレビのバラエティーショーの笑い声くらいのものだった。夏生自身も音楽がないと生きていけないというほどに傾倒していたわけでもない。たまたま自宅のすぐそばにライブハウスがあったに過ぎなかった。
高校に入った頃からライブハウスに行くようになっても母親も別に気にしてないようだった。母親の本棚に『STILL A PUNK』が置いてあったのを除いては、夏生の家庭環境に特に音楽につながるものはなかった。
だからだったかもしれない。
ライブハウスで知り合った仲間たちは夏生のキャラを珍しがってくれた。たいして音楽を知らない夏生に親切にみな教えてくれて、みんなが世話を焼きたがった。
何が好きという嗜好がはっきりしないのが幸いしたのかもしれない。どこのグループにも属さないかわりに、どこからも弾かれることもなかった。なんとなく顔見知りが増え、いろんな情報が集まるところにも立てるようになっていた。
「夏生は食わず嫌いしないからね」
と言われたことがある。どんなバンドでも悪口を言わないから誘いやすいという意味だろう。
別に意識していたわけじゃない。単に音楽にこだわりがなかっただけである。ライブハウスの雰囲気が夏生は好きだった。煌びやかなスポットライトにワンドリンク、乗りのいいサウンドでみんなでわいわい盛り上がれたらそれでよかった。だから、踊れれば音楽は何でもよかったのである。
おそらく非日常を求めていたのだろう。家と学校、それ以外の世界を持ちかった。家の近くに劇場があればそれは演劇だったかもしれないし、映画館があれば映画だったかもしれない。それがたまたまライブハウスだっただけである。夏生は常にライブハウスにいながら完全なる傍観者であることはわかっていた。
だから、バンドの手伝いをすることになったのは単にことのなりゆきだった。
二週間ほどしてまた一喜から電話がかかってきた。もう一度チケットのデザインの打ち合わせをしたいと彼は言った。
「いいけど今度はファミレスでいい?」
と夏生は提案した。
「ファミレス?駅前の?」
「長居できるからゆっくり打ち合わせできると思うんだ」
一喜は不満そうにしながらも承諾したのは彼も資金が乏しかったからかもしれない、と夏生は邪推したが、それはそれで失礼な話である。
しかし、とふと思う。この男はどこまで見栄を張り続けるのだろうか。このままヴァイセローゼのアフタヌーンティーで打ち合わせを続けたら、経費はとんでもないことになるはずである。夏生はアフタヌーンティーを頼んだことはないが、二千円くらいはする。二人だと四千円。もし夏生が頼んだら、一喜はそれでも払うと言うだろうか。それも毎週打ち合わせをするとしたら。
何事も限界があると思うんだけどな。
勿論、夏生は思うだけでそれを試したりはしない。
ファミレスは駅前のオフィス街にある。
時間どおりに行ったつもりが一喜は先に来ていて、店の奥のボックス席を独り占めしていた。
白いタンクトップに、なんと髪が緑になっていた。
「ちょっ、頭!」
夏生が驚いてそう言うと、一喜はのどかな笑顔を浮かべ、
「綺麗に染まったと思わん?」
とのんきに訊いた。
一番奥の席に通されているのは店側が隔離したかったからかもしれない、と思いたくなるほど綺麗な緑色だった。
「いいねここ」
と朗らかな笑顔を浮かべて一喜が言う。
「なに?」
「ドリンクバーがある」
笑顔で喜ぶことか、と思うが、まあ、それにはまってくれれば夏生としても安心である。
「夏生んち、パソコンある?」
と一喜が訊く。ある、と言うと、
「いいな」
と言う。
「パソコンあるとデザイン楽だよね」
そう言いながら一喜は鞄の中からデザインの図案をいくつか取り出した。それらは綺麗にデザインされていたが、確かに全部手描きだった。何を描いたというわけでもない幾何学模様の羅列なのだが、細いペンで精密に書き込まれているデザインは優美で、夏生は感心する。確かにこの優美さはヴァイセローゼ的ではあった。
「これ手描き大変じゃない?」
と訊くと、
「そうでもないよ。楽しいし」
相変わらずのんびりした笑顔で一喜が答える。今日の一喜は機嫌がいいようだった。母親はどうしただろうか。もっともこれだけご機嫌だとそう悪い状態ではないのだろう。
チケットのデザインは夏生が意見を言うまでもなく、一喜の試作品の一つをそのまま採用しようと決まった。
「和司に見せるの?」
「いや、アートワークは俺が全部やってるから」
そもそもほかのメンバーは演奏以外にあまり興味がないのだと一喜は言った。
かといって別に無理矢理やらされているわけでもないのだろう。完成度の高い試作を見るにつけ、正直、夏生の出番はあるのだろうかと疑問に思う。
アドバイスどころか、これでは夏生はただの観客である。
「これだけ一人でできるんなら、私いらなくない?」
素直に聞いてみる。一喜はきょとんとして、
「なんで?」
なんで、と聞かれるとそれはそれで困る。
「いや、だって一喜、一人で完成させられてるし」
「でも、どれがベストかは一人じゃ決められないよ。第三者が必要なんだよ」
「ああ、そうか」
参加していいということだ、と夏生は安心した。
一喜はすこぶる機嫌がいい。ついでのように訊いてみる。
「お母さん、その後、どう?」
「今は落ち着いたよ。俺、復学するかも」
「あ、高校戻るの?」
「通信に編入だけどね。仕事増やしたから通学してる時間はないんだ」
「そっか」
「高校くらいは出とけって回りから言われてさ」
「就職とか考えるとそうだよねえ」
「ホントは大学行きたいんだけどね」
「大学?」
「うん。勉強楽しいじゃん?」
楽しいか?
夏生はその点だけは同意できなかった。
「もう進路決まってるの?」
と一喜が聞く。付属の短大に行くのだ、と言うと、
「いいなあ。しっかり勉強しろよ」
といたずらっぽく笑った。
一喜への遠慮もだいぶなくなっていたから、その日、夏生は頑強に言い張って、打ち合わせの支払いを割り勘にすることに成功した。
最後の抵抗で一喜は言った。
「俺、人のために金使うの好きなんだよ」
「意味わかんないから」
と夏生は突っ込んだが、
「働いて稼いで、その金で生活するだけって虚しくね?何か生み出せるものに使いたいって思うよ」
「生み出せるもの?」
「人と関わるといろいろ広がるじゃん。気持ちとか世界とかさ」
それはなんだかわかる気がした。
ライブは夏休みまっただ中だった。
若い客がさすがに多く、ライブハウスはまるで放課後の教室のようだった。
あちらこちらにグループができ、ニキビ面した子供たちが嬌声をあげている。
「ランドセルは学校に置いてこいって感じ」
笙子が冷やかに眺めやって辛辣な評を下す。
「まあ、最初はあんなもんだよ」
と夏生がとりなす。自分だって通い始めた頃は大差なかっただろうと思ったからだったが、
「夏生は子供に寛大ね」
笙子が口を尖らせて言った。が、意味がわからない。きょとんとしていたのがわかったのか、笙子は、
「一喜に辛抱強く相手してくれてて助かるって和司が言ってたわよ」
と説明してくれた。
和司が?
和司はリーダーだが、ほとんど接触はない。もっぱら雑用をこなしているのは一喜で、夏生も他のメンバーとはライブ後の打ち上げ以外で親しく話す機会はなかった。もっともメンバーが忙しいからヘルパーがいるわけで、夏生はそのためのスタッフなのだから、当然といえば当然なのだが。
してみると、和司にその話をしたのは一喜本人以外にありえないだろう。
「一喜と和司って仲いいのね」
と夏生が言うと、笙子は笑って、
「なんかそんな感じね」
と同意した。
笙子と和司は中学の同級生だと聞いたことがある。二人とも音楽が大好きで、小学校の頃から洋楽を毎日聞いていた筋金入りの音楽フリークである。夏生にはなんだか遠い存在だったが、笙子は夏生の知識のなさを気にはしてないようだった。
ドラムの和司、ボーカルの一喜、ギターは晴信、ベースは琢磨で、レディシュリンプは結成した。
和司が一番上で十九、晴信は十八、琢磨と一喜が十七でタメである。
和司はレコード店の店員で、晴信はフリーター、琢磨は高校生。一喜は本人の話を信じるなら高校中退後、通信制に復学したはずだ。
晴信は坊主にした途端、バイトを首になったと、この前の打ち上げの席でおかしそうに話していた。怖い見た目に関わらず、人当たりがよいせいか、もう次のバイトは見つかったらしい。
背景がバラバラな四人は当然、最初から顔見知りだったわけでもなく、和司がバンドを始めようと集めたメンバーだと笙子から聞いたことがあった。
「大丈夫かしら、今日のギグ」
と笙子が声を落とす。
メンバーの間でもめごとがあったのは夏生も聞いていた。
「歌のことでもめたんだって?」
「過激なんじゃないかって琢磨が言い出してね。あの子は高校生だからそう思うのも無理ないかなとは思うんだけど」
確かに最初のギグでも過激な歌は多かったが、客はむしろそれを面白がっていたはずだった。
「琢磨、最初から過激は嫌だったの?」
夏生が聞くと、笙子は、
「そういうふうじゃなかったけどな」
「どんな歌?」
「それは聞いてないんだ」
ステージにライトが灯る。
ギターが鳴る。ベースがうねり、ドラムがリズムを刻む。緑の頭のまんまの一喜がステージに上がり、ギグは始まった。
MCも何もない。いきなり大爆音がして、イントロもなく、一喜が歌いだした。
夢見る夢見る夢見る夢見る
夢見る夢見る夢見る夢見る
朝昼夜中食べる寝るやる遊ぶ出す
何も困らない日常茶飯事
ひもじい思いしたことねぇし
電気のつかない日なんてねぇ
公園に寝たことなんざなく
気がつかなくても生きてける
生きるってなんだ?
と問う奴がいる
気がつかなくても生きてける
生きてることがファンタジー
デジタルな数値が命の代償
数値が0になるまでは
気がつかなくても生きてける
夢見る夢見る夢見る夢見る
夢見る夢見る夢見る夢見る
朝昼夜中怒る言うやる喚く泣く
繰り返される日常茶飯事
人の死なんて見たことねぇし
死人に触ったこともねぇ
涙流すことなんざなく
気がつかなくても生きてける
存在自体がファンタジー
デジタルな数値が命の代償
数値が0になるまでは
気がつかなくても生きてける
夢見る夢見る夢見る夢見る
夢見る夢見る夢見る夢見る
夢見る夢見る夢見る夢見る
夢見る夢見る夢見る夢見る
「なんかミルミルってしか聞こえないね」
一緒に来ていた美香が笑いながら言った。ホントだね、と笙子が笑う。やたらと早口の歌で、確かに歌詞が聞き取りにくい。
「これが過激なの?」
と夏生。笙子は首を傾げて、
「わかんない。ていうか、歌詞聞き取れなくない?」
「そだね。過激でもわかんないか」
夏生も笑うしかなかった。例え過激な内容でもこれだけ早口で歌われると聞いてる方はわからないだろう。
歌が終わると、一喜は目線をステージの床に落としたまま、
「こんにちはー、レディシュリンプです。……えっと、ボーカルの一喜です」
と抑揚のない声で挨拶をした。
「ギター晴信で、ベース琢磨です。……ドラムが和司」
なんだそのやる気のなさは、と夏生は突っ込みたくなった。
最初のギグの時からあまりMCは得意そうではなかったが、今回は完全に機嫌悪いのが丸わかりの喋り方である。駄目だこりゃ、と夏生も思った。バンドやるんならもっとエンターテイナーに徹しろ、と夏生ですら思うほどのやる気のなさ全開である。
「ギグ二回目です。無茶苦茶緊張してます」
と一喜が気怠そうに言うと、意外にも客がどっと沸いた。態度悪い奴が実は緊張していると言ったのが面白かったようである。
「あれ?」
と一喜は間抜けなことを呟いて、驚いたように目を見張った。本人自身受けるとは思ってなかったのだろう。きょとんとしたまま卑屈な笑みを浮かべると、
「なんか受けたみたい」
と自嘲気味に笑った。それがまた客にはヒットしたのだろう、更に笑い声が起きた。夏生のすぐそばにいた中学生の女子二人組は、
「ボーカル可愛いっ」
と身悶えしていた。
確かにはにかんで笑う一喜は可愛い、と夏生は思った。アヒル口で笑うとえくぼができる。普通に笑っていたら女性ファンを獲得するのはそう難しくないはずである。
打ち合わせの時のように自然に穏やかに笑ってたらいいのに。
「じゃあ、次、いきます」
相変わらず気の利かないMCをして、何の脈絡もなく一喜は歌いだした。
一、二、三、四、
一、二、三、四、
一、二、三、四で
欠けてく何か
昨日いたのに今日はいない
そんな世の中そんな毎日
数を数えろ
メル友リア友クラスメート
10人5人30人
数字化されて形骸化して
中味すっぽり
だから安心?
一、二、三、四、
一、二、三、四、
一、二、三、四で
失う何か
今日いたのに明日はいない
そんな世の中そんな毎日
数を数えろ
メル友リア友クラスメート
10人5人30人
記号化されて抽象化して
意識喪失
だから安心?
あいつの顔は覚えているか
あいつの声は覚えているか
あいつの名前は覚えているか
数を数えろ
数を数えろ
数を数えろ
数を数えろ
「まあ、これはわかるかも」
と笙子が少しほっとしたように感想を述べる。何が過激なのかという点が彼女は気になっているらしかった。前の歌ほど早口じゃなかったこともあって、聞き取りやすくもあった。
「じゃあ、次」
と一喜はもはやMCをする気はないようだった。一喜に背中を押されたようにベースの重低音が響いた。
母親が言ったんだ
電子レンジであっためるって
それはそいつの大事な娘
電子レンジでチンをして
生きてる奴なんざいやしない
でも
母親は言ったんだ
殺す気はなかった
しつけだった
この子のためにやったんだ
死んでしまった後のしつけ
礼儀が命より優先されて
可愛い娘は享年2歳
電子レンジでチンをして
生きてる奴なんざいやしない
母親が言ったんだ
手足を縛ってベランダ放置
それはそいつの大事な娘
手足縛って放置されて
生きてる奴なんざいやしない
でも
母親は言ったんだ
自分守るため
DVだった
男のいいつけに逆らえない
死んでしまった後のいいわけ
娘より男が優先されて
可愛い娘は享年2歳
手足縛って放置されて
生きてる奴なんざいやしない
電子レンジより愛をこめて
娘たちは歌うよ
鎮魂の歌を
電子レンジより愛をこめて
娘たちは歌うよ
鎮魂の歌を
復讐の歌を
「ああ、これか」
笙子は納得したようだった。過激と琢磨が敬遠した歌はこれだろう。二歳の娘を殺した母親の事件はつい最近ワイドショーを賑わせたばかりのニュースだった。しかも続けて似たような事件が三件起きた。一喜はそれを歌にしたのだった。
「生々しいにもほどがあるだろうよ」
と琢磨はギグ終了後も納得がいってないようだった。
打ち上げの席でのことである。
客も思った以上に盛り上がり、そう悪いステージではなかったが、ステージの出来とは別にメンバーは見解の相違を抱えていたのである。いつもの居酒屋の一室で琢磨は不満を漏らした。
「音はいいよ。そう暗くもないからさ。だから、せめてミルミルくらい早口にしろよ。そしたらどうせ聞き取れねえんだしさ」
「ミルミルじゃないよ、Fantasyだよ」
と一喜が口を挟む。琢磨はいらついて、
「曲のタイトルなんてどうでもいいんだよ」
「ミルミルはやだよ」
一喜が言い張って、夏生はひやっとする。琢磨の言う通りだと思った。タイトルはこの際どうでもいいのである。
チケットには曲名を入れていたから夏生はタイトルは全部知っている。「Fantasy」「数を数えろ」それに「電子レンジより愛をこめて」である。
「悪趣味なんだよ」
と琢磨は吐き捨てるように言った。
「もっと明るいの作れないの?」
一喜は眉間にしわを寄せ、口を尖らせて不機嫌を隠そうともせずに黙っている。
「俺らも一喜にまかせっきりだったからな」
と和司がとりなし顔でそう言った。もともと和司はもめごとは好きじゃない。
「みんなで作ってこうぜ」
と言ったが、
「俺やだからね」
と和司のとりなしをぶち壊しにしたのは一喜自身だった。
はあ?と琢磨は気色ばんだ。が、一喜は引かない。
「俺、下手な歌は歌わねえから」
「てめえ、いったい何様のつもりなんだよっ!」
琢磨はいきなり立ち上がると一喜の胸倉を掴み、乱暴に引き寄せる。
「ちょっとっ、琢磨っ!」
その場に居合わせた全員が立ち上がった。
「やめてよ、こんなとこでっ!」
笙子が強い口調で叫びながら琢磨の腕を掴んだ。が、すべてをおじゃんにしたのはやはり一喜自身だった。
「てめえ何様っていう奴の方がっ、」
一喜は胸倉掴まれても引き下がらない。
「何様だろうがよっ!」
叫んで、琢磨がぶちっと切れて、一喜は壁まで吹き飛んだ。
二回目のギグの打ち上げは散々だったのを覚えている。
あいつをやめさせろ、と怒り心頭の琢磨はまだ喚いていたが、他のメンバーと笙子は彼をなだめながら店を連れ出し、
「一喜をお願い」
と夏生は一喜のお守りを任された。
美香やその他にもいた女性陣はどうしていいかわからないようだった。ただ、殴られて吹っ飛んだ後、壁に寄り掛かったまま座り込み、険しい形相で空を睨んでいる一喜には誰も近寄りたくなかったと見えて、どうしよう、と口々に言いながらも、結局はみな笙子達の後を追って出ていってしまった。
最後まで残った夏生が後始末をするしかない。
まずは店員に詫びを言うと、顔見知りの店員は笑って許してくれて、
「やんちゃな年頃だもんなあ」
と理解を示してもくれた。きっとこの店員も普段の一喜を知っているのだろう。
普段ののんきな彼を知っていれば、彼のキレ具合を見たところでそれほど怖いとも感じない。それは夏生も同じである。美香達はもしかしたらステージでの彼らしか見たことがないのかもしれない。
一喜はそのままずっと壁に寄りかかったまま、けだるそうに座り込んでいたが、やがて立ち上がると、
「俺、帰る」
とだけ言って、そのまま、さっさと出ていってしまった。
最悪、という言葉がこの時ほどぴったりあてはまる状況はなかっただろう。
まさに最悪の夜だった。
琢磨と一喜の内輪もめの顛末は気にはなったものの、夏生はその後、自分から連絡を入れることはしなかった。
バンドの人間関係が今一つ把握できてなかったというのもある。
何しろ琢磨と晴信に関しては全く接点がない。下手に介入して事態を悪化させたくはなかった。
しかし、もっとも大きな理由はそれほどバンドに入れあげてたわけではなかったからだろう。
スタッフとして関わってはいたが、どこかで冷めていたのだと今にして思う。
深く関わるのが怖かったのかもしれない。
人と一定の距離を置きたいところが昔から夏生にはあった。
それは家庭環境のせいだったかもしれない。
深く関わらない限り、他人は勝手に自分のことを普通の家の子だと誤解してくれたし、それでも特に問題もなかった。でも、深いつきあいになってくると、本当のことを言わないのは不誠実な気がしてくるのも事実だった。友達なのだから家庭のことを話すべきなのだろうか、と夏生は思うことが多かったし、それでもそれを説明するのは面倒で仕方がなかったのである。
片親家庭なんて今どき珍しくはないのに、それでも当事者は妙に意識し過ぎていることが多かった。他人もまた妙に気を使って、お互いがぎくしゃくしてしまうこともなぜか珍しくなかったのである。
何がそうさせるのかはよくわからない。
マスコミが大好きなフレンドリーな家族関係への幻想が大きく影を落としている気はする。
マスコミは家族愛の素晴らしさを謳うあまりに、それこそが正しい家族のあり方だと言い過ぎるのだと思う。正しい家族のあり方が定着し過ぎると、それから外れる家族が残念な印象を持たれることは避けようがなかった。まさに過ぎたるは及ばざるが如しである。だから、人によっては、自分たちは正しい家族からはかけ離れているがちっとも不幸ではない、とまで表明せざるを得なくなるのである。出会いがしらにこちらからそう言うべきなのだろうかという迷いと、でも言ってしまうことで憐れみの視線を浴びるのではないかという恐れが、片親家族の自意識過剰になっていたはずだと夏生は思う。
でも、自意識過剰は疲れるのである。
普通のふりで意識しなくて済むのなら、そっちの方がずっとよかった。真実よりも欺瞞。素顔よりも仮面。よくないことかもしれないが、それはとっても楽なのである。
時折、夏生は夢想した。
いいことも悪いことも混沌のままに置いておいてくれたら、どれだけ暮らしやすいだろう、と。
勿論、それこそ幻想だとはわかっていた。混沌のままだとはびこる悪事だってあるわけだから、暮らしやすくなるはずはないのだが、頭ではわかっていても、立ち向かうパブリックイメージの頑強さに疲れると、自分に都合のいい混沌だけを期待したくなる。
だから、同じ環境の人間がいるとほっとすることもあった。
一喜はちょうどそんな相手だったかもしれない。
彼も片親家庭だった。
しかも彼はそのことを告白するのに何のためらいも持っていなかった。
おそらく彼は夏生が片親だとは知らなかったはずである。それでも彼は母親しかいないとけろりと言って憚ることがなかった。
それはそれでうらやましくもある。他人との妙な距離感を意識しないのなら、別に普通の家の子と思われようが、片親家庭の子と言われようが、関係ないはずである。
他人が気になる夏生は一喜のように自由気ままには振る舞えない、と思った。
夏休み。
バンドからの連絡もないまま、夏生はぼんやりと家で過ごしていた。
うだるように暑い日。
母親はいつも通りに仕事へ行き、でかける用事もない夏生は母親の本棚から「STILL A PUNK」を取り出した。初めて一喜に会った時、彼が読んでいた本である。
おそらく物心ついた頃にはもうこの本は本棚に並んでいたはずだが、興味を持ったことは一度もなかった。生まれてから慣れ親しんできた風景の中に疑問を見出すことは案外難しい。当たり前を疑うのは至難の業なのである。
その至難の業を授けてくれたのは、わがままで風変わりな一喜だったということになる。夏生はなんだかおかしかった。
ぱらぱらとめくる。
話口調の文章で読みやすそうだった。が、なんだか読んでしまうのはもったいない気がして、そのまま本棚に戻してしまう。自分でもどうしてそうしたかはわからない。もしかしたら母親との距離も気になったのかもしれない。黙って読むのは不誠実だと思ったのかもしれない。
夏生と母親との関係にもパブリックイメージが横たわっていたのかもしれず、そのイメージに絡め取られていたかもしれない。
お互い知らないふりをして、お互いを気遣い、心配かけまいとし、素直な感情を出せないようになっている気がした。それはそれで家族の愛情なのだが、なんだか伝わらないもどかしさを抱えざるを得なかった気がする。
一喜から電話があったのは、大揉めしたギグの二週間後のことだった。
「夏生さんは冷たいね」
と開口一番一喜は恨みごとを言った。
「は?」
とあの時の琢磨のように夏生は不快感全開で聞き直した。
「……なんでもない」
とあの時と打って変わって一喜はすぐに撤回したが、
「何でもないじゃなくて、私の何が冷たいって?」
夏生は許さない。一喜は観念したように、
「電話一本ないなあと思って」
と白状した。夏生はいらっとする。
「電話ほしかったの?」
「そういうわけじゃないけど」
口では否定したが、ほしかったのは丸わかりだった。
自分で仲間に喧嘩を売っておいて何を今さら寂しがってるんだ、と夏生は腹立たしい。この男は自分で打ち上げをぶち壊した後、サッサと一人で帰って、夏生を置き去りにさえしたのである。確かに家には歩いて帰れるが、それでも置きざりにされていい気はしない。
が、夏生は思い出した。
一喜のお母さん、まだ入院してるんだっけ。
だとしたら一喜は今でも家に一人きりのはずだった。
仲間と喧嘩してずっと家で一人か。
夏生は近くに母親の両親もいて、親戚も多い。母親が仕事で遅くなる時は誰かの家にいればよかったから、家に一人きりでいるということはあまり経験したことがない。
寂しいと思う一喜を責めるのはやめておこうと、夏生は思った。
だから、話を変える。
「次のギグ、決まったの?」
「うん。非常に気まずいのですが、来週の土曜日になりました」
わざとらしく敬語を使って一喜が言った。彼も彼なりにぎくしゃくすることはあるのである。
「……仲直りしたの?」
「誰と?」
誰と、と聞くか。夏生はまたむかついた。
「琢磨とに決まってるでしょ!」
ぶち切れた夏生に一喜は申し訳なさそうに笑って、
「したよ」
明るい声でそう言った。
来週の土曜日はあまりに急だと思ったが、
「インディーズバンドがたくさん出るイベントに参加するんだよ。だからチケットとかはあっちで用意してくれるから」
自分達が事前にすることは特にない、と彼は言った。
「だったら、私は出番なくない?」
と夏生が素朴な疑問を口にすると、
「ホントつれないな」
一喜は笑った。
「イベントはイレギュラーだけど、次のギグは更に一週間後なんだよ。その打ち合わせできないかなと思って」
やたらとギグを詰め込んでいて、やる気はあるようである。夏生はちょっと安心する。
「今から暇?」
と一喜が聞く。
「うん、暇」
夏生は思い切り暇だった。
「夏休みなのに」
と一喜が茶化して、
「やっぱり忙しい」
と夏生に臍を曲げさせた。
結局、その日、二人はまたファミレスで会うことになった。
電話を切ってすぐに家を出た夏生は先にファミレスに着いた。
一番奥のボックス席で待つほどもなく、すぐに一喜はやってきた。
髪は黒に戻っている。陽に焼けない体質なのか、相変わらず真っ白な素肌に黒いフードとストリングス付きのジレを直接着ていて、黒いスリムなパンツをはいたシンプルな格好なのはきっと夏だからだろう。ステージを見るにつれ、一喜が汗かきであることには気づいていた。露出が多いのは単に暑がりなのである。
さらに今日は小さい黒いサングラスをしていた。
「サングラス?」
と夏生が聞くと、彼はそれをはずして見せた。右目には大きな青あざがあった。
ああ、と夏生は合点する。
「殴られた痕」
「うん」
情けなさそうに一喜は笑うと、またサングラスを戻した。
「琢磨、ボクシングやってたんだよ。思い切り殴ってくれてこのありさまだよ」
「それわかっててなんで挑発するかなあ」
「そんなの引く理由になんないじゃん。相手が腕っ節強かったら引くとかヘタレじゃん」
「思い切り殴られてもヘタレだよ」
「畜生」
と言い負けて一喜は悪態をついた。
「サングラスかけてると凶暴そうかな?」
と一喜が聞く。
「道歩いてるとなんか人が避けてくんだけど」
夏生は大笑いする。
「凶暴に見えるの嫌なんだ?」
「弱い奴がはったりかましてるみたいじゃん。グラサンと青あざとどっちが凶暴?」
「いい勝負かな?」
「治るまでの辛抱だな」
と一喜ががっかりしたように言った。そして、
「俺って凶暴に見えることあるんだな。知らなかったよ」
と真顔で言って夏生はおかしい。
「ステージじゃ十分凶暴だよ」
「ステージはある意味、演出だろうよ」
「そうなの?」
「や、俺の場合、無意識だけど」
「だったら素で凶暴なんじゃん」
「凶暴に見せたくて、そう振舞ってるんじゃないってことだよ」
「まあ、見せたい人はいないよね」
「もともと俺、あんま他人からどう見られるとか気にしないし」
「え、気になるでしょ普通?」
が、一喜は小首を傾げる。他人が気になる夏生には信じられなかった。
「でも、凶暴に見られるのは嫌なんだ?」
「嫌でしょ普通」
と一喜。
「俺が歩いてるだけで道開ける奴がいるんだぜ。男なら別にいいけど、子供が怖そうに避けていくのって嫌じゃん」
「背高いからじゃない?そんだけ背あったら怖く見えるかも?てか、」
夏生はおかしい。
「子供好きなの?」
うん、と一喜。
「ちっさくて可愛いじゃん」
屈託のない笑顔でそう言った。が、
「変な意味じゃなくて、だよ」
とあわてて付け加えて、更に夏生はおかしくなった。そして、ああ、そうか、と思う。
一喜は、だから「電子レンジより愛をこめて」を作ったのだ。二歳児が母親に殺された事件がやりきれなかったのだろう。しかも似た事件が三件も立て続けに起こった。一人きりの家の中で、テレビから流れてくる凄惨な報道を連日見ながら一喜は何を考えただろう。それが何であれ、それが歌になった。
「すべての子供は親に愛されて育ってほしいよな」
夏生と同じことを思っていたのか、一喜はぽつりとそう言った。
「そうだね」
と夏生はうなづく。なんだかそれはとってもよくわかる。夏生は母子家庭だが、母親には愛されて育ったと思っている。たぶん一喜もそうなのだろう。片親だけど私たちは十分に幸せな子供たちだ。でも、マスコミの謳う幸せなパブリックイメージ通りの家庭で子供が殺される事件が起きる。盲目的に信じていたイメージが崩壊したら、人々は何を信じるのだろう。
「今日はワンピースだ」
と一喜が言った。
夏生は一瞬わからない。一喜は顎でしゃくって、
「夏生さんの服」
と言った。
ああ、と夏生は合点する。自分がどう見られるかは気にしないと言った一喜だが、他人がどう装っているかは気になるようである。確かに今日の夏生はコットンのワンピースだった。暑かったせいもある。だが、シチュエーションに左右されやすい一喜を尖がらせたくなかったというのもあった。
「女の服が気になるってなんかいやらしい」
と夏生は揶揄ったが、
「いや、男の服も気になるから」
と切り返して、夏生を大笑いさせた。
「俺は鑑賞者でいたいの」
と一喜が言う。
「鑑賞者?」
「うん。常に見る側。見られる側じゃなくて」
「なんか難しいこと言うね」
「そう?人からどう見られるとか気になる人いるじゃん。そうじゃないってだけだよ」
それは私だ、と夏生は思った。人の見る目、どう見られるか。それにおびえるわけではないが、誤解されてもそれを解くのがわずらわしい。だから、理解されやすいイメージをそのまんま借りてくる。そうすれば理解もされやすいし、誤解はされにくいはずだ。正しく理解されるための努力は面倒だったし、それを期待する人もそういないんじゃないかと思っている。どういう人間か、とりあえずカテゴライズできれば安心できるのだから、だったらカテゴライズが楽なように自分が振る舞えば人間関係は丸くおさまる。相手だって楽なはずだ。
「どうして他人の目って気にならないの?」
夏生は素直に聞いてみる。
「いや、気になるよ」
一喜が笑った。
「気になる人じゃないって言ったじゃん!」
「気になるけど気にしても仕方ないってこと。だって、気にする相手なんてどんどん変わっていくんだから、変わるたびに合わせなくちゃならないとしたらきりないじゃん」
「ああ、そうか」
夏生はわかってしまった。
「何だよ、物分かりよすぎて気持ち悪いな」
と一喜が茶化す。
「私は学校だけ気にしていればいいから、気になるんだと思って」
「ああ、世界が一つなわけだ」
一喜も物分かりがよかった。
夏生の世界は今のところ学校だけだった。
家も世界の一つだろうが、家族や親戚の間で自分の存在が認識されていると感じたことはあまりない。夏生がどういう人間であれ、親戚は小さい頃に抱いた勝手なイメージを膨らませて夏生という人間を語るだけで、いくら否定してもそれが正されることなど一度もなかった。いつ会っても三歳の頃は、ランドセル背負ってる頃は、と親戚は違う時間軸の夏生の話をするし、夏生はもう気にしないことにしている。
おそらく現在進行形で存在している夏生は学校という変わらない人間関係の中で、変わらない鑑賞者の価値判断を意識して生きているのである。
でも、一喜にとっては世界は一つではない。彼は学校やバイト、バンドなどいろんな世界を持っていて、それぞれに異なる鑑賞者が存在するはずだった。
「私って狭い世界で生きてたんだねえ」
ちょっとがっかりして夏生が愚痴る。
「いいんじゃん?それで生きていけるなら。それはそれで幸せだって」
一喜は明るく肯定してくれた。
「子供の頃なんて世界一つきりじゃん。その中で世界との折り合いの付け方学んでいくんだろうなって思う。その子供にさ、今の親はなんでいろんな世界を押し付けようとするかね」
また話は子供に戻る。
「隣のアパートに住んでる男がさ、女の連れ子を虐待してるらしくてさ」
突然話は現実的になった。
「虐待って?」
「夜中になると酔っぱらった怒鳴り声と泣き叫ぶ子供の声が聞こえるんだよ。たまんないよ。俺、警察に通報してやったよ」
「え、一喜が通報したの?」
「名前と住所聞かれたよ。でも、電話越しに子供の声が聞こえたんだろうね。すぐにパトカーやってきて、連れてかれた。逮捕されたんじゃね?ざまあみろだよ」
一喜にとって幼児虐待はテレビから流れてくる情報ではなく、日常に起きた出来事だったのだと夏生は思った。
「前もその子、虐待されててさ。そん時は違う男だったけど」
「どういうこと?」
「母親の前の男だよ。母親が一番だらしないんだろうけどさ。男とっかえひっかえだからさ。そのたびに子供が男にいじめられるんだよ」
「可哀想だね」
「俺、何度か家で匿ったことあるんだよ。子供ってけなげでさ、ひとしきり泣いたら大丈夫だって言って帰ってくの。自分が悪いことしたから叱られたんだって言ってさ。いい子にしてたらきっと叱られないから、って。いや、関係ないだろって思うんだけどさ。その時はどうしていいかわからなくて。子供の言うまま帰したんだよ。男見なくなってよかったと思ってたのにさ。もっとたちの悪い男、母親が連れてきてどうすんだよ。単なる近所の俺がやきもきしてんのにさ」
「普通、母親って子供が一番なんじゃないの?」
夏生は浮いた話一つ聞いたことがない自分の母親を思い出す。
「子供がいても女でいたいっていうのが増えてるんだろ」
「わからないでもないけど」
「俺わかんねえわあ。人生なんて選択だろ。一つ選択したら、他の選択肢はなくなるのが当たり前じゃん。東大行きたい奴は慶応には行けないんだしさ。高校で遊びたきゃ大学のレベルだって妥協するじゃん。ガキでもわかる理屈だよ。どっちも取りたきゃ人の倍努力しなくちゃならないのにさ、手っ取り早くどっちも取ろうなんて図々しいにも程があるんだよ」
一喜は辛辣だった。
「子育てなんて長くて二十年くらいじゃん。八十年生きるとして四分の一だろ。我慢すりゃいいじゃん。何がほしくてそう生き急ぐのか俺わかんねえわあ」
と言ったが、その理屈は夏生にはちょっとおかしくて、
「二十年生きてない十七のガキに二十年我慢しろって言われたくない大人多いかもね」
と茶化す。一喜は大笑いして、
「それ、みんなに言われるわあ」
屈託なく笑った。
ふと夏生はあたりを見回す。ここはファミレスで、見慣れた夏生の日常だった。それでもそこで話す一喜の話の先には夏生の知らない現実がある。
その現実は知らないといけない現実なのだろうか。触る必要のある現実なのだろうか。知っても、知らなくても、たぶん夏生の日常は変わらない。それでも知ることは夏生の日常を揺さぶりもするのである。
たぶん一喜は揺さぶりたいのだ。
だから、あんな歌を作る。
こういうガキがいるんだよ、と歌う。それでどうなると期待しているわけでもないだろう。子供を救えと言いたいのでもなく、世の中間違っていると言いたいわけでもない。でも、歌わずにいられない衝動。それはわからないでもなかった。
でも、琢磨にはそれがわからなかったのだと夏生は思った。
琢磨は一喜の歌を悪趣味だと言った。
時として知ることは不快なのである。
波風の立たない日常の中にいて、子供が嬲り殺される話を知るのは決して楽しいことじゃない。
人を不快にさせることをあえて歌う意味があるのか、と琢磨は思ったに違いない。
それもまたわからないでもない。
知ることは必要だろうか。楽しく生きることは必要だろうか。
波風立たない日常の中でなんだか磨滅していくものがあるのを夏生は感じずにはいられなかった。何も考えなくても生きていける日常の中で、抜け落ちていくものがある気がして仕方がない。
でも、本当に波風は立っていないのだろうか。
もし近所で泣き叫ぶ声が聞こえたとして、自分は警察に通報しようと思うだろうか。
日常に波風は立っていないわけではないかもしれなかった。
単に自分が鈍感になっているだけなのかもしれない。
そんなことあるわけないよ、と信じないことで波風をなかったことにしているのではないだろうか。
なんだか気持が落ち込んだ。
暑かったせいもあるかもしれない。
その日の気温は三十五度。
その夏初めての暑さの到来だった。
インディーズバンドによるライブ当日は台風上陸という全然ありがたくないニュースを繰り返しテレビが叫んでいた。
初めての野外ステージだったが、当然のごとく強い風が吹き荒れている。
「でも、よかったんじゃないの?」
と笙子は長い髪を風に遊ばせながら言った。
「チケットは全部売れたんでしょ?売れたんなら来るか来ないかはあんま関係ないし」
「その発言はさすがにNGでしょ」
と美香が茶化した。
「だって、今日は別にうちのファンだけが来るわけじゃないし」
と笙子が言う。
うち、というのはレディシュリンプのことだろう。笙子にとっては自分もバンドの内側にいる感覚なのだろう。夏生は依然として部外者の意識が強かったから、内側感覚は持てなかったが、結成当初から関わっているらしい笙子にはまた違う気持があるのだろう。
「なんか今日は楽屋入りが遅れたらしいよ」
と笙子が内輪ネタを披露した。
「え、どうして?」
と美香が食いついた。
「一喜が遅れてきたらしくて」
「何かとトラブルメイカーだねあの子は」
と美香が言う。前回の打ち上げで喧嘩に巻き込まれたせいか、美香の一喜への評価はこのところ一変した。最初は一喜ファンを名乗っていた美香だったが、今は琢磨が贔屓のようである。
「まあ、お母さん入院してるから仕方ないんだけどね」
と笙子は言いにくそうに事情を話した。
「あ、そうなんだ」
「うん、病院に寄ってから来たらしくて」
夏生はびっくりして、
「お母さん調子悪いの?」
と聞く。
「いや、落ち着いたらしいよ。それで病院からタクシー飛ばしてきたって」
「そっか、よかったあ」
「そうだね。一喜も安心してギグできるよね。和司も喜んでたよ」
「てかさあ」
と美香が口をはさむ。
「夏生って一喜のお母さんのこと知ってたの?」
はい?と思った。
「そりゃまあ」
質問の意図がわからず、夏生は曖昧な返事をする。笙子が、
「一喜のアートワーク手伝ってるじゃん夏生は。知ってて当然じゃん」
「ああ、そうなんだあ」
妙に語尾を上げて美香は面白くなさそうに言った。なんだこいつ、と夏生はちょっとむかつく。
「私もアートワーク引き受ければよかったなあ」
美香は心底残念そうにひときわ大きな声で溜息混じりにそう言った。
「あんた、いやだって断ったじゃん」
笙子が笑いながら突っ込んだ。
「だって絵とか描けないもん」
「じゃあ、引き受けられないじゃん」
「そりゃそうだ」
あはは、と美香は笑った。
「私も夏生みたいに絵好きだったらよかったなあ」
とこの日の美香はしつこかった。
「やればいいじゃん?」
と夏生。
「一喜、ほとんど全部一人で作ってくるから、私、これがいいあれがいいって言うだけだし。絵の好き嫌いは関係ないと思うよ」
「え、ほんと?」
美香が目を見開く。茶髪の盛り髪が揺れる。マスカラで囲われた人形のような大きな目がさらに大きくなる。
「じゃあ、次から一緒にやっていい?」
「私じゃわかんないよ。メンバーに聞いて」
と夏生が言うと、そうする、と美香は嬉しそうに言った。
ギターが鳴って最初のバンドの演奏が始まった。
レディシュリンプの出番は三番手だった。
客の集まりは悪かったが、それでも三番手になるとさすがに会場が埋まるくらいには集まってきている。
最前列で体育座りで見ている女子もいた。中学生くらいだろう。まだ子供っぽい声で歓声を上げている。
「さすが夏休み」
と笙子が溜息とともに呟く。
「笙子、子供苦手だよね」
と夏生が茶化す。
「子供にロックがわかってたまるか」
と笙子。いやいや、と夏生。
「笙子も聞き始めは小学生だよね?」
「まあね」
と笙子が笑った。
メンバーがステージに上ってくる。子供っぽい歓声は更に高くなった。
「カズキーっ!」
と叫び声が上がった。
「おお」
と笙子が言う。
「ファンついてるじゃん」
「ちょっと安心だね」
と夏生。
ステージの上には黒いフード付きのジレを直接素肌に着ている一喜がいた。
黒いスリムなパンツにブーツ、ついでにサングラスもかけていて、ファミレスで会った時とまったく同じ格好だった。普段着でステージに立つな、と夏生は思わず突っ込みたいところだったが、もっともそれも暑さのせいだろう。台風接近中の真夏は湿度が半端なかった。その上、一喜は半端なく汗かきなのである。
「一喜、まだ目の腫れ引いてないんだね」
と夏生が言う。
「目の腫れ?」
と笙子。
「だって、サングラス。青あざ隠しにかけてるって言ってたよ」
「ああ、それで」
「よく知ってるよね」
と美香が言って、夏生はまたちょっと嫌な気分になる。
あんた琢磨が好きだって言ってたじゃん、と思った。それともまだ本命は一喜なのだろうか。だったら、あまり一喜の話はしない方が賢明かもしれない。
「こんにちはーレディシュリンプです」
相変わらず抑揚のない挨拶を一喜がする。最前列の女子達はそれだけで異常に盛り上がった。
「あれ、今日はノリがいいお嬢さん達が来てる」
と一喜は珍しくMCらしいことを言うと、そのまましゃがみ込んで、
「どこから来たの?」
と中学生とおぼしき彼女たちに話しかけた。
「おお」
と笙子がまた声をあげる。
「一喜が生意気にもMCらしいことをしてる」
とおかしそうに突っ込んだ。
「さすがに慣れてきたね」
と夏生もおかしい。
自分たちのすぐ前にしゃがみこんだ一喜に子供達はきゃあきゃあ声をあげた。一喜がマイクを向けなかったので彼女達がなんて答えたかはわからなかったが、
「そうか。遠くから来たんだね。台風来てるらしいから気をつけて帰れよ」
子供達はまたきゃあっと悲鳴をあげた。
ああ、と夏生は思った。子供好きだって言ってたっけ。
だとしたら、この夏休みの間はMCの慣れ時かもしれない。なにしろ集まるのは子供ばかりに違いない。
「じゃあ、一曲目。dancing with devil」
一喜が言ってギターが鳴った。
真夜中に会おう
暗闇で会おう
だってそれは神聖な儀式
誰にも言っちゃいけない
誰にも知られちゃいけない
秘密ってやつはなんて甘美
それは誰にも止められない
だって誰も知らないからさ
秘密だから覗きたい
タブーだからやってみたい
リミットだから超えてみたい
黒と黄色の境界線を
超えたいやつらは悪魔とダンス
遠い昔に悪魔を封じた
だけどそんなの夢物語
無垢な子羊めえめえと
ボーダー超えるめえめえと
だからそこで悪魔とダンス
とっつかまって悪魔とダンス
覗きこめ井戸の中
結界の彼方
悪魔がほほ笑む
真夜中に会おう
二人きりで会おう
だってそれはタブーな儀式
誰にも言っちゃいけない
誰にも知られちゃいけない
タブーってのはなんて甘美
それは誰にも止められない
だって誰も知らないからさ
禁忌だから犯したい
禁止だから触れてみたい
規則だから逆らいたい
黒と黄色の境界線を
超えたいやつらに悪魔がお相手
遠い昔に封じた悪魔
だけどそんなの夢物語
無垢な子羊めえめえと
ボーダー超えるめえめえと
だからそこで悪魔がお相手
とっつかまって悪魔とダンス
覗きこめ井戸の中
結界の彼方
悪魔がほほ笑む
dancing with devil
気が狂うまで
dancing with devil
体滅ぶまで
dancing with devil
dancing with devil
dancing with devil
気が狂うまで
体滅ぶまで
相変わらず暗い歌、と夏生は思った。およそ子供好きの作る歌ではない。でも、中学生達は大喜びだった。歌の内容などどうでもいいのだろう。彼女たちにとってお気に入りのボーカルで踊れたらそれでいいに違いない。
もっとも夏生にしたって、恋や愛、夢や希望を歌う歌に慣れているから、暗いと思うのかもしれなかった。暗い気分の時もあるし、攻撃的な時もあるだろう。そういう気持ちを否定しなくてもいいのだとレディシュリンプの歌は教えてくれる。人の目が気になる、いい人間でいようと思う、ネガティブな自分の気持ちに後ろめたい気分になる、そんな自責の念から彼らの歌は解放してくれる。だから、夏生もスタッフをやめることなく続いているのかもしれない。
今回、新曲はこれだけで、あとは「arms」「数を数えろ」ミルミル、ではなく「Fantasy」と続いた。
単独ライブではないから、時間は短い。歌い終わってメンバーがステージを降りはじめると、最前列の少女が、カズキーっ、と叫びながら舞台に上がろうとして、警備員に阻止された。振り返り、申し訳なさそうに一喜は笑うと、軽く手を振って、そのまま降りていった。
「何、あのがき」
と眉をひそめて鋭く非難したのは美香だった。
「お子様にとっちゃアイドルなのよ」
と笙子が訳知り顔で言う。
「会えるアイドルってやつ?」
「そうだね」
自分たちも見に来ているのだからファンであることには変わらないのだが、さすがにステージに上がろうとする愚行には夏生も批判したくなる。その境界がわからないのが子供たるゆえんだろう。年齢の問題ではない。理解の問題なのだ。
今日のライブの打ち上げはファミレスだった。
一喜は来なくて、
「病院に戻ったよ」
と和司が説明した。
「やっぱり容体悪いの?」
と夏生は心配で聞く。
「落ち着いたとは言ってたけどね。やっぱ心配なんだろうぜ」
「お見舞いとか行かないの?」
と美香が聞く。
「面会謝絶なんだよ」
夏生は絶句した。そこまで悪いのか。
「一週間後のライブ大丈夫なの?今のうちに中止申し込んでおこうか?」
と笙子が言う。
「一喜は絶対来るとは言ってたけどね」
「来られなかったら誰が歌うかだよな」
「え、一喜ぬきでやれって?」
「ハルでいいんじゃね?」
「坊主のボーカルってやじゃない?」
晴信が自ら突っ込んで大笑いする。
「一喜のお袋さんが持ち直してくれることを祈るしかないな。一喜のためにも俺らのためにもさ」
と和司が言う。
「じゃあ、万が一の時はハルが歌うってことで」
「一喜に服借りられないかな。あんな服、俺持ってないぜ」
「え、なんで?」
と美香が聞く。
「あいつ、全部自分で作ってんだよ。まめで驚くぜ」
「ステージに合わせた衣装?」
「そう」
琢磨がおかしそうに笑いながら、
「しかも完成品買ってきて手加えるんじゃないんだぜ。布から買ってきて自分で裁断するんだって。俺絶対無理だわ」
「よくそんな暇あるね。バイトもしてるでしょ?」
と夏生が言うと、
「夏生、詳しいよねえ」
と美香がまた口をはさんだ。何なのこの女、と夏生はむかつく。
「夏生ちゃん知ってて当り前じゃん」
と琢磨は軽口だった。
「デザインの打ち合わせ頻繁なんだろ?一喜もすげえ助かるっつってたぜ」
「え、マジで?」
と夏生は思わず聞く。琢磨はなんだか今日はとってもいい奴だ。彼は笑顔でうなずくと、
「俺らデザイン系の知り合いいないからさ。アートワーク、一喜一人じゃん?夏生ちゃんサポートに入ってくれてすげえ助かってるよ。一喜、夏生ちゃんと話すとすげえイマジネーション湧く、つってたし。やっぱ俺らじゃそっち系の話の相手はできねえしさ」
イマジネーション?それはワンピースのことだろうか?と夏生は思った。正直デザインの話をした記憶がない。何が一喜のイマジネーションを刺激しているのかはさっぱりわからなかったが、役に立っているらしいことがわかったのは嬉しかった。
「私も参加したいんだけどっ」
美香が思い切ってそう言った。
「え?」
と琢磨。
「美香ってデザインできるんだっけ?」
「いや、……できないけど」
「じゃあ、意味なくね?」
「え、だって、夏生がデザインは全部一喜がやるから自分が描くことはないって言ってたもんっ」
「そりゃ今はたまたまじゃん。いいデザインできなかったら描いてもらうだろうしさ」
「いいじゃん、美香ちゃん。手伝ってくれるの嬉しいしさ。今まで通り、ポスター貼り手伝ってよ」
と和司がとりなすように言ったが、美香は一喜と一緒に仕事がしたいのだから、それでは何の意味もなかった。だが、一喜がいないこの場でこれ以上、話は展開のしようがなかった。
美香は口をへの字に曲げて、黙り込む。おや、と夏生は思う。美香のその怒りはこちらに向けられるのではないだろうか。
「いいな、夏生はっ」
案の定、美香に思い切り睨みつけられた。
「何なの?」
と晴信が茶化す。
「美香ってもしかして一喜好きなの?」
「そうじゃないよ!」
と美香は否定した。
「あんた、この前、琢磨のファンって言ってたよね?」
と笙子がばらすと、
「マジで?」
と琢磨が弾けるように言った。美香はますます慌てて、
「琢磨のギターが好きって言ったのっ!」
「琢磨、ベースなんだけど……」
「お前、ポスター貼りもやめていいよ」
と琢磨が冷たく突っ込んで、美香は必死で謝り、みんなの笑いを誘った。夏生も美香の妬みから解放されてほっとする。
「夏生はさ、」
と笙子が囁いた。
「一喜のこと好きじゃないの?」
「別に」
即答した。
異性として、という意味だろう。それは確かにない。勿論、憧れないわけじゃない。かっこいいし、才能もある。でも、それだけになんだか遠い存在だった。少なくとも自分の日常にいるような存在ではなかった。まるでテレビの中にいるような、ステージの上だけの存在。彼はバンドのボーカルで、自分は観客。立つ位置が違う遠い存在。ステージに駆け上がれる中学生の方がずっと一喜を身近に感じていることだろう。
アイドルの隣に自分がいることを想像できるのは、きっと自己肯定感の強い人間だろう。
同じ土俵に立つ自分をイメージできないとそれはかなり難しい、と夏生は思っている。そういう意味で、アイドルのおっかけをやっている同級生達がうらやましくもあるのだ。夏生はアイドルを追いかける自分を想像できない。追いかけるにも女の子の資格のようなものがあるように感じていた。
女の子としての自覚が夏生には足りないような気がしないでもない。
その自己肯定感の低さがどこから来るのか、夏生にはわからない。特にないがしろにされた経験があるわけでもないし、虐待とも無縁に育ってきた。全く何も思い当らずに、違和感だけを抱えて生きているのである。
だから恋愛はできないかもしれないなあ、と思うこともある。なぜそう思うのかもよくわからない。恋愛もまた夏生という存在をすりぬけていく遠い存在のように思えた。
もっともその一喜は、今、生ではなく、おそらく死と向き合っているのだろう。
母親の病床にいて、死を意識せざるを得ない状況にいるはずだった。そう思うと自分が向き合っている現実はなんだかとっても甘い気がして仕方がなかった。
向き合って話をしていても、同じ世界の人とは思えないほど、違う経験を一喜はしている。話すたびにいつもその遠さに気づくのである。遠い人、それが一喜の印象だった。
彼に近づきたいと思える美香が、だから、羨ましくもある。いちいち腹が立つ美香だったが、いまいち嫌いになれないのはそのためかもしれない。
「ふうん」
と笙子がうなずいて夏生は我に返った。
一喜の母親のことはその後もずっと気になって、夜中にとうとう夏生はメールを送ることにした。
お母さんどう?
と一行だけのメールだったが、返事はなかった。
当たり前か、と夏生は思った。一喜が病院にいるのなら携帯の電源は入っているはずがなかった。
それから七日間。
何の連絡もないままに次の単独ライブの日となった。
笙子から聞いたところによると、母親の具合はだいぶいいらしい。それでも大事を取って一喜は病院と自宅を行ったり来たりしているらしかった。
「なんか携帯水没させたみたいで、和司に公衆電話から電話してきたって」
笙子はおかしそうに報告してくれた。
病院の洗面所で顔を洗おうとして、胸のポケットから携帯が洗面器へとダイビングしたらしかった。話を聞いて夏生は胸が詰まる思いがした。病院に泊まったんだ、と思った。おそらくほとんど眠れなかったのだろう。それで水没のへまをやらかしたのじゃないか。
「ライブは?来られるって?」
「うん、お母さん落ち着いてるから夜は抜けられると思うって言ってたよ」
そんな話をしたのが昨日夜遅く。
夏生はなんだか落ち着かなくて早めにライブハウスへと向かった。
まだ入り口は開いてなかったが、既に開場待ちの客が何人かたむろしていて、夏生は入り口を塞ぐ客を避けながら、スタッフ用の通用口から中に入る。ライブハウスの従業員とは顔見知りだったから、すんなりと中に入れてくれた。
「来てるよ」
とだけ従業員が言って、
「誰?」
と夏生が聞くと、
「一喜」
と従業員は答えた。
夏生は急いでライブハウスの中を見回す。
ホールの真ん中、細い背中を丸めて赤いビールケースを椅子代わりにして座っている見覚えのある背中があった。真黒のシャツに白い小さな袖と襟。黒い革のパンツ。赤いバンダナを巻いている。
近づく足音に気付いたのか、気怠そうに振り向いて、それはやはり一喜だった。今日も彼は小さなサングラスをかけていて、手にはレッドブルの青い缶を持っていた。夏生を見上げると、
「ごめん、メール返せなくて」
開口一番彼は謝った。
「お母さん大丈夫?」
と夏生は聞く。一喜の口元がうっすら笑うと、
「うん。心配かけてごめん」
とまた謝った。
「早かったんだね?」
と聞いてみる。病院から抜け出してきたにしては早い時間である。
「俺さ、病院追い出されちゃって」
「は?」
「ずっと詰めてたからさ。先生が少し外に出た方がいいって」
先生とは病院の先生だろう。病院は一喜の看病疲れを心配したのである。
「今日、俺、ライブある、って看護師さんに行ったら、終わるまで帰ってきちゃダメって追い出されちゃったよ」
「いい看護師さんだね」
「うん」
一喜はぼんやりしているようだった。
「ソファの方行かない?」
と夏生は誘う。ビールケースに座っているよりそちらの方が体が楽だろう。
「うん」
一喜も逆らわない。立ち上がる。まだ照明の入ってない暗いライブハウスの中に入り口から差し込む光が一喜を照らし出す。顔に影が差して頬が以前よりも痩せているように見えた。
「ちゃんと食べてる?」
と夏生が聞く。
「お袋かお前は」
憎まれ口が返ってきた。
ライブハウスのバーカウンターの横に黒いソファが置いてある。そこに二人は並んで座った。
「あー落ち着くわ」
と一喜は体を投げ出すようにソファの上にどさっと座り込んだ。
「こっち来たら、って言ったんだけどね」
と従業員が申し訳なさそうに言った。
「神経張り詰めちゃっててさ。でも落ち着いた。レッドブル効いたよ。有難う」
と一喜が礼を言って、手の青い缶が従業員からの差し入れだとわかる。そして、
「知ってる奴いると落ち着くわあ」
とぽつりと言った。
「知ってる奴?」
夏生はわからない。
「夏生さん」
「私?知ってる奴なの?」
「俺のこと知ってるでしょ。だから知ってる奴」
なんだそれ、と突っ込みながらも、それはそれでわからないでもない。誰にとっても病院は知らない人ばかりのはずだった。夏生も中学生の頃、風邪をこじらせて入院したことがある。大部屋で回りは老人ばかり。みな優しくしてくれたが、それでもなんだか緊張したのを覚えている。中学生の寂しさと一緒のはずもないが、今の一喜にあの時の寂しさが重なった。なんだか可哀想で、よしよし、と頭をなでてやる。が、一喜はノーリアクションだった。サングラスでわからなかったが、彼は寝息を立てて寝ていた。
「寝てないんだろうね」
従業員が同情してそう言った。
「このまま寝かせといていい?」
と夏生が聞く。従業員はうなずいて、
「開場時間になったら起こしてやって」
と許してくれた。
一喜は泥のように眠っている。もう一度よしよしと頭をなでてやる。彼の左手からころんと空っぽのアルミ缶が転がり落ちて、夏生はそれを拾いに身を屈めた。
「何、お雛様みたいに並んじゃって」
といきなり声がして、見上げると、笙子と美香だった。ああ、嫌な奴に見られたな、と思いつつ、夏生はそっと立ち上がって、
「一喜、気分悪そうでさ、ソファに連れてきたところ」
と状況説明をした。別に言い訳をする必要もないのだが、なんだか美香は悪い方向に誤解しそうな予感満々だった。
「ふうん」
と美香は面白いくらい予想通りに不機嫌を露わにしたが、それ以上は何も言わなかった。
「平気そう?」
と笙子が心配そうに小声で聞く。
「たぶんね。アキさんがレッドブルくれたみたいで」
アキさんは従業員のことである。
「少しやつれたかな一喜」
と笙子も同じことを思ったようだった。
「もともと細いじゃん」
と美香。
「絶賛細さ倍増中か」
女に囲まれて喋られても、一喜はぴくりとも動かない。熟睡しているようだった。
開場時間が近づいていた。折角寝ているのに可哀想だと思ったが、夏生はそっと肩に手をかける。起こそうと思ったのだ。が、肩がぐっしょり濡れていて、夏生は一瞬ぎょっとする。寝汗をかいているのだろう。体調が悪いに違いなかった。しかし起こさないわけにはいかない。改めて肩に手をかけると、そっと揺する。
「一喜、一喜、ライブ始まる」
うん、と小さく答えて、一喜は目を開ける。
「俺……」
一瞬どこにいるのかわからなかったのだろう。彼はぼんやりしたまま、頬を手の平で拭った。
「汗かいてるな。熱い」
「大丈夫?」
夏生は顔を覗きこむ。サングラスで目の表情はわからない。でも、白い顔がにこっと笑って、
「うん。平気」
と答えた。
そして立ち上がる。
「アキさん、コップ一杯水くれる?」
「氷は?」
「いらない」
コップを受け取ると彼は自分の頭にかけた。黒い髪も赤いバンダナも水で濡れる。
「行ってくるか」
と言った声は、それでもまだ眠そうだった。
ステージに照明が灯る。
さすがの夏休み、相変わらず中学生っぽい背格好のグループが目立ったが、意外と年齢層の高い一団も混じっていて、レディシュリンプは広い層にアピールしているようだった。
ステージにメンバーが上がると、いつものように幼い声が嬌声を上げた。
「こんにちわーレディシュリンプです」
間延びした挨拶を一喜がすると、かわいいーっ、と声が飛んだ。
「かわいい?」
と一喜が聞き咎めるように言うと、会場がどっと沸いた。
「大丈夫そうね」
と笙子が安心したように言った。確かにステージの上の一喜はいつもと変わらないように見える。
「今日は俺は少し眠いです」
とどうでもいいことを言って会場の笑いを誘っている。
「なんで歌詞間違えたらごめんなさい」
言った途端、ギターが鳴った。
人生はロシアンルーレット
みんなが一抜けしてくのに
俺の番だけヒットする
弾を引き当てちまうのは
なぜかいつも
my turn
世の中不幸の吹き溜まり
とはいえリアルで見た奴なくて
案外不幸っていうやつは
バーチャルリアルなのかもしんねえ
笑ってる奴らのど真ん中
どたま打ち抜く my turn
人生はロシアンルーレット
みんなが一抜けしてくのに
俺は弾を引きあてる
どたまに鉛を食らうのは
なぜかいつも
my turn
世の中不幸がてんこもり
とはいえさほどの威力もなくて
案外不幸っていうやつは
フィクション設定なのかもしんねえ
笑ってる奴らのど真ん中
実弾食らう my turn
痛い思いはしたことあるかい
頭に実弾食らってみるかい
ゲーム世界で死ぬよりか
リアルで転ぶとなお痛え
人生はロシアンルーレット
どいつもこいつも引き当てねえ
誰も彼も引き当てねえ
ひきがね引いてしまうのは
なぜかいつも
my turn
世の中不幸がてんこもり
とはいえ不幸の実体見た奴ぁ
会ったことねぇ都市伝説
ほんとはどこにもねえかもしんねえ
笑ってる奴らのど真ん中
実弾食らう my turn
my turn my turn my turn my turn
Game set
不幸ど真ん中、というフレーズが夏生の胸に刺さった。
考え得る全ての不幸が我が身に降りかかるとしたら、どんな気分だろうか。いや、そうじゃない。そんなものはフィクション設定なのだ。リアルで転んで擦り剥いた膝小僧の方が今の自分にはずっと痛いに違いない。もう何年も自分の血を見たことがない気がした。転ぶことのない日常。きっと痛いよね、と思うが、あまりに昔過ぎてリアルな痛みは思い出せない。だから、心の痛みばかりに気を取られているような気がして、自分だけがいつも貧乏クジを引いているような錯覚を覚えるのだ。実弾を引き当てているのはいつも自分で、回りの奴は楽に生きているじゃないか、と思う。だから、自分より不幸な相手を見ると妙に安心してしまう。
「俺さあ」
歌が終わると、珍しく一喜は喋る気のようだった。
「今、親が死にかけてて」
何を突然、と夏生は驚いた。
さすがにリアルすぎる話題で曲で盛り上がっていた会場も一気に静まり返った。が、本人は全然気にしない。
「看病とか行くとさあ、バイト先の奴とかが言うわけ。お前マザコンだって。家族死にかけてて看病するのがマザコンなんだ世間では?って思ったんだけどさ。それがマザコンなら、まあ、マザコンでいいよ俺は」
冷えた会場からは一転、大歓声が湧き上がった。意外にも今夜は変わり者のボーカルを理解できる熱い客が集まっているようだった。
だが、言った当人にはその歓声はまるで聞こえていないように見えた。ステージの上でぼんやりと一喜は無表情に佇んでいる。もっともサングラスで目が見えないからそう見えるだけかもしれない。
ギターが鳴って二曲目が始まる。最前列に飛び出した子供達がなんだかわけのわからないことを叫ぶ。だが、一喜はやはり声のする方を向かない。会場の盛り上がりとは違うものを彼は見ているようで喧騒の中、一人だけ違う空間にいるようだった。
一体感のなさ。でも、それがかえって客を刺激する。シャッターが下りるのに客が慌てて飛び込もうとするように、常に閉じようとするステージパフォーマンス。乗り遅れまいとボルテージの上がった客が飛びつく。奇妙な関係性がそこには出来上がりつつあった。
客と関係なく勝手に歌い、時折、客の存在を思い出したように喋り出すと、客は異常に盛り上がった。
これはあれだ。
ツンデレだ。
夏生は思いつき、途端に、笑いがこみあげてきた。が、これほどしっくり来る言葉もないと思った。受けようと思ったら怖くてできないパフォーマンスだ。天然だからこそできた芸当だなと感心もする。客を無視した好き勝手なパフォーマンスを繰り返し、思い出したように客に話しかける。その言葉がまた熱い。反感まるだしでアジってた客は不意打ちに熱い思いを告げられて、アジるのも忘れて盛り上がる。計算されていたとしたら大したものだが、彼の場合、百パーセント天然に違いなかった。
しかし、とも思う。ライブハウスに来る客はなんと素直な人達なのだろう。一喜の素直な感情の吐露に素直な反応を返してくれる。アグレッシブで、ある種、暴力的ですらあるのに、なんだか心温かくて、それは見ていて気持ちのいい光景でもあった。だから夏生はここが好きなのだろう。
あの男が言ったのさ
お前のつぶれた右目がほしい
海賊みたいな片目がほしい
俺の目を見ろ
澄んだ茶色
退屈だったらありゃしない
trade trade
右目をtrade
おかしいったらありゃしねえ
交換したさ喜んで
つぶれた右目 澄んだ茶色
おかげで両の目そろったさ
trade trade
右目をtrade
おかしいったらありゃしねえ
あの男が言ったのさ
お前の壊れた右手がほしい
強盗みたいな右手がほしい
俺の手を見ろ
白魚の指
退屈だったらありゃしない
trade trade
右手をtrade
おかしいったらありゃしねえ
交換したさ喜んで
壊れた右手 白魚の指
おかげで綺麗な手になった
trade trade
右手をtrade
おかしいったらありゃしねえ
そしたら男が言ったのさ
なんて不便な右目に右手
見えねえ持てねえたまらねえ
俺の様見ろ
片目に片手
おそろしいったらありゃしない
trade trade
未来をtrade
そいつがてめえのtrade mark
そいつがてめえのtrade mark
trade mark trade mark!
trade mark trade mark!
ライブは未だかつてないほどの盛り上がりを見せていた。初演以来繰り返し披露している歌は既に覚えられたのだろう、一緒に歌う客もいる。だみ声の唱和に子供達の嬌声が混じる。アトランダムにメンバーの名前を呼ぶ声が混じり、狂気じみた熱気が狭い空間に渦巻いていた。そんな中でスポットライトに照らされて一喜が狂ったように歌う。
確かこの男は自分は鑑賞者だと言った。見られる側ではなく、見る側だと。とんでもない。彼は表現者ではないか。圧倒的な見られる側なのだ。
ミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛び立つ
来るべき時は来たのだろうか?
アウシュビッツ後 詩を書いちゃ野蛮って
テオドール・アドルノ言ったけど
ベルリンの壁も遠い記憶
それでもどこかにはりつく恐怖
繰り返されるgenocide
忘れちゃいけない 遺伝子が騒ぐ
それでも忘れる愚鈍な記憶
哲学者は憂鬱に愚かな人を嘆くのさ
ミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛び立つ
来るべき時は来たのだろうか?
全ての国のプロレタリアよ 団結せよって
カール・マルクスが言ったけど
冷戦時代も遠い記憶
それでもどこかで噴き出す疑問
繰り返されるquestion
忘れちゃいけない 遺伝子が騒ぐ
それでも忘れる愚鈍な記憶
哲学者は憂鬱に愚かな人を嘆くのさ
無知の知忘れてお山の大将
全知全能この世のすべて
心のありかもわかってないのに
ミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛び立つ
来るべき時は来たのだろうか?
無知の知忘れてお山の大将
全知全能この世のすべて
心のありかもわかってないのに
繰り返されるgenocide
忘れちゃいけない 遺伝子が騒ぐ
それでも忘れる愚鈍な記憶
哲学者は憂鬱に愚かな人を嘆くのさ
繰り返されるquestion
忘れちゃいけない 遺伝子が騒ぐ
それでも忘れる愚鈍な記憶
哲学者は憂鬱に愚かな人を嘆くのさ
突然、どこかからペットボトルが飛んできて一喜の頭に命中した。
「くぉらっ!」
琢磨が叫んで場内は騒然となる。物を投げるなっ、と客の怒号も聞こえる。もっともペットボトルは空で、一喜は苦笑いしながら右手を挙げて琢磨に合図をしていた。大丈夫、と言っているのだろう。
「びっくりした」
と笙子が目を見張って言った。夏生も思わずひやっとした瞬間だった。
調子がいい時なら冗談の一つも言うのだろうが、どうやら今日の一喜にはその元気は残っていない。額の汗を右手の甲で拭う。
最後まで歌いきって、客の盛り上がりは最高潮だった。初めてのアンコール。一曲では終わらず、もう一曲。
最高のライブとなった。
熱気も冷めやらぬステージが終わり、メンバーは楽屋へと引き上げる。
「今日のはよかったね」
と笙子が満足そうに感想を言った。
「客のノリもよかったよねえ」
と美香が満面の笑顔で言った。
が、がしゃんっという大きな音がして、
「おいっ!」
和司の鋭い声が響いた。びっくりして楽屋をのぞくと狭い部屋の中、折り畳みのパイプ椅子をなぎ倒して一喜がうつ伏せに倒れていた。
和司が荒々しく抱き起こしたが、一喜は起き上がることができない。楽屋の外では騒ぎを聞きつけた客の子供達が覗きこんでは、ボーカルが死んだとはしゃぎ立てている。うるせえってめえらっ、と琢磨が怒鳴っていて、更にカオスになっていた。
「病院連れてくわ」
と和司は言うと、一喜を車に乗せて出ていった。残されたメンバーとスタッフはすることもなく、その夜はそのまま解散した。
その晩、夏生は一喜が死んだ夢を見た。
一喜の葬儀に喪服で参列していて、メンバーもおかしな頭のまま黒いスーツを着て泣いていた。線香の匂いが印象に残る、妙にリアルな夢だった。
目が覚めると仏壇に祖母が線香をあげていて、そのせいで見た夢かもしれなかった。
祖母は、夏生も仏壇に手を合わせるように言い、夏生は夢と現とがよくわからないまま、言われるままに手を合わせた。
「親が亡くなるって切ないんだよね」
と夏生は祖母に聞いてみる。
「誰か亡くなったの?」
と祖母が聞く。
「いや、友達のお母さんが入院してて。相当悪いって言うから」
「それはつらいねえ」
と祖母はどこかが痛い顔をした。そして、
「もうすぐお盆だから、お友達のお母さんがよくなるようにご先祖様にお願いしたらいいよ」
と言った。そうだね、と夏生も素直にうなずいた。
それから三日後。携帯が鳴って一喜の名前が表示されていた。夏生は驚いて電話を取る。
「あ、夏生さん?」
と明るい声が言った。一喜の声だった。
「もう大丈夫なの?」
「心配かけてごめんな。今日退院した」
「え、入院してたの?」
「点滴打ってただけだけどね。今、みんなに詫びの電話入れてるとこ」
「ああ、私の番なんだ。いいよ。安心した。じゃあね」
「いやいや、待て待て、勝手に切るな」
一喜は笑いながら言うと、
「夏生さんが一番最後だから」
「あー、一番後回しなんだ」
「いやいやいや、だからさ、詫びの電話だけ先にかけたんだって。次の打ち合わせしなくちゃなんないし」
「え、次のライブもうやるの?」
「予定入れちゃってたからね。問い合わせも結構あるみたいでさ、今さら中止できなくて」
でも、一喜は仕事もあるはずである。その上、バンドのアートワークをやり、病院に通うなら休む時間はあまりないのではないか。
「今度のチケット、私、作ろうか?」
と夏生が言った。
「たまには私も描きたいし」
「いや、いいよ」
予想通り、一喜は断る。
「そりゃ一喜にもこだわりはあるだろうけどさ。たまにはやらせてよ」
「そういうわけじゃないけど」
一喜は少し考えているようだったが、
「なんか悪いなと思って」
「なんでよ、そのためのスタッフじゃん。FAXある?できたら送る」
一喜は少し考えてから、
「夏生さんち、ライブハウスの近くだよな。俺、仕事でそば通るから、そん時、もらいに行ってもいい?」
FAXがないとは言わずに、そう言った。
「わかった、いいよ」
三日後に取りに行く、と一喜が言って、夏生は自宅住所と地図をメールで送った。
が。
いざデザインを初めてみるとこれが結構大変だった。
何より全くコンセプトが思い浮かばない。
これまでの一喜のデザインと同じ路線にした方がいいだろうと思ったが、どうすれば同じ路線に見えるのかがさっぱりわからないのである。
今までのチケットを並べてみる。
どれも幾何学模様なのだが、一喜は初回は波で、次は花だとコンセプトを語っていた。
波?花?次は?何にしたら同じ路線になるんだ?
花と波か。自然がモチーフなのかな。
雷とかどう?
ジグザグの三角をデザインするのは?
それこそ頭を三角にしながら夏生は考え抜き、描いては消し、描いては消しを繰り返して、徹夜していくつかのモチーフを作り上げたのだった。
考えることは楽しかった。
頭を空っぽにして、一生懸命何かをやることは楽しかった。
三日後。
一喜がやってきたのは日中の暑さが一息ついた夕暮れ近い時間だった。
白いシャツに黒のジレの一喜は汗だくだった。
「今からバイト?」
と夏生が聞くと、
「いや、終わったとこ。帰るだけだよ」
明日休みなので今晩デザインを仕上げるつもりだと彼は言った。
「だったら、」
と夏生が言う。
「上がっていってよ。涼しくなってから帰ったらいいし。一緒にデザイン終わらせようよ」
「夏休みの宿題じゃねえんだから。迷惑だし、いいよ」
と例によって一喜は遠慮する。が、ちょうど仕事から帰ってきた母親と玄関で遭遇、
「上がっていってちょうだいよ。外は暑いわよー」
と母親が援護射撃をしてくれて、一喜はとうとう断ることができなかった。。
ひどく恐縮しながら、家に上がり、挨拶をする一喜は物腰の柔らかい人間に見えて、夏生はおかしい。うっかり笑って、
「何笑ってんだよ」
と一喜を怪訝がらせた。
「だって、一喜、おとなしいんだもん」
「おとなしくもなるよ。人様の家なんだから。俺、親戚少ないから他人の家って慣れないんだよ」
テンパりながら早口で言い訳する一喜は、本当に異性を感じさせないなあ、と夏生は変な感心の仕方をする。クラスの男子でも家に来たらもう少し緊張するが、一喜はまるで女友達が来たような気易さしか感じさせなかった。
「女の子の家に上がるのって緊張する」
と一喜は言ったが、
「男って感じしないから全然大丈夫だよー」
とうっかり言ってしまって、
「はあっ?すげえ侮辱されてるしっ」
一喜は目をむいて抗議した。夏生は更におかしくて声を立てて笑う。
「夏生さんは、」
と一喜はつられたように笑いながら、
「異性って気がするけどね」
「え」
夏生が一喜に異性を少しでも感じたとしたらきっとこの時だっただろう。が、
「馬鹿な女見てるのって楽しいじゃん」
と一喜が言って、
「もっぺん言ってみろっ」
「お嬢さん、言葉が汚いよ」
一喜に言いように反撃されたのだった。
一喜は母親に薦められるままに居間に上がり、しゃちほこばって座った。
昔ながらの日本家屋の夏生の家は居間も畳敷きだ。大きすぎる木製のテーブルが部屋いっぱいに置いてある。
「エアコンあるんだ。いいな」
と一喜が言って、夏生はびっくりする。
「一喜んちエアコンないの?」
「あるけど俺一人の時は入れないね。電気代もったいないじゃん」
「窓から風入る?」
「なんとかね」
母親が麦茶を入れたグラスを二つ持ってきてくれる。一喜は更に恐縮した。母親は笑って、
「足崩してね」
と正座したままの一喜に言った。
その間に夏生は徹夜で仕上げたデザイン画を自分の部屋から持ってくる。
「おお、すげえ。うまいじゃん」
と一喜が言って夏生はほっとした。少しは役に立てているだろうか。
自分の家だという安心感もあっただろう、夏生は聞きたいことがたくさんあった。
「いつから夏生さんって呼ばれてるの私?」
「おかしな日本語で質問すんな」
と一喜は文句を言って、
「ハルコさんとでも呼ばれたいの?」
「や、そこじゃないから。同い年なのに”さん”づけってとこだから。美香は呼び捨てじゃん」
「夏生さん怖いから」
「え?怖くないよ?」
「なんだろ?なんか侮れないなと思ったことがあって。リスペクトしてさん付け。呼び捨てにしてたこともあったじゃん」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃねえって」
「笙子もさん付けだよね」
「ああ、あれは年上だから。笙子さんは苦手だよ」
「え?そうなの?」
仲がいいと思っていた夏生は意外だった。一喜は嫌そうに眉をしかめると、
「あの女」
とさえ言って、
「俺につきあえってさ。てめえは和司の彼女だろうがよ」
え?
夏生は一瞬頭が真っ白になった。
そもそも和司とつきあっていることすら知らない。
二人は幼馴染だとは聞いていたから、仲がいいのはそのせいだと思っていた。でも、二人がつきあっていたとしても、それほど意外ではない。それよりも信じられないのは一喜につきあえと言ったという話だ。笙子が?いつもクールでスタイリッシュなイメージの笙子とはどうしても結びつかない。
「笙子がそう言ったの?」
「何が?」
一喜はすっかりデザインに気を奪われていたようだった。自分が言った笙子の悪口のことももう忘れているのである。夏生にとってはショッキングでも、一喜にとってはどうでもいい話なのである。
「笙子が、その、えっと、二股ってこと?」
「二股ってんじゃないよ。セフレだろ」
「せ、せふれ?」
聞き返した夏生を一瞬黙って眺めてから一喜は、
「一夜限りの恋人ってやつ」
言葉を選んで綺麗な表現をした。夏生は別に言葉の意味がわからなかったわけではなかったが、一喜が気を使ってくれたのは嬉しかった。
「夏生さんは笙子さんの友達なんだよな。悪かったよ悪く言って」
一喜はデザインに目を落としたまま謝った。
いや、いいよ、と言うのが精いっぱいだった。自分の知らないところでいろんなことが起きているのだ、と夏生は思わざるを得ない。混乱の中で下世話な好奇心が動いた。
「で、あの、その、一喜は、その、笙子と、」
しどろもどろに聞いた夏生に一喜は噴き出すと、
「寝るかよ。馬鹿か。俺、困ってないっての」
「あ、彼女いるんだ」
「だから彼女じゃねえって。一夜限りの恋人」
「……ああああ、そうなんだあ……」
一喜はとうとう声を立てて笑って、
「馬鹿な女見るのって楽しいね」
思い切り馬鹿にすると、
「嘘だよ。俺、今そんな体力ねえって。自分のことで手一杯だよ」
くだらない妄想膨らませてないで、ここのアイデア考えてくれよ、と一喜はデザイン画を差し出す。夏生は妄想なんかしてないもんっ、と抗議しながら、二人でデザインの修正をした。
その日、一喜がそんな戯言を言ったのは、もしかしたら夏生が異性を感じないと言ったせいだったかもしれない、と今にして思う。
夏生の母親が夕飯をお盆に載せて持ってきた時には、一喜は飛び上がったように正座し直すと、まるで蛙のように低姿勢で、お構いなく、すみません、と何度も頭を下げた。母親は困ったように笑いながら、
「うちは家族が少なくて寂しいから、いつでも遊びに来てくださいね」
と言うと、一喜は、恐れ入ります、と本当に恐れ入って頭を下げた。
夏生は台所へ行って夕飯を済ます。
「あんなに気にするんだもん。ご飯は一人でゆっくり食べさせてあげたら」
と母が言って、なるほど、と思ったのである。もっとも一喜は、え、行っちゃうの、と聞いたが。
「なんだか顔色悪いよね」
とも母は言った。
夏生が夕食を終えて居間に戻ると、一喜は畳の上に横になっていた。
あれ、と思って夏生が覗きこむと、彼は眉間に皺を寄せたまま、寝入っていた。
夏生はそうっと台所に戻ると、
「寝ちゃった」
と母に報告する。母親は驚いて、
「あらあら、疲れてるのね」
と肌布団を出してきた。
「お母さんが入院してるって言ってたお友達でしょ」
と母が聞いた。うん、と夏生。
「入院してるお母さんもきっと息子のこと心配してるでしょうね」
切なそうに母はそう言った。夏生もなんだか胸がいっぱいになる。
母親は浅い寝息を立てている一喜にそっと肌布団をかけてくれた。
考えてみればライブの楽屋で倒れてからまだ一週間である。なぜ一喜はこんなに苦労しなくちゃいけないんだろうかと思うと、夏生はなんだか胸が痛かった。
居間で音がしたのに気づいて、夜更かししてゲームをしていた夏生が覗く。
真っ暗やみの中、ぼんやりと座りこむシルエットが浮かんでいて、一喜が起きたのに違いなかった。
「目、覚めた?」
と夏生が声をかけると、
「俺、最低だな」
救いようがないほどに落ち込んだ声でぼそっと呟いた。
「なんでよ」
「人んちで寝るとか」
「いいじゃん。別に」
暗闇の中だったが、一喜はふっと笑った気がした。
「ごめん」
少しだけ柔らかくなった声で一喜がそう言った。
当然、今から帰る、と言い出して、夏生はまた止めなくてはならなかった。本当に面倒な男である。
「どうせ家に帰ったらデザインするんでしょ?だったら、ここでやってけばいいじゃん」
病院からの連絡があるにしても携帯に入るはずで、彼は今から家に帰らなければならない理由はないのである。
「あーもお、俺、何やってんだろ」
自己嫌悪に苛まれたように一喜は頭を抱えたが、終電もとっくに出た後である。現実的に帰ることは不可能で、もはや観念するしかなかった。
「続きやる?ペン持ってくるけど」
「……明日には印刷持っていきたいし。大変ご迷惑ですが、ペンを貸していただけないでしょうか」
抑揚のない敬語で一喜が言って、夏生はいらっとする。
「もっと上手に人頼れないの?」
「悪かったよ。頼るのに慣れてないんだよ」
真夜中、二人は電気をつけてデザイン画を描き始める。
「ここまで手かけることもないんだけどな」
と一喜が自嘲気味に言う。実際、真夜中にこうやって向かい合っていて、お互い間が持たないというのもあって、二人はせっせと手を動かしている。
「一喜、丁寧だよね」
と夏生は一喜の手元を覗き込みながら言う。
「要領悪いんだよ」
と一喜はまた自嘲気味に笑った。
「歌詞って全部一喜が書いてるの?他のメンバーも書いたりする?」
「全部俺」
「作曲は誰やってるの?」
「俺」
「え、じゃあ、作詞作曲、全部一喜?」
「そう」
「だったら、一喜のワンマンバンドじゃん」
「他のメンバーは演奏しなくちゃなんないからな。俺、歌うだけだからできることは引き受けてるよ。うちの演奏はタイトだろ?みんな練習してるからな」
「確かに演奏うまいけど」
なんだか一喜が一人で背負いすぎではないだろうかと夏生は思った。だが、一喜自身はちっともそうは思っていないようで、
「俺がしたいようにできるっていうのもあるんだけどね」
と笑った。全部引き受けることで好きな歌、好きなイメージにできる、という意味だろう。
「でも琢磨に歌詞、文句言われてたじゃん」
「メンバーも文句は言うよ。俺は無視するけど」
「ダメじゃん」
夏生は笑った。一喜も笑って、
「やりたいようにやるために苦労して引き受けてるんだからさ。出来上がってから変えるとかないだろ」
しかし、喧嘩の原因となった「電子レンジから愛をこめて」はその後のライブでは歌われたことはなかった。
「面白いねバンドの楽屋話」
「こんな話、それこそ笙子さんから聞いてるだろ?」
「いや、笙子は全然楽屋ネタは話さないから」
「そうなんだ?内緒にしてるわけじゃないのにな」
「バイト、何やってるの?」
「カラオケ店だよ。今はポスターとかチラシ作りの方が多いけどね」
「カラオケ店のチラシ?」
「うん。そのうち、基本習ってパソコン買って、本格的にデザインやれるようになりたいね。そしたらそれで食べてけるじゃん」
「歌でデビューとかじゃなく?」
「今はただ歌作ってライブやってるだけで楽しいからな。カラオケ店の仕事で食べていけてるわけだしさ。金のためにデビューとはまだあんま考えないな」
「いいよね。歌えるって」
「夏生さんは歌わないの?」
「音痴だからさ」
「じゃあ、今度一緒にカラオケ行こうぜ」
「音痴って言ってるじゃん!」
「だからじゃん」
一喜は気持ちよさそうに軽口を叩いた。むかつくにはむかつくが同時に夏生は明るくなった一喜にほっともする。
「一喜の好きなミュージシャンって誰?」
「ピル」
「ピル?」
「バンドだよ。Pubilc Image Ltd.。超かっけええの。俺の歌、みんなピルのパクリだもん」
「え、そうなの?」
「うん」
うん、ってあんた、と夏生は呆れた。
「ボーカルがジョン・ライドンっていうんだけどさあ。パンクの原型作ったのジョンだと俺は思うんだよね」
「そうなんだ?」
「俺はすげえ尊敬したいんだけど、ジョンは他人のイメージにつき従うなって言う人だからさ、自分をリスペクトする奴が嫌いなんだよ」
「え、どういうこと?」
「自分自身であれ、っていうのがポリシーなんだよ。だから、ジョンの真似する奴はぼろくそに言われる」
「フォロワになるなってこと?」
「そうだね。だからパンクファッションする奴とか大嫌いらしい」
「え、でもパンクファッション流行らせた本人なんでしょ?」
「だから、本人は流行らせる気なんてなかったんだよ。好きな服着てただけ。かっこいいからみんなが真似しただけで」
「ああ、なる」
「でもさ、かっこいいカッコで登場しといてさ、真似るなって方が無理だと思うんだよな俺は」
「確かにそうだ」
「でも、仕方ないからさ、できるだけ真似はしないようにってセーブは働くね」
「複雑なファン心理だね」
「カリスマは頭良すぎて理解すんのが大変なんだよな」
困ったように言いながらも一喜は嬉しそうだった。
「人の目を気にしないって最強だよな。そりゃ人に迷惑かけちゃダメだけどさ、どう見られるだろうかとかびくびくしないで生きられるってのはいいよな」
「ああ、なんかそれはわかる気がする」
「人に嫌われたいって最強じゃね?好かれたい、仲良くしてほしいっていう気持ちから解放されたら、たぶん人間かなり楽になる」
「でも、私は嫌われたくないな」
「俺も」
なんだ、と夏生は笑った。
「言ってること違うじゃん」
「だから、希望だって。そうなったらいいなっていう。嫌われるのは堪えるよ。誰も好き好んで嫌われたくないじゃん。でも、人に好かれるために自分を変えるっていうのも違うなって思ってさ。他人に合わせて自分殺すくらいなら嫌われる方がましかもってこと。極端だけどさ」
「なるほどね」
その夜、二人はたくさん話をした。どうでもいいこと、深そうな話、胡散臭い都市伝説、眉つばな噂話。思いつく限り、何でも話した気がする。空が白んで市電が動き出す頃、一喜は礼を言って帰って行った。
夏も終わりの頃だった。
夏休みのうちに三回のライブがあり、三回とも夏生はデザインをほぼ一人で担当した。一喜が自宅まで取りに来て、好きに変えてくれ、と言って渡したが、できあがったアートワークはほぼ修正なしだった。
たぶん一喜はその頃、余裕が持てない生活だったのだろう。三回のライブで新曲が披露されることもなかった。
夏休みもあと一週間という頃に夏生は母の本棚を改めて眺める。
蛍光ピンクの派手な背表紙の「STILL A PUNK」が相変わらずそこにはあった。
著者はジョン・ライドンと書いてある。あの夜、一喜が好きだといったバンドのボーカルに違いなかった。
もう一度手に取ってぱらぱらとめくってみる。
語り口調の読みやすい文章。もしかしたら口頭のインタビューをライターが文章化したものかもしれない。
夏生はそのまま読みふけって、その日のうちに読んでしまった。
伝説的なバンドの結成から解散の真実を語る本。だが、夏生には七十年代のイギリスの現実の方が衝撃的だった。この時代に比べたら、現代は、日本は、まるで無菌培養のシャーレのようなものである。真綿にくるまれて清潔だからこそ、ちょっとしたことにも私は傷つきやすいのだろうか。
夜遅くに帰ってきた母が、夏生が黄色い本を読んでいるのを見つけ、
「あらあら」
と言った。
「あ、ごめん、勝手に読んじゃった」
と夏生は言ったが、母は見たこともないほど恥ずかしそうにしていて、夏生はそれ以上、その本の話を母にすることはできなかった。
母親とは自分の内面を子供には見られたくないものかもしれない。自分の趣味を子供にもやらせたがる親もいると聞くけれど、少なくとも夏生の母は、その逆のようだった。
母はいつも夏生の前では母であろうとしてきたのだと思う。母であろうとする気持ちが強すぎて、母は今や自分らしく振舞えなくなっているのかもしれなかった。決して夏生は母が嫌いなわけでもなかったし、母も夏生を嫌っているとも思わなかったが、二人が腹を割って話すことはなかった気がする。お互いに恥ずかしくて、心を打ち明けるということはおよそできそうもなかった。おかしな親子だと思うが、お互いの相手を思いやる気持ちが深すぎて、深い気持ちがお互いに痛かったのかもしれない。
もしかしたら母の本を読むことで互いに一歩歩み寄ることになるんじゃないかという期待が夏生には微かにあったが、母は普段よりも狼狽してしまい、よけいに恥ずかしい思いをさせただけだった。夏生はこれ以上、母の何かに立ち入ることはためらわれたし、たぶんその機会はこの時、永遠に失われたのだろう。
夏が終わる。
秋風の吹く二学期が始まった。
二学期に入ってレディシュリンプのバンド活動も小休止に入ったようだった。
メンバーの二人が学生というバンドにとっては長期休暇が終わった途端、練習の時間が取りにくくなるようだった。
「ライブの予定も立てにくくてね」
と電話で笙子が困ったように言った。
「チケットも順調にさばけてるからさ、この勢いでずっと予定入れていきたいんだけど」
スケジュール管理を担当している笙子にとってはメンバーの予定が立たないのが悩みの種のようだった。
「聞いてる?」
と笙子が言って、
「ああ、聞いてるよ」
と夏生はぎこちなく答える。
夏生は、笙子が一喜に言い寄ったという話を聞いて以来、どうも自然に笙子と接することができないでいる。
「一喜は通信だからいいんだけど、琢磨がね。留年かかってるらしくてさ」
「落とせないんだ」
「だね。あの子もダブりたくないでしょ」
日程は未定だが、チケットに関しては二、三回先の分まで作っておいていい、と笙子は言った。
「あとさ、宣伝かねて小冊子作ったらどうかって話が出てるんだけど」
「小冊子?」
「うん。バンドの小ネタとか歌詞とか載せてライブハウスやCDショップに置いてもらおうって」
「ああ、いいんじゃない?」
「じゃあ、よかったら、その件も一喜と打ち合わせしておいてくれる?」
「はあい」
と夏生が言って電話が切れた。切ってから、
「小冊子?」
夏生は呟いた。
「いらねえって俺は言ったんだけどさ」
と一喜は夏生の家の縁側に腰掛けてそう言った。
二学期始まってすぐの金曜日の夕方だった。
いつものようにチケットのデザインを取りに来た一喜に小冊子のことを尋ねたのだが、一喜自身はそれほど望んでいるわけではなかった。
「だって、」
と一喜は思い切り顔を歪めると、
「恥ずかしいじゃん」
ステージで派手なパフォーマンスをしている人間が今さら何を言っているのかと夏生は思う。
「ステージは恥ずかしくないの?」
「自分で見えねえもん」
「ビデオに撮ったら恥ずかしい?」
「……撮るなよ?」
「でも、自分のパフォーマンスをチェックしたりはしないの?」
「客のリアクションでわかるからいいんだよ。客が乗れるようにするのが俺の仕事」
自分を見てほしいわけじゃない、と一喜は言った。
「だから、たぶん俺ってヴォーカルよりもDJとかの方が向いてるのかもな」
「ああ、なるほど」
「舞台装置としての音楽?」
「なんかわかった気する」
それでも、小冊子は作るのである。
「勘弁してくれよ」
一喜は悲鳴を上げた。
「いいじゃん、歌詞とかみんなにちゃんと伝わるんだし」
「歌詞はいいよ。写真だよ」
「ステージの?」
「いや、プライベートの」
「プライベートの?写真載せるの?」
「載せたいらしいぜ、笙子さんはよ。琢磨もノリノリだしな」
「宣伝でしょ宣伝。難しく考えることないじゃん。CD売れるし、チケットも売れるし、そうなったら大きなとこでもやれるじゃん」
「別に大きいとこでやりたいとも思ってねえし」
「思わなくちゃ」
「……うん。たぶんな。俺がおかしいんだ」
少し上の空で一喜が言って、夏生はなんだか気がついた。
「生活、落ち着かないの?」
お母さん、とは聞けなかった。
「そうだね」
一喜は否定しなかった。今は他のことはあまり考えられないと低い声で言った。
夏生は少し困ってしまう。おそらく現実のことで手いっぱいだろう一喜に今以上のことをさせるのはしのびなかった。
が、笙子はそれでは納得しなかった。
「みんなで決めたことなのよ?」
小冊子の作成を少し遅らせたらどうか、と提案した夏生に彼女は驚いたようにそう言った。
「みんなって、」
と夏生。
「メンバーのみんな?」
「メンバーもスタッフもよ。みんなで話し合って、違う方向の活動もしようってことになったの」
スタッフも?
夏生はひっかかる。自分もスタッフのはずだが、そんな話し合いをしたとは聞いていない。
「一喜もその時は賛成したんだから、今さら忙しいと言われても困るの」
「いや、一喜が忙しいって言ったんじゃなくて……なんか見てて余裕なさそうだったからさ」
「夏生の気持ちもわかるわよ」
笙子は少し理解を見せた。
「一喜がお母さんの病気で手いっぱいなのもわかるの。ただ、一喜にも気晴らしになると思うの。ずっと看病ばっかりしててもよくないわよ」
「まあ、それはそうだね……」
「でしょ」
とにかく小冊子は今月中に完成させて各店舗に配布するのだ、と笙子は意気軒昂に電話口で宣言した。
今月中?
夏生はまたひっかかる。
今月中に配布するのだ、も何も作るのは夏生である。そして一喜だ。
「写真とか載せるんでしょ?写真はいつ渡してくれるの?」
「え?夏生が撮るんじゃないの?」
「はあ?」
さすがにこれには夏生もぷつんと切れた。
「ちょっと待ってよ、笙子、あんた、私に小冊子について何の相談もしてないじゃん」
「あれ、そうだっけ?」
さすがに気まずそうに笙子が声を落とした。
「そうだっけ、じゃないよ、」
夏生は今まで抑えていた理不尽な思いが噴き出す。
「小冊子作るって話も一言もなかったじゃんっ、いきなり今月中、しかもレイアウトだけじゃなく、写真も原稿もって言われてもできるわけないじゃん!メンバーのコメントだっていつ取るのよ。セッティングしてくれるわけ?今月中に?」
笙子は少し黙ったが、さすがに悪かったと思ったのか、
「あーごめん、夏生ぬきに話進めたのは悪かったと思うよ。ほら、夏生、何でも賛成してくれるからさ、ついやってくれるって思っちゃったっていうか、」
「やれることとやれないこととあるわよ、」
「そうだよね」
笙子は筋が通っている話の飲み込みは早い。この時も自分の非をあっさり認めた。
「わかった、今月中にメンバーのコメントは取っておくよ。レイアウトは一喜がやるから、夏生、パソコン持ってるじゃん?それで取りこんで仕上げてくれないかな?」
「……写真は?」
「それもコメントもらった時に撮って一喜に渡すから」
そう言われて渋々夏生は引き受けた。
しかし、それでもなんだか釈然としなかった。
笙子がスケジュール調整で忙しいのはわかる。でも、頻繁にメンバーとも顔を合わせているのだ。最初からコメントや写真は撮って渡すというのが筋じゃないだろうか。
そもそも笙子は最初こそ一喜の連絡先を教えてくれたが、その後、他のメンバーの連絡先を教えてくれることはなかった。夏生も必要がないからだろうと思っていたが、取材や写真撮りまで夏生にやらせるつもりなら、話は別である。連絡先がわからない以上、写真撮りをやるにしても、すべて笙子経由になる。だったら、笙子がした方が早いに違いなかった。
それに違う方向の活動もしようとみんなで決めたといっても、作業をするのはみんなではない。ましてや笙子でもない、一喜なのである。
何考えてるんだろう?
夏生はなんだかわからなくなった。
笙子のことは嫌いではない。竹を割ったような性格で、二つ年上だが年上ぶったところもない。夏生がタメ口をきいても気にしない大らかさもある。そういうところが付き合いやすかった。
ふと一喜が笙子を嫌っていることを思い出す。
和司の彼女なのに一喜を誘ってきたこと。一喜言うところの一夜限りの恋人候補だろうと彼は勘ぐったが、もしかしたら彼女が本気で一喜を好きなのだとしたら。
ふられた仕返し?
でも。
とまた思う。
笙子が一喜を好きだなんて感じたことは一度もなかった。
私、鈍感なのかな。
夏生は憂鬱だった。
「あの、糞女、」
と夏生の家の縁側で一喜が吐き捨てるように言ったのはそれから二週間後のことだった。
「はいはい、言葉汚い、私の前で笙子の悪口言わない」
夏生は慣れていて、渡されたレイアウトを眺めながら、そうリアクションした。
「ああ、汚い言葉使っちゃって、どうもすみません」
一喜も慣れた調子で、妙なイントネーションでそう言った。
「今度は何があったの?」
と夏生が聞く。
「別に」
「言えよ」
「お嬢さん、言葉汚いよ」
「ああ、汚い言葉使っちゃって、どうもすみません」
「可愛くねー」
「だから、何?」
「夏生さんの言う通り、大したことじゃないんだ」
「聞くよ」
「歌詞変えろって」
「え?」
「『電子レンジより愛をこめて』」
「ああ」
琢磨と喧嘩になった歌である。
「琢磨、まだ反対してるの?」
「わかんね」
琢磨が口に出して反対だと言っているわけではなかった。
「笙子が言うの?」
「琢磨が嫌がってるから変えろって、笙子だけがうるさく吠えてくる」
とうとう笙子から”さん”づけがなくなった。相当頭にきているに違いなかった。
でも、夏生にはよくわからない。
恐る恐る聞いてみる。
「やっぱり歌詞って変えたくないもの?」
一喜は目をあげた。
「楽曲は変えたくないよ。できればね」
一喜の目はまた落ちて、
「完成度が低いっていうのなら俺は変えるよ。納得のいく推敲されたら俺は抵抗しないと思う。でも、テーマがニュースネタだからって理由、おかしくね?俺ら、自分の住んでる現実歌わないで何歌うの?夢とか愛とか歌っとけば無難っていう考え方、俺は理解できない」
「……なるほどね」
夏生はそう言うしか思いつかなかった。
一喜の熱い思いはわかるし、こだわる気持ちもわかったが、ニュースネタにどん引きする琢磨や笙子の気持ちの方が夏生自身、近かった。
「私、一喜、理解できてないのかな?」
「え?」
「や、なんか、変えろっていうのわかる気する」
「……そうか」
「現実の暗い部分、見るの勇気がいるよ」
一喜は何も言わなかった。ただ瞬きもせず、じっと夏生の顔を見ていた。じっと見ることで理解しようとしているかのように一喜は目線をそらさない。その目線の強さに押されて、夏生はつい目を伏せる。
「現実と向き合うのは怖いんだと思う。だから、きっと歌の中には夢や希望を探しちゃうんじゃないのかな?」
「ライブハウスに来る奴ら、みんなそう?」
「……たぶん。わかんないけど」
「一時的に現実忘れて、で、何か変わるの?」
「……気分?」
「気分か。そりゃ大事だな」
一喜の声が笑って、夏生は目を上げる。一喜の目元が笑っていた。でも、なんだかそれは切なくて、痛々しくて、夏生は急いでまた目を伏せた。
「ごめん」
と夏生。
「なんで謝るの」
と一喜。
「いいんだよ。俺、現実が楽じゃないのは知ってるからさ」
「……うん」
一喜の言葉が胸に刺さる。
「夏生さんはちゃんと俺に本当のことを話してくれるじゃんか。勇気いるよそれも」
夏生は目を上げる。今度は一喜が目を伏せていた。
「反対意見もちゃんと言ってくれるしさ」
いい奴だな、と夏生は思った。今、辛い現実と向き合っているのは一喜のはずで、それでも彼は夏生を気遣ってくれている。
「俺はさ、」
と一喜が目を伏せたまま言った。
「賛成意見がほしいとは思ってなくてさ。違う意見ならそれでいいんだよ。俺も違う意見を尊重するから、俺の意見も理解してほしいだけ。俺が理解されにくいのは知ってるけど、理解が難しいからって見ようともせずに頭ごなしに否定されるのは嫌だな」
「一喜が理解しにくいとは思わないよ」
「そう?」
「うん……ただ勇気がいる」
「そうかもな」
「一喜は強いね」
「そんなことないと思うけどな……でも、親に殺される子供のこと考えたらたまんなくね?それを言いたいだけなんだけど、みんな見たくないんだろうね」
「怖いんだよ」
「そうか……俺は強いんじゃない。怖い現実に慣れてるだけなんだろう」
「え」
「俺、きっと怖いって感覚が麻痺してんだよ」
「……どうして?」
「わかんね」
そう言った一喜の声は、でも、優しくて穏やかだった。
秋の日暮は釣瓶落としである。
あっという間に日が暮れて、
「今日も徹夜で作ってく?」
と夏生は聞いてみる。一喜が持ってきたメンバーコメントと写真で小冊子作りをしていくか、と聞いたのだが、一喜は笑って、
「いや、今日は帰るわ」
と笑いながら言った。
「明日バイト?」
「うん」
「そっか。じゃあ、写真取りこんどく」
「悪いな」
「いいって」
じゃあ、と一喜は子供のような笑顔を浮かべると、チャリを漕いで帰っていった。
小冊子にはライブごとのセットリストを載せ、歌詞を載せる予定だったが、結局、これは中止になった。
一度披露してしまった「電子レンジより愛をこめて」を載せざるを得なくなるからである。
インディーズバンドなのだから、そこまで神経質になる必要はないのではないか、と夏生は思っていたが、喧嘩の原因となった歌を改めて取り上げたくないのがメンバーの本音だったのだろう。
リーダーの和司はその豪快な風貌に似ず、事なかれ主義のところがあったように思う。だから、問題と向き合うことはせずに、流したかったのだろう。もめた張本人である琢磨と一喜は、お互い頑固なところがある。この問題に向き合おうとすれば、考え方以前に意地を張り合うことは十分にあり得たし、それを避けたかったのかもしれない。
小冊子にはアトランダムに歌詞を載せていくことになった。
歌詞の作成秘話的なものを載せたらどうか、と笙子は提案していたが、一喜がそれを断ったと聞いた。そんな雑音を遠くに聞きながら、夏生は渡された原稿を紙面に仕上げていく作業に明け暮れていた。
現実と向き合うことは大事かもしれない、と夏生は作業しながら、一喜の話を思い出していた。
でも、なぜだろう。それはひどく陰鬱で気が滅入ることのような気がした。なぜだか自分でもわからないが、ニュースネタを取り上げた歌を聴いて、殺された子供達の状況を想像させられることにはひどく抵抗があったし、暗いと批判した琢磨や、歌詞を変えろと言って譲らない笙子の気持ちの方がやはりよくわかるのだった。
自分が現実と向き合いたくない理由は何だろう。
両親が離婚したのは物心つくかつかないかの頃だった。だから、夏生は朧げながらに父親の顔を覚えているし、父親が生活からいなくなった時のことを漠然と記憶もしていた。
でも、現実と向き合うことにためらいのない一喜も両親は離婚しているはずで、それはあまり関係ないような気もした。
考えてみれば、日常は同じことの繰り返しで、事件なんか起きたりはしない。
朝起きたら制服に着替えて学校へ行き、同じ顔ぶれと会い、同じ先生の授業を受ける。時間が経てば下校時間になり、朝と同じ道を通って帰宅する。家に帰れば祖父母か、時には母が夕飯の支度をしていて、手伝ったり手伝わなかったりしながらテレビを見て、宿題を終えたら寝ることの繰り返し。
時々同じことが十年も二十年も続くような気がすることもある。
その繰り返しの中で息苦しさを感じるのも事実で、だから、ライブハウスに行くのはそうした閉塞感に風穴を開ける機会ともなっている。
夏生の日常では人が死ぬことも、大怪我をすることもない。それらはみなテレビの中での出来事で、ニュースではアナウンサーが猟奇殺人や壮絶なテロ事件の詳細を読み上げては、怖いね、と家族の話題になるだけのことである。それらはすべてテレビの向こう側の世界。つまり、バーチャル世界な出来事のようである。
怖いねと家族で談笑する時には、それが我が身に起きなくてよかったという安心を感じているのかもしれなくて、だから、それらをテレビのこちら側に引っ張り込むような行為を嫌ってしまうのかもしれなかった。
一喜が歌で現実を歌うことはまさにそういうことなのだろうと思った。
現実を歌われると、その壮絶な事件や殺人は自分と同じ世界に来てしまう。
だから、怖い。
テレビの向こう側でよかった、他人事でよかった、だから安心という思い込みを打ち壊してしまう歌。
それはいいことなのか悪いことなのか。
でも。
不安は本当に常に向こうの世界なのだろうか。
テレビを通しているだけで違う世界だと錯覚しているだけなのではないだろうか。
実はあちらとこちらは繋がっていて、ただそれに気づかないだけなのかもしれなくて。
確かに。
母子家庭の自分が可哀想に見える人も世間にはいるだろう。
そういう人間だって、可哀想、気の毒、というターゲットが自分であることだってあり得るはずだった。
でも、夏生は自分を可哀想な境遇だと思ったことはない。
母親だって我が子を憐れんだことはなかったし、祖父母もいて、夏生にとってそれは普通の家庭だった。
それなら父親は?
あれ。
夏生は思った。
朧げに思い出せる父親の顔。父親がいなくなった時の記憶。
なぜ父親はいなくなったのだろう。
自己肯定感の低い自分。
その理由を夏生はこの時、気づいてしまった。
たぶん自分から電話をしたのはこの時が最初だったろう。
五回コールが鳴ってから、
「……はい」
携帯電話から寝惚けた声が聞こえた。眠っていたに違いなかった。日付けはもう変わっている。
「夏生さん?」
いつものさん付け。
いつもの声。一喜の声。
忙しいのに邪魔していいわけない。それはわかっていた。
「夏生さん?」
一喜がもう一度名前を呼んだ。
「……あ、ごめん、」
夏生は何を言っていいかわからなかった。
「……どうしたの?」
夏生の様子に一喜は気づいたのだろう。慎重そうにそう聞いた。
「いや、……たぶん……だいじょぶ」
「なに?聞くから」
「いや、……迷惑だよね、ごめん、」
「まだ寝てなかったから大丈夫だよ」
嘘だ。
少しの間、沈黙が流れる。
「天使が通った?」
一喜がおどけて言って夏生はやっと笑う。同時に気も緩んで涙腺も緩んだ。涙腺が緩むとよけいに言葉は出なくなった。
またしばしの沈黙。
「あのさ、」
明るい声で言ったのは一喜だった。
「夏生さんちの帰り道にさ、月が出ててさ。今日、満月なのな」
どうでもいい話である。だが、一喜は話し続ける。
「満月ってすげえ明るいの知ってる?いつか影踏みしようぜ、満月の夜にさ」
「影踏み?」
「うん」
「月夜に?」
「うん」
「そだね……」
少し長い沈黙があった。
「……あのさ、」
夏生はやっと喋られるようになる。
「うん、」
と一喜が柔らかく言った。
「どした?」
「……一喜は親が別れたこと気にしたことないの?」
「俺んち、物心ついた頃にはもう母子家庭だったんだ。だから父親の記憶もないし」
「そうか」
「うん。だから父親いないの当たり前だったからさ、気にしたことはないよ」
「そうか」
「夏生さんちは違うんだ」
「いや、一緒だと思うんだけど……私、なんか母親に甘えられなくてさ」
「そうか」
「なんでかよくわからなかったんだけど、なんか、わかってしまった……私、自分への評価が低い」
「評価」
一喜は聞き返すでもなく、小さな声で繰り返す。
「子はかすがい、って言うじゃん」
と夏生は続ける。
「古い言葉知ってるね」
「私、かすがいにならなかったんだなって、親って我が子が可愛いから離婚しないんじゃん?でも、私はかすがいにならなかったんだなって、」
「そうじゃねえだろ」
「……そうだけど、頭ではわかってるんだけど、でも、だから、ずっと自分のこと肯定できなかったんだって、なんか、……気づいてしまった」
母親と距離を置くのもきっとそのせい、友達と距離を置いているのも、冷静だからじゃない、他人と近しい関係になる価値を自分に感じていないからだ。自分を他人と同じ土俵に上げることは考えつかない。他人と違う自分。価値ある他人は遠い存在。なぜなら自分に価値を感じないからだ。
「かすがいなんてさ、幻想だよ」
一喜が言った。
「わかってる」
「別れない夫婦は子供がいてもいなくても別れないんだよ。別れる夫婦は子供がいてもいなくても別れるんだよ」
「わかってる」
「別れた方が子供のためになる場合だってあるんだよ」
「わかってる」
夏生だってわかっている。頭ではわかっている。でも、どうしようもない自己肯定感の低さが自分の中にあるのはどうしようもない事実だった。それが間違いだと自分でもわかる。わかるが、どうしようもなく、その考えに囚われている。物心ついてからずっと持ち続けてきた価値観はそう簡単には手放せない。
「なんか、自分がゴミみたいに感じる、」
「誰がそんなこと言ったんだよ」
「誰も言わないけど、自分でそう感じる」
「ゴミなんかじゃないから」
「わかってる」
わかってるわかってるわかってる。頭ではわかってる。
でも、自分を蔑む感情が絡みついて離れない。
蔑んで蔑んで、やっと安心するアイデンティティ。
自分はゴミだ、存在価値なんてないんだ、そう思って初めて安心する。
それはまるで精神的な自傷行為だった。傷つくことでしか感じることのできない生きていることの実感。
また涙腺が緩む。言葉が出ない。
「ごめん」
ようやくそれだけ言った。
「携帯切るなよ」
と一喜が言った。
「いや、……でももう遅いし、」
「あんたは俺に一晩潰させるだけの価値があるんだから携帯切るな」
涙が溢れた。
「一晩徹夜したくらいどうってないからさ」
「……うん」
「切るなよ」
「うん」
「何も話さなくていいから」
「……うん」
一喜もそれからは何も言わなかった。
きっと夏生の嗚咽は聞こえていただろう。
でも、一喜は何も言わずにただ携帯だけが繋がっていた。
「ありがと」
涙が溢れる下、ようやくそう呟いたが、聞こえなかったのか、返事はなかった。息遣いだけが聞こえる。繋がっていることで妙に夏生は安心した。
そのまま夏生は眠ってしまったようだった。
気がついた時には、手に握りしめていた携帯は充電切れで電源が切れてしまっていた。
夏生は慌ててアダプタに繋いだが、それで電話が復活するわけではなかった。
空は白んでいて小鳥が鳴いている。
時計を見ると、五時半である。
電話をかけなおしていい時間とはとてもじゃないが、思えなかった。
携帯の電源を入れると受信メールが一通届いている。
おはよう!よく眠れたか?
とだけ書かれていた。
当然送り主は一喜だった。
有難う。ごめん。
とだけ書いて夏生は返信する。
それから三日間、夏生は携帯の電源を入れることができなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらい恥ずかしかったのである。
そして四日後、当然のことではあるが、一喜はチャリに乗って夕暮れ時にやってきたのだった。
「わからんでもないけどさ、」
夕暮れ時、中庭を覗く塀の向こうから一喜は背伸びして顔を覗かせると、
「電源くらいは入れておこうぜ。心配するだろ」
と困ったように言った。
「ちょっと、そんなとこから覗いたら不審者みたいだよ!」
夏生はびっくりしたが、
「だって、玄関のチャイム鳴らしたら、居留守使いそうな勢いじゃん」
と一喜はおどけたように笑って言って、夏生は顔から火が出そうだった。
「しないわよ、そんなこと」
と言うのが精一杯だった。
「元気そうだな」
と一喜は笑うと、
「じゃあ、明日また来るわ」
「え、原稿取りに来たんじゃないの?」
「通りがかっただけ。またな」
とだけ言うと、彼はそのままチャリを漕いでいなくなってしまった。
明日、と言われて、夏生はその日の晩、手つかずだった小冊子の原稿に久々に取り組んだ。
考えてみれば、と思う。
甘えられなかった自分、自己肯定できない自分は確かに気持ちのいいものじゃなかったが、だからこそ、気づいたこともあったんじゃないだろうか。
他人と距離を置く性格じゃなかったら、学校も学年も違う笙子達と知り合うこともなかったろうし、ライブハウスに足を運ぶこともなかったろう。学校との往復に満足して、違う世界があることを知らずに生きていたかもしれない。
人と違ったからこそ気づいたことはたくさんあったのだ。
人の日常の感覚からすぽっと落ちた穴の中で、夏生はたくさんのことと出会った。
その穴に落ちなかったら、きっと一喜と出会うこともなかったろうし、いろんなことを話すこともなかっただろう。
自己肯定できる自分はきっと生きるのは楽だっただろうけれど、得られなかったものもあったに違いなかった。
満たされていることだけが幸せじゃないんだな。
満たされていないこともあったけれど、そのおかげで大事なものを手に入れることができたんじゃないだろうか。
そう思った時、改めて自分の生きてきた過去を夏生は肯定できるような気がした。
翌日。
原稿を取りにきた一喜は笑顔で、
「よしよし」
と言ったが、深夜の電話のことには一言も触れなかった。
夏生も照れ臭くて、改めて言うつもりだったお礼も言えないままで、ただ、
「なんか肯定できそう」
と絞り出すように言うのがやっとだった。
「よしよし」
と一喜はまた言って、
「全部肯定したらいいんだよ。正しいって肯定するんじゃないよ?存在を肯定するんだよ」
「存在を肯定?」
「うん。過去にあったものは変えられないじゃん。だから、過去にあったって事実は肯定するんだよ。肯定して、使い倒せばいいんだよ」
「過去を使い倒せってこと?」
「そう。現実を使い倒せばいい。現実はさ、楽じゃないけど、こんなに綺麗で、俺らの目の前にぱっくりと口を空けて待ってるじゃないか」
「何それ」
「そういう歌詞を書こうかなって」
「そうなんだ」
二人はお互い照れ臭くて、話は有耶無耶になってしまったけれど、夏生には一喜の言いたいことはなんだかとてもよくわかって、それもまた、満たされなかったからこその僥倖のように思えたのだった。
現実はこんなに綺麗で俺らの目の前にぱっくりと口を空けて待ってるじゃないか。
現実とは過去で、過去はどんな過去であれ、存在しているのなら、その存在を肯定して使い倒せばいい。使える過去は満たされた過去ばかりじゃなくて、満たされなかった過去も、辛かった過去も、楽しくなかった過去も、みんな使えるのだろう。
満たされなかった過去の使い道もあるわけで、満たされているばかりだと、得られないものもあるはずだった。
だったら満たされなかったからこそラッキーということもあるんだ、と夏生は思った。
「現実って綺麗だと思う?」
夏生は聞いてみる。
「綺麗なんじゃね?」
と一喜は迷いがない。
「綺麗だと思えば綺麗なんだよ。綺麗かどうかなんてのは評価でさ、最初からあるもんじゃないから、綺麗だって強引でも評価しちゃえば、綺麗に見えてくるってこともあるからな」
「何かそれずるくない?」
「そうか?」
と言って、一喜は気持ちよさそうに笑った。
ここはなんだか居心地がいい。
夏生は思う。
この居心地のよさがきっと自分の過去の報酬なのかもしれなかった。
辛かったからこそ出会えた人がいて、辛かったからこそ解り合える仲間がいる。
それはそれで幸せと言えるのかもしれなかった。
「制作秘話は書かないの?」
プリントアウトした小冊子の原稿を並べながら夏生が聞く。
「書かないよ。楽屋話なんて内輪受けで気持ち悪いよ」
「ファンは知りたいと思うけどな」
「下世話な好奇心で勝負したくないんだよ」
「言いますね」
「うん。表現者でいたいからな」
珍しく一喜は呆けずに真面目に言った。
「ああ、ごめん」
と夏生はすぐに謝った。
「なんで?」
「いや、茶化したから」
「素直だなあ」
と一喜が笑う。
「でも、前に鑑賞者でいたいって言ったよね?」
「言ったよ。鑑賞者で表現者。最強じゃん」
「なるほど」
真顔で夏生が納得して、一喜が笑う。
「歌詞の意味とかは?」
「意味わかんない歌詞とかないだろ?」
「ハンガーがわかんない」
「ハンガー?」
「armsの」
「ああ。”馬鹿なハンガー”」
「そうそう」
「洋服掛けって意味。ファッションってこと」
「洋服掛けるからハンガー?」
「うん。ファッションだけで中身ないってこと。ジョン・ライドンのパクリだよ」
「またパクリ?」
「そう」
けろりと白状して一喜はまた声を立てて笑った。
「じゃあ、黄昏時に飛び立つフクロウっていうのは?」
「ヘーゲルの言葉だよ」
「ヘーゲル?」
「哲学者の。そういう有名な言葉があるって知って、これは使えそうだなと」
「哲学の本読んだわけじゃないんだ?」
「ヘーゲルが俺にわかるかよ」
「じゃあ、てお、てお、」
「テオドール・アドルノ。こっちも学者だよ。アウシュビッツ以降、詩を書くのは野蛮だって言った人」
「ちゃんと本物なんだ?」
「偽物だったら誰も理解できないって」
「いや、本物でも私は理解できないよ?」
「馬鹿な女見るのって楽しいね」
「自分だって読んでないくせに!」
「うん。俺、馬鹿だもん。馬鹿同士仲良くしようぜ」
あははははは、と一喜は声を立てて笑った。今日は一喜の軽口は絶好調だった。
「今さ、メリーさんの歌作ってんの」
と一喜は笑いながら言った。
「メリーさん?」
「都市伝説の」
「あなたの後ろにいるの、の?」
「そうそう」
「それで歌詞ができるの?」
「ギャグだね」
「ギャグやるの?レディシュリンプが?」
「うん」
面白そうに一喜はうなずいて、次のギグでその歌は披露されたのだった。
黄昏時の雑踏で
強いライトに照らされて
今宵もピンナップガールの時間
人の形はしてるけど
心はどっかに忘れたな
Replicant is vacant
Replicant is vacant
Replicant is vacant
Replicant is vacant
滾る欲望 波打つ鼓動
名前も忘れた おつむはからっぽ
すかすか体は操り人形
俺達ゃみんなreplicants
どっかの誰かの操り人形
どっかの誰かの言いなりの
可愛い可愛いお人形
(私 メリーさんよ)
(もうすぐあなたのところへ行くわ)
逢魔が時の交差点
昏い欲望 交差する
今宵もピンナップボーイの時間
人の形はしてるけど
心はどっかに忘れたよ
Replicant is vacant
Replicant is vacant
Replicant is vacant
Replicant is vacant
滾る欲情 乱れる呼吸
心も忘れた からだはからっぽ
すかすか笑顔の操り人形
俺達ゃみんなreplicants
どっかの誰かの操り人形
どっかの誰かの言いなりの
可愛い可愛いお人形
(私 メリーさんよ)
(今あなたの後ろにいるの)
(今あなたの後ろにいるの)
(今あなたの後ろにいるの)
「相変わらず気持ち悪い歌書くわね」
苦々しげにそう言ったのは笙子だった。
どうも笙子と一喜は相性があまりよくないようで、それは日に日に明らかになっていくように夏生は感じていた。
もっとも和司が二人の仲介役をしてくれている限り、険悪な仲になることはないだろうと楽観もしている。笙子も自分をセーブできる性格だったし、何よりも一喜の才能は認めていたからである。
「一喜がいないとバンドが成り立たないんだけどね」
とも言って、笙子の趣味には合わなくても、今の路線でレディシュリンプが人気があることは笙子も認めるところだった。
小冊子は一週間前にCDショップなどに配布することができた。
そのおかげで直前になってチケットが急に売れたらしい。思った以上の反響に夏生は満足だった。
「一喜が声を潰して歌うから歌詞がわかりにくいって意見があったんだけど、小冊子に載せたことで興味を持ってくれた人が増えたみたいね」
と笙子はCDショップでの店員からそう聞いたと説明した。
「歌詞に興味持ってくれる人もいるんだね」
と夏生。
「残念ながらそうみたいね。私はもっと明るいのがいいけどさ」
と笙子が悔しそうに言って、夏生は笑った。
「もっと甘い歌があってもいいと思うんだけど」
と笙子。
「ラブソングみたいな?」
「うん。でも書かないよねあの子」
ラブソングか。
書かないって言ってたな。
「そのギャップが受けるんだろうけど」
笙子は笙子でわかってはいるようだった。
あの子が好きってそれは嘘だよ
その子が好きってそれも嘘だし
言うのは簡単 詐欺師のロンド
言うのは簡単 記号の乖離
誰も疑ったりしない 音が響くだけなのに
誰も疑ったりしない 何を信じられるのか
甘やかな笑顔 耳元で囁き
甘やかな空気 胸震わせる
伝わる気持ち それは錯覚
伝わる鼓動 それは真実
夢見る乙女は いつも無防備
信じる明日だけ 来ればいい
楽して幸せ つかみたいから
あっさり信じる 詐欺師の企み
あの子が好きってそれは嘘だよ
その子が好きってそれも嘘だし
信じる乙女 詐欺師のロンド
信じる言葉 記号の乖離
誰も疑ったりしない 意味はとうに廃れてる
誰も疑ったりしない 言葉だけの持つ魔法
甘やかな笑顔 お前が大嫌い
甘やかな空気 ただの錯覚
伝わる気持ち そんなわけねえ
伝わる鼓動 でも信じたい
あの子が好きってそれは嘘だよ
その子が好きってそれも嘘だし
言うのは簡単 詐欺師のロンド
言うのは簡単 記号の乖離
「ホント可愛くないと思わない?」
と笙子が苦々しげに言う。
「あの子が好き、って歌いだしでラブソング来た、って思っちゃった!」
と美香が叫んで、夏生はおかしい。
「珍しく歌詞わかりやすく歌ったよね」
「わざとよ。ラブソングだと期待させて落とすという」
「いやいや、そこまでは」
と否定しつつ、一喜だったらやるかもしれない、と夏生も思わないでもなかった。
「笙子は事前に新曲はチェックしたりしないの?」
「私はスケジュール調整するだけよ。何をやるかセトリはメンバーに任せてる」
「そうなんだ」
「一喜が新曲はメンバー以外に見せたがらないっていうのもあるけどね」
とやかく言われるのが嫌なのだろう、と夏生にも察しがついた。
夏休みが終わっても、ステージの最前列には子供のようなファンがたむろして、メンバーの名前を絶叫しつつ、踊り狂っていた。固定ファンがついてきたのだろう。それはそれでいいことに違いなかった。
秋から冬にかけて、レディシュリンプは日替わりのようにライブを行い、人気も安定していった。
小冊子も発行回数は増えていったが、秋以降、新曲があまり発表されず、歌詞が載らない時のネタに窮するようになっていた。
「ネタがない」
と夏生が愚痴ると、
「ホントだねえ」
と一喜がのんびりとうなずいた。
「ちょっと、なんでそんなに呑気なのよ」
と夏生が聞き咎める。
夏生の家の居間。
小冊子の打ち合わせで、今日も一喜は夏生の家に来ている。居間の大きな応接台の上でチケットのデザインを鉛筆で描きながら、
「えー呑気じゃないよ」
と一喜はやはり呑気としか思えないのんびりとした口調で言った。
「でも、何も思いつかねえんだもん。他に言うことないじゃん」
「そりゃそうだけど」
「焦ったふりしたって嘘くせえだけじゃん」
「そうだけどっ!」
「何かないかねえ」
「……メンバーの趣味とかは?」
「前にやったじゃん」
「いや、だから、マイフェイバリットっていうの?」
「好きな本とか曲とかってこと?」
「そう」
「俺、別にないけどなあ」
「PIL好きじゃん」
「いや、それは言いたくない」
「なんで?」
「パクってんのばれる」
「はあ?」
「歌のネタばらしてるようで嫌だよ」
「じゃあ、食べ物でいいよ」
「えええ、アフタヌーンティーとか書くのってどうなの」
「……やっぱりアフタヌーンティー好きなんだ……」
「キッシュとスコーンが好きなんだよ」
「だったら、バラで食べてもよくない?」
「スタンドに乗ってるから楽しいんじゃないか」
「……お子様ランチか」
「まあ、でも俺のイメージじゃないよなあ」
「アフタヌーンティー好きなパンクって見たことないよ」
「でもどうなんだろうね。そういうイメージって操作するもん?」
「どういうこと?」
「いや、だからさ、小冊子なんかで紹介した部分が俺らのイメージとして定着していくわけじゃん?だったら、それって俺らが見せたいイメージの露出でしかないなあと思ってさ。俺ら自身かっていうと違うよな」
「ごめん、何言ってんのか全然わかんない」
一喜は、あはは、と笑うと、
「馬鹿な女見るのって楽しいね」
といつもの憎まれ口を叩いて、夏生に定規で叩かれたのだった。
「もうライブ情報と歌詞だけでよくね?」
と叩かれた頭をなでながら一喜が言う。
「歌詞がないから埋まらないんじゃん」
「新曲書いてないからな」
「適当になんか作ってよ」
「無理無理。適当って何だよ、なんか忙しくてさ、忙しい時に作るとなんか暗いのばっかりになるんだよ」
「……いつも暗いと思うけど」
「いや、だからさ、安易な暗さだよ。この世の終わりだとか、救いなんてねえ、みたいな暗さになるってこと。そんなん陳腐で面白くもなんともないだろ」
暗さの違いが夏生には今一つわからなかったが、一喜にはこだわりがあるのだろう。
「アイロニカルな暗さにしておきたいんだよ。絶望じゃなくアイロニー」
と重ねて彼は言ったが、やっぱり夏生にはわからなかった。
「そういや、ライブの回数増えてるんだからさ、」
と一喜は小冊子のネタを思いついたようだった。
「ライブ情報を詳しく載せてこうぜ。そしたらページ数埋まるって」
「誰も読みたくないんじゃない?」
「馬鹿、ライブ来たい奴は読むって。ついでにセトリ全曲載せていけばいいよ。あ、そうだ、ファンの意見とかも聞いてみる?」
「ああ、それもいいかも。じゃあ、よろしく」
「なんで俺が聞くんだよ。夏生さん聞いてくれよ」
「私?ファンに感想聞くの?」
「俺、恥ずかしくて聞けねえもん」
「いやいやいや、私だって恥ずかしいって思わないの?」
「夏生さんならできるよ」
「その無責任な感想はどこから来るわけ?」
夏生は憤然と抗議したが、一喜はあははと笑っただけだった。
結局、夏生は一喜に押しつけられて、ライブ終了後、ファンに感想を聞くことになった。
次のライブは週末に行われた。
ファンの感想を載せるというアイデアは他のメンバーにも異論は出なかった。
夏生としては誰かが反対してくれた方が嬉しかったが、笙子でさえ、それはいい、と賛成してくれたのだった。
「俺らもリアクション聞いたら夏生ちゃんに教えるし」
と琢磨は言ってくれたし、和司も、
「仕事先のレコード店でも聞いてみるよ」
と言ってくれて、それは安心材料にもなった。
それでもライブ終了後、夏生もファンに直接話を聞く必要はある。
「私も一緒に行くから」
と笙子と美香も言ってくれたのは何より心強かった。
その日のライブも週末だったおかげで、ライブハウスは満員だった。
「あの子達に聞いてみる?」
と笙子が指差したのは最前列に陣取って踊りまくっていた中学生に見える子供たちだった。
「ねえねえ、」
と実際に声をかけたのは美香で、興奮冷めやらずに大声で話していた子供たちは、一斉に沈黙すると不審そうにこちらを見た。
「私達さあ、レディシュリンプのスタッフなんだけど、ライブの感想聞かせてくれない?小冊子に載せたいの」
と言ったのは笙子で、夏生の出番はなかった。
「え、小冊子に載るの?」
童顔に異常なほど長いつけまつげをつけた短髪黒髪の女の子が目を輝かせて聞く。
「まだわかんないけど、載るかもしれないよ?」
と美香が言うと、子供たちはみな大騒ぎをしながら、口々に感想を言ってくれたが、みな一様に最高、すごくいい、と言うだけで、
「どういうところが好き?」
と聞き直しても、
「えええーよくわかんないけど、すっごくいい!」
と言うだけであまり意味はなかった。
「子供に気の利いたコメント期待しても無理か」
と子供たちから離れて笙子がぼそっと呟いた。
「何、感想集めてんの?」
と後ろから声がして振り返る。革ジャンを羽織った背の高い男だった。似たような格好の連れが後ろでにやにや笑っている。
「そうですけど……」
と美香が答えると、男はにやにや笑いながら、
「じゃあ、答えてやるよ。歌も演奏も下手くそで聞いてらんねえってメンバーに言っとけよ」
と吐き捨てるように言うと、連れが大声で笑った。
「姉ちゃん達もあんなのにくっついてないで、もっとましな男とつるみなよ」
「どうせメンバーの女なんだろ?あほらしい」
男達は口々に悪態をつくと、そのまま出ていってしまった。
「ばーかっ」
笙子は男達の背中に悪態をつくと中指突き立てた。
「人気が出るってことはあんなアホも来るってことだよね」
それはそれで憂鬱なことには違いなかったが、別に珍しい人種でもなかった。ライブハウスには自然と集まってくる自己顕示欲の強い輩である。
「目立ちたかったらさ、」
夏生はむかついて言う。
「自分でステージに上がればいいのよ」
「だね」
笙子が賛成してくれた。
「でもさ、」
と美香が言う。
「ファンってある意味、最強だよね」
「なんで?」
「だってファンってさ、アーティストが一生懸命作ったものに文句言ってりゃいいんだもん」
「ああ、なるほど」
笙子が笑った。
「まあ、そういう意味では最強だね」
ステージの向こう側とこちら側。
ファンとバンドの精神的距離は意外と遠いのかもしれない。
一跨ぎできるステージなのに。
その一跨ぎの距離が、作る側と受け取る側とを明確に分けてしまうのだ。
少なくとも夏生にはステージに立てる気はしなかった。
私は常に受け取る側だ。
それは自分でも知っている。
だから、レディシュリンプのメンバーはとっても遠く感じるのだ。
「何が遠いって?」
目の前で鉛筆を走らせている一喜が聞き返した。
「いや、だから、バンドのメンバーとスタッフとが、」
「遠いか?」
一喜は顔をあげると焦茶色の応接台の上に目を走らせて、
「夏生さんまで一メートルくらいだけど?」
目線の終着点は夏生の顔で、一喜は面白そうに笑った。
今晩も一喜は夏生の家でチケットのデザインを描いている。
「いや、ステージとファンの間は遠いなってことよ」
「精神的距離ってやつ?」
「そうそれ」
「だったら、ライブやってる意味なくね?」
「なんで?」
「ファンに盛り上がってほしくてライブやってんのにさ。一番近くにいるスタッフの夏生さんが身近に感じられないライブってどうよ?」
「そうかもしれないけど」
一喜は鉛筆を応接台の上に転がして、
「それはちょっと面白くないなあ」
と言った。夏生はちょっとびっくりして、
「なんか怒らせること言った?」
「いや、そうじゃなくて、てか、びびんなよ」
一喜は笑うと、
「距離縮めたいなって思ってさ」
「ああ」
「もっとわかりやすい歌も作るか」
「いや、気にしないでよ。ごめん、よけいなこと言って」
「素直な感想だろ」
「でも、だって、今の歌がファンに受けてるんだし」
「それもあるだろうけどね。なんかもっと煽りたいんだよ」
「お客を?」
「うん。今はある意味、なんだっけ?前に夏生さんが言ってた……」
「……ツンデレ?」
「そうそれ」
一喜は笑った。実をいえば、小冊子のメンバー紹介に夏生は一喜のことを”ツンデレパフォーマー”と書いたのである。一喜はそれを読んで大爆笑した。
「ツンデレだから、俺ら」
「いや、一喜だけだから。で、少しは媚びてみようってこと?」
「媚びねえよ。でも、もう少しフレンドリーでもいいかなとは思ったのさ」
「フレンドリーねえ」
「似合わねえ?」
「ちょっとイメージわかない」
「そっか」
と言うと一喜はまた笑った。笑うと頬に笑窪ができて、子供のような顔になる。
「オルゴールみたいなのもいいなあと思ってたんだ」
「オルゴール?」
「うん。綺麗な旋律の奴」
「あ、いいねえ。女の子はとっつきやすいかも」
「まあ、できるかどうかわかんないけど。他のメンバーがそんな旋律を受け入れてくれるかが問題だよな」
確かに、と夏生はおかしい。少なくともドラムの和司にはオルゴールは似合わないだろう。
「メンバーとファンの距離を近づけるためにも小冊子、頑張らなくちゃ」
と夏生がやる気を口にすると、
「いいよ。頑張らなくても」
一喜が水を差す。
「なんでよ」
「こないだ、怖い奴らに文句言われたんだろ?笙子が喚いてた」
「え、笙子、中指突き立ててたけど」
一喜は爆笑した。
「なんだよ、それ。全然怖がってねえじゃん」
「うん、よくいるから怖くないよ」
「いや、それでもやっぱ心配だしさ。俺、思ったんだけど、小冊子よりもサイト作った方がよくないか?」
「サイト?」
「うん。俺、パソコン持ってないから言い出しにくかったんだけどさ」
「え、レディシュリンプの公式サイトってこと?」
「うん。そうしたらネットでファンに感想投稿してもらえるじゃん」
「ああ、そっか」
「ただ、」
と一喜は言い淀んで、
「俺、パソコン持ってないからさ。更新、全部夏生さんになっちまうなと思って、言わなかったんだけど。つまんねえ奴に絡まれる心配はなくなるよな」
「更新はいいって。気にしなくても」
「そういうわけにはいかねえじゃん」
「私も楽しいからいいんだって。一喜、ホームページって作れる?」
「学校の授業でやったよ。てかさ、レンタルできるとこで借りたらいいじゃん。使いたい機能だけ借りたらいいんだよ。ホントは広告入らない有料サイトがいいんだろうけどさ、まだ突っ込めるだけの金ないし、無料でもいいじゃん?小冊子の印刷代も浮くし、悪くはないよな」
「なるほど」
夏生は俄然やる気が出てきた。
「テーマカラー決めた方がいいよね?」
「赤でよくね?」
「赤好きだよね」
「ぱっと目立つじゃん」
「赤だけ?」
「じゃあ、タータンチェックにしようぜ。レディシュリンプって名前自体がピストルズなんだからさ。やっぱイギリスだろ」
「タータンチェックってイギリスなの?」
「知らねえのかよ!」
突っ込まれつつ、サイトのイメージデザインは赤のタータンチェックに決まった。
「でも、俺、」
と一喜が言う。
「青の方が好きなんだけどね」
「あれ、そうなの?でも赤着てること多いよね?」
「ギグでは、だろ?ステージの自分と素の自分は分けておきたいからステージでは赤着ることの方が多い」
「素では着ない色なんだ」
「赤着てる男ってのがそういないと思うけどな」
と一喜が茶化して笑った。
普段とは違う自分を演出するというのはわかるような気がした。夏生にとってライブハウス通いがそれだろう。学校に通う自分とは違う自分がそこにはいる。夏生の場合、ライブハウスにいる自分の方が素に近い気がする。
「ステージの上はやっぱり演出してる自分なの?」
「うん。俺たぶん、本当は裏方の人間なんだよ」
「人前に立つタイプじゃないってこと?」
「人を演出することの方が好きなんだ。だから、ライブは客を演出するものにしたいね」
なるほど、と思ったが、でも、それは間違っているだろうという夏生には確信に近い思いがあった。一喜がどう願っても、彼はたぶん人目を集める存在なのだ。裏方にいてもきっと目立ってしまう。それは外見ではなく、纏う空気とでもいうべきものだろう。
だから、遠い。
夏生にはとても遠い存在だと改めて思った。
「公式サイトはいいアイデアだったね」
と笙子が喜んだのはそれから二週間後のことだった。
たった二週間で一喜はサイトを立ち上げてしまい、夏生はデータ更新と投稿チェックをすることになった。おかげで小冊子の打ち合わせをする必要はなくなり、一喜が夏生の家を訪れることも少なくなっていた。
「カウンタは今のところぼちぼち回ってる状態だけど」
と夏生が言うと、
「見た見た」
と美香が口を出した。
「綺麗なサイトだったよ。タータンチェックが可愛いの」
「あれって可愛いイメージなの?」
夏生は意外な反応にちょっとびっくりする。
「可愛いじゃん?基本白で、アクセントにタータンって」
「そうなんだ、黒の方がよかったのかな?」
「まあ、いいんじゃない?」
と笙子が言う。
「中坊のファン層もいるからさ。いきなりおどろおどろしくしなくても。ただでさえ曲は暗いんだからさ」
「またそれを言う」
どうも笙子は曲の暗さが気になるようだった。
「もっとすかっと明るい曲調にならないもんかな」
「こだわるね」
「単純なロックでもいいと思うんだよね」
だが、それは笙子の好みであって、バンドにそれを要求しても仕方がないだろうと夏生は思う。
ライブはそれから数回行われた。回を追うごとに客の入りもよくなっていて、サイトのカウンタも回転が次第に早くなっていくのは面白いほどだった。
投稿も次第に増えていったが、ほとんどが、よかった、や、かっこいい、といった一言コメントで、同じ名前の人間が繰り返し投稿している状態だった。固定ファンがついているということなのだろう。
ハンドルとは別に、非表示情報として名前と住所の登録は義務付けているが、本名なのかどうか判断できない。まるで芸名のような名前がやたら多いのは偽名だからなのか、若い世代の特徴なのだろうか。
「よし、性別と年代も書き込み義務にしよう」
とサイトをチェックしながら一喜が言った。
「ファン層把握するため?」
と夏生が聞く。
「うん。販売戦略考えられるじゃん」
「ファンに合った曲にするってこと?」
「歌は変えないよ。チケットとかグッズだよ」
「グッズなの?」
「正直、グッズかCDでもう少し儲け出したいんだよ。これ以上、持ち出ししたら俺、生活できねえからさ」
「自腹切ってるんだ?」
「CD制作やライブハウス借りる金はやっぱ今の売り上げだけじゃ賄えないからね。赤字分はメンバーの手出し。正直厳しいわ」
一喜は週に五日カラオケ店で働き、通信で高校の勉強をし、夕方からライブに参加している。ライブのない夜は病院に泊まり込んでいるはずだった。生活が厳しいのは十分に想像できる。
「ロゴマーク入りのグッズの問い合わせは来てるらしいんだよ。それを売るかだよな。ホントは音以外で客に金出させるのは嫌なんだけど」
「でも、ロゴマーク入りがほしいってことはデザインが認められてるってことじゃん?」
夏生は励ますようにつとめて明るく言った。
「まあ、そういやそうだね」
「デザインも表現の一つと思えばいいんじゃない?」
「なるほど。そう考えると悪くはないのか」
一喜はやっと笑った。夏生はその笑顔に励まされて、
「そうだよ。音だけで自己主張しているわけじゃないんだしさ、デザインでもレディシュリンプを主張できてるんなら、それは悪いことじゃないよ」
「俺、音に限定し過ぎてたかもな」
「もっと広く考えていいんじゃない?ステージングだってパフォーマンスだし、表現の一つだと思えば一緒じゃん」
「なるほどね」
一喜は明るい笑顔になる。
パソコンが電子音を鳴らして、新しい投稿が届いたことを告げた。夏生はクリックして新しい投稿をチェックする。
「何て?また一言投稿?」
「……いや、なんか」
「なに?」
一喜が夏生の横からパソコン画面を覗き込む。
スタッフと名乗ってる女達が超うざいんだけど、とメールには書かれていた。一喜の顔から笑顔が消える。
「こんなのよく来るの?」
「いや、初めてだよ」
「あーあもお、」
一喜は声をあげると、
「どうしようもなくうざいのっているよなあ」
溜息とともに吐き出した。
街路樹の銀杏が色づいて、黄色く降り注ぐ頃になっていた。
その日、夏生は早めにライブハウスへと出かけていった。
チケットのデザインを一喜に届けるためである。
この頃になるとチケット作りは夏生に任されていて、小冊子を作らなくなってからは一喜が夏生の家に来ることも少なくなっていた。
一喜は連絡をくれれば取りに行く、と言ってはいたが、夏生はできるだけライブの日までに仕上げてライブハウスで渡すようにしていた。
少しでも一喜の負担を減らしてやりたかったのである。
もっと早くにそうしてよかったのだが、猛暑の夏場はできるだけエアコンのある自宅に一喜を招きたかったのもあった。
でも、もう秋。
エアコンがなくても辛くはない季節だろう。
ライブハウスの前には既に十数人がたむろしていて、おそらく今夜のライブの客だろう。過激な格好をしたファンも最近は増えていて道端に集団でしゃがんでいる姿は威圧感がある。
もっともその中には夏生の顔見知りも結構いて、彼らが徐々に過激化する過程も知っているから、完成形を見ても驚くことは夏生にはない。
だから、すみません、通してください、と言いながら、関係者の通用口からライブハウスへと入った。
扉を開けると店員がいて、
「あ、一喜もう来てるよ」
と教えてくれた。が、
「カズキもう来てるって」
と夏生の後ろで黄色い声が上がった。入口に集まっていた女性客達に店員の声が聞こえたのだろう。彼女達は夏生の背中を無遠慮に押して通用口に詰めかけ、
「カズキもう来てるんですかぁ?」
と甲高い声で聞いた。店員は眉間にしわを寄せて、
「関係者以外は入らないでくれる?」
と注意する。長すぎるつけまつげを怪訝そうにしばたたかせて彼女は、
「ええー、ずるい、じゃあ、この子は?関係者なの?」
と露骨に夏生の目の先に人差し指を突き出した。夏生はむっとして、
「関係者です」
と言ったが、えー、と不満の声が返っただけで、立ち塞がった扉の前をどいてくれそうにない。店員は立ちあがって、
「そこ通してやってくれる?ライブできないと困るでしょ?」
と言ってくれた。長身の店員に恐れをなしたのか、それともライブできないと困ると納得したのか、彼女達はあっさり道を開けた。
「有難う、アキさん」
礼を言って夏生は通用口をすりぬける。
中に入ると、いつものようにビール瓶の箱の上、白いシャツに赤いタータンのパンツをはいた背中が振り向いていて、それは小さなサングラスをかけた一喜だった。
「何かあったの?」
と一喜が聞いた。入口の騒ぎが聞こえていたのだろう。
「ファンの子が入れてくれなくて」
「なんで?」
なんで、と言われても夏生にはわからない。
「うーん、たぶん、スタッフの女が超うざい、ってやつ?」
あはは、と一喜は笑ったが、夏生は笑いごとではない。一喜は手にしていたレッドブルをぐびりと一口飲んで、
「嫉妬されてんの夏生さん」
「嫉妬?」
「ださい格好したらうざいファンいなくなる?」
「やめてよね」
「何を?」
「ださくするの」
「なんで?」
「売れなくなるじゃん」
一喜はちょっと考えた。
「それは困るなあ」
「……今、生活費のこと考えた?」
「うん。家計簿が頭よぎった」
「家計簿つけてんのっ?」
「冗談だよ」
また声を立てて一喜は笑った。
夏生が持ってきたデザインを渡すと、一喜は一目見て、
「うん。有難う。これでいこ」
とOKを出した。もっとも最近は訂正が入ることはほとんどない。チケットは夏生のデザインのまま印刷され売り出されていた。
夏生はデザインの入った封筒を一喜から再び受け取る。打ち上げの時までいつも夏生が預かるのである。打ち上げの席で見てもらえば早くライブハウスに来る必要もないのだが、ライブ後の興奮状態で冷静な意見がもらえるとも思えなかった。
「体調は?」
と夏生。
「お前はお袋か」
と一喜は突っ込んでから、
「悪くないよ」
と笑った。
でも、と夏生は思う。一喜はまた痩せている。
ライブは定刻に始まった。
昨日生きてた命が尽きる
午前零時の鐘が鳴る
今日は昨日に ころりと変わる
何かが起きるはずだった
何も起きずに日を終える
期待は潰えて昨日が終わる
午前零時の鐘が鳴る
今日は昨日に 明日は今日に
何かが起きるはずだった
何も起きずに日が変わる
夢破れて昨日今日
午前零時の鐘が鳴る
今日は昨日に 固まる時間
何かが起きると期待して
何も起こさず日が暮れる
待ってて変わるなんてこたなく
結局歩いていかなきゃなんねえ
歩くの面倒 歩くの御免
だからじっと座ってて
だから何も起きゃしない
昨日は明日に明日は今日に
午前零時の鐘が鳴る
過去になればすべて固まる
何かを起こせ 徒手空拳で
何かを起こせ 日暮れる前に
最前列ではいつもの子供達が黄色い歓声をあげていた。
フレンドリーにやりたいと言っていた一喜だが、あれから特にパフォーマンスが変わったとも見えず、相変わらず夏生の目にはそっけなくしか見えなかった。
それでもそれが受けるのか、客の反応は回を追うごとにエスカレートしていくように思えた。曲が終わるたびに大歓声が上がる。何度もやっている曲は客も一緒の大合唱だ。
小冊子をやめてからは、サイトで歌詞はアップしているから、歌詞は容易に手に入るようになった。とはいえ、決して歌いやすい歌詞ではない。それでも客の入れ込みようはすごかった。
熱狂するファンはやはり閉塞する日常に風穴を開けたいのだろう。一見、何事も起きない平和な日常、だから愚痴ることも許されない。いい子でいること、おとなしく従うことを要求される日々に息詰まる子供たち、あるいは大人たちが風穴を開けにライブハウスに集まるのかもしれない。
社会はみんなの安心のためにあるはずなのに、なぜその社会でみんなは息苦しくなるのだろうか。社会が不完全なのか、あるいは人間とはもともとそういうものなのかもしれない。
思考が揺れてトランス状態。
考えることすら厭わしくリズムに身を預けるだけだ。
ベースがうねる。ドラムが刻む。もうそれだけでよかった。トランスの中で昇華する不安と不満があるのだ。昇華させ、摩り切って、すっきりして、また明日の退屈に立ち向かうのだ。
退屈な日常を退屈から解放するものは勇気なのかもしれない。やりたいことを責任持ってやり遂げる勇気。
インディーズのライブを聞く時、いつも夏生はそれを感じる。ステージに立つ勇気が彼らを退屈から解放する。そして聴く者をも。
ステージに立つ四人の勇気に聴衆は酔いしれているのかもしれなかった。そして、全身からどうしようもなく解放されていく感情。
突然、ステージに飛び乗った客がいた。
派手な服を着たまだ若い女。ギターの音が止まり、ベースが乱れた。ボーカルは歌うのをやめ、スタッフが飛び出して客を制止した。
怒号が更なる酔いを招いて、ライブは大混乱に陥った。
だが、客の暴走は一回では終わらなかった。
次のライブでもやはり見るからに子供のような女性ファンがステージに上がろうとして阻止された。
「いい加減にしろよ」
この時は一喜もわざわざマイクを通して文句を言った。さすがにこの時ばかりは会場も静まり返った。
「洒落か冗談のつもりか知らねえが、ライブ邪魔すんなら客に代金てめえが返せや」
うおおっと野太い歓声が上がる。男性ファンの共感を得たのだろう。若い女性ファンのミーハーな行動を苦々しく思っていた男性ファンは意外と多かったのかもしれない。
だが、同時にこのことは若い女性ファンの捩れた執着を集めることにもなった。
「一喜のホモ、って」
「一行投稿、お疲れ様」
一喜は久しぶりに夏生の家に来ている。
サイトの悪口メールの対策のためである。
「他には?」
「レディシュリンプなんてホモの集団じゃん、って」
「違えわ。一行メールばっか?」
「いや…これは長いよ…、どうせカズキは男が好きなんでしょ。だから女の子を嫌って男に媚び売るのよ。まゆちゃんだってカズキが好きでステージ上がろうとしただけじゃん、なのにあんな言い方することないじゃん、」
「や、全部読みあげなくていいから……あのガキ、まゆちゃんって言うんか」
「まゆら、とか言う名前だった。一応名前と住所聞いたけど」
軽率な行動をした少女自身は一喜から直接罵倒された挙句、スタッフからは住所と名前を聞かれ、こんこんと説教されて、泣きじゃくっていたのだが。
「お仲間が仕返しメール送ってきたみたいね」
一喜はふうっと溜息をついた。
「ステージ上がろうとするてめえのツレが悪いと思わねえのかよ。他の客だってライブ楽しむ権利あんだろ。なんで自分達の都合でライブぶち壊して許されると思ってんだよ」
「まあ、中学生は回り見えてないからねえ」
「回り見えないガキはライブ来なくていいよ」
確かにそれはそうだ、と夏生も思う。自分の責任でライブに来たのなら何歳でも大人として振る舞うべきなのだ。ライブハウスでは誰も子供扱いはされない。従うべき親も教師もいないし、自分の好みを否定する人間もいない。だが、その代わり、自分で自分を律する必要も当然出てくる。
「大人の分別はないくせに、嘘の名前と住所でメールを送ってくる狡猾さは持ってるんだからな」
一喜が不愉快そうに言い捨てる。悪口メールの全てが住所も名前も過去の投稿履歴にない初投稿だった。
「ていうかさあ、琢磨とかも出待ちの客に怒鳴りまくってるのに、俺が怒鳴った時だけ、なんで仕返しメール送ろうと思うかな」
「あー、たぶんキャラが違うから。琢磨は見るからにそういうキャラだし。全く喋んないし、笑わないし、いっつも眉間にしわ寄せてるし」
「演奏でいっぱいいっぱいで余裕ないって本人言ってたじゃん」
「いや、そういうの客、わかんないから」
「やっぱ俺、ださくした方がいいんだよ。いかにも怒鳴りそうなおっさんくさいキャラにしてさ」
「いやいやいや、やめて」
「なんでだよ。そっちの方が怒鳴っても逆恨みされなくてすむし、第一、ステージ上がろうなんて思わねえだろ」
「そうなんだろうけど……」
「ダメ?」
「いや、わかんない……」
夏生は戸惑ってしまった。確かに一喜の言う通りである。レディシュリンプはビジュアル系ではないし、見た目で売ってるわけじゃない。だったら、子供受けしないスタイルに変えてしまっても問題ないはずだったが、夏生は一喜がださくなるのはなんだか嫌だった。だが、夏生の好みはバンドには関係ない。ダメ?と聞かれて、ダメと言えるものでもない。
「まあ、」
一喜は自分で答えを見つけたようで、
「ガキ避けに俺がスタイル変えるっていうのも癪だけどな」
そう言われてみれば。
夏生が嫌な理由もそんな感じがした。
「うん、きっとそうだよ、」
夏生はほっとして、
「見た目も一喜の表現の一つなんだし、アートワークにもこだわってるのに、トータルイメージ変えるの違う気がする」
なんだかとっても納得のいく理屈を夏生は見つけて一気にまくしたてる。
「そうだよな」
一喜も納得したようだった。
「アホなメールは来たら速攻、削除でいいよ」
と一喜は言った。
秋も深まり、街路樹はその身を黄色に染め、葉を散らしていた。
ハロウィンにはインディーズバンドによるフェスティバルに参加することが決まった。
「フェスティバルはファン以外にも知ってもらう絶好の機会よ」
と笙子は珍しく興奮していた。バンドのスケジュールは次々と決まっているようだったが、相変わらず夏生は決まった後にスケジュール表を渡されるだけだった。
「もう少し早くスケジュールもらえないかな?」
と夏生が言う。
「ライブ詰まってるとチケットとかポスター間に合わないことあるし」
「適当にいくつかストック置いておいてくれると嬉しいんだけど?入れられる時には直前でも入れてもらうようにしてるから」
「ストックはあるけど、印刷が間に合わないのよ」
「……わかった、じゃあ、なんとかしてみる」
仕方なさそうに笙子は言ったが、その後、特に何かが改善されたわけでもなかった。相変わらずぎりぎりにスケジュール表が配られるだけで、
「最近、笙子、テンパってない?」
美香もそう言った。
「忙しいみたいだからね」
夏生は一応笙子をかばったが、
「木曜日に連絡来て土曜日のライブのチケット配ってこいって言われても困るって」
「え、そうなの?」
さすがの夏生も驚いた。美香はうなずいて、
「そうなのよ。さすがに文句言ったら一週間前になったけど、一週間でどれほどもさばけるもんでもないでしょ?客だってもっと早くに告知してくんなきゃ予定空けることもできないし」
確かに美香の言うことは正論だった。
「前は由香里とかも手伝いに来てたじゃない?でも、あんまりスケジュールが立たないもんだから、今じゃ来なくなった子って多いらしいよ」
「ライブも数やればいいってもんじゃないかもね」
「そうだよ。数やっても客が来ないんじゃ意味ないじゃん」
「実は、私もこないだ、印刷間に合わないから早めにスケジュールちょうだいって、言ったばかりなんだけどね」
夏生も告白する。
「そしたらなんて?」
「なんとかする、って」
「でも、変わってないんだ?」
「うん、変わってないね」
普段はちょっと苦手な美香だったが、共通の問題を抱えてみると、仲間意識みたいなものが芽生えてくるのだろう。つい愚痴を言う。美香もそう思ったのだろう、
「ねえ、内緒の話なんだけど」
声を落としてそう言った。
「なに、内緒って?」
夏生も声を落とす。
「笙子と和司、つきあってるって話知ってる?」
夏生はどきっとする。
「ああ、そうなんだ」
一喜から聞いたとは言いそびれた。
「でも、別れる寸前?」
「え、そうなの?」
それは知らなかった。
「笙子が一喜好きになったらしくて。だから別れたいって言ったらしいの」
「……マジで?」
「……ハルがそう言ってた」
「ギターのハル?」
「うん」
「一喜はなんて?」
「付き合うわけないよ。一喜はああ見えて硬派じゃん。仲間の女横取りしたりしないって」
「そうだね」
夏生はなんだか頭が混乱した。夏に一喜が言っていたことが誰もが知るところとなってしまったことだけは確かだったが、事態は更に変化しているようだった。
一夜限りの恋人、と一喜が蔑んで呼んだ思いが笙子の中で本気になってしまったのだろうか。それとも和司との関係悪化で、別れる口実に一喜の名前を出したのだろうか。
「和司はどうするの?別れるのかな?」
「どうなんだろうね。別れるのは簡単だけど、スケジュールとかほとんど笙子がやってたからバンドのこと考えると、別れるに別れられないってとこじゃない?」
「笙子もバンドの仕事はちゃんとやってるんだね」
「いや、だからさ、」
と美香は更に声を潜めた。
「そういう状態だからライブ、頻繁に入れてんのかなと思ってさ」
「え、どういうこと?」
「だって、一喜に会えるじゃん」
「……でも、ライブやれば和司にも会うことになるんだよ?」
「和司はああいう性格だから会っても笙子に冷たくはしないじゃん。人当たりよく挨拶くらいはするだろうしさ。でも、一喜は絶対笙子拒否ってるって」
確かにそれは当たっていた。
「でも、笙子は一喜が好きなんだから一喜には会いたいわけじゃん?だったらライブやるしかないからね」
「でも、打ち合わせでも会えるんじゃないの?」
「なんかそれも思うんだよね。笙子って絶対、あたしらに打ち合わせ参加させないじゃん?それってもしかしてメンバー独り占めしたかったからなんじゃないかなって。ハルが言ってたんだけど、打ち合わせの時にも、スタッフも呼んで話し合った方が早いじゃん、って話、メンバーからも出てたらしいのよ。でも笙子が自分が連絡するからいいって言って拒否ってたって」
「……そうなんだ」
夏生は軽くショックだった。別に笙子がメンバーを独り占めしたかったことがショックだったわけではない。正直、そこまで深く関わる気があったわけでもなかったから、それはそれで夏生は気にならない。ただ、そう言ってくれればよかったのに、と思うのだ。
別に私は笙子の大事なバンドのメンバーを横取りしようとしたりはしないのに。
笙子にとってレディシュリンプは結成から関わった大事な作品のようなものなのだろう。だから、笙子は友達と呼べる夏生や美香にスタッフを依頼してくれたのだと思っていた。でも、肝心なところで信じてくれてはいなかったのかもしれない。宝物を育てる手伝いはさせても、取られることを恐れて、肝心なところではシャットアウトしたのだろうか。
もっとも、夏生のその考え方もよく考えれば少しおかしかったかもしれない。
バンドは笙子が独り占めしようとしてできるものであるはずがなかった。レディシュリンプは、和司の、晴信の、琢磨の、そして一喜のバンドであって、笙子のバンドではないのだ。笙子もまたただの手伝いでしかなかったはずである。だが、だからこそ、よけいに独り占めしたかったのだろうか。
なんだろう、この閉塞感は。
バンドの何を誰が独占したいと思っていたのだろうか。
夏生はなんだか頭がこんがらがってきた。
ただ、ステージに立つ勇気を持つ者だけがその所有権を主張できるということだけは確かだろうと思った。客がいくら批判しようとも、そのバンドは常にステージに立つ者の物なのだ。
「でも、」
とふと気づく。
「美香、いつハルから聞いたの?この前の打ち上げの時?」
「いや、そうじゃなくて、」
美香は急に口ごもる。
「私ら、付き合ってるんだよ」
「ハルと?」
「うん」
「え、美香って琢磨ファンじゃなかった?」
「琢磨はライバル多いからさあ」
笙子が独り占めしたがったメンバーは確かにあっさりと奪われていたかもしれなかった。
どんなグループでも恋愛が絡むと実に難解になる。
中学校の時のソフトボール大会でもそうだった、と夏生は思いだす。
夏生はチーム分けの担当だったが、誰と誰はつきあっているから同じチームにしてくれ、という勝手な希望が後を絶たなくて、かといってその願いを聞いてやると、片思いの異性があの二人は違うチームにしてほしいと横恋慕してきたりで、面倒なことこの上なかった。
あの頃から夏生はあまり恋愛には興味が持てなくて、それはおそらく自己肯定感の低さから来るのだ、と秋の初めに気づいたばかりだった。
深夜に電話をかけた時のことを思い出すと、夏生は今でも顔から火が出そうになる。
なんであの時、一喜に電話なんてしてしまったのだろう。
何度もそう考えるのだが、それでもあの時、電話をしていなければ、きっと今でも最悪な気分の中で自己嫌悪に浸っていただろうという確信はあった。
だから、あの時、電話してよかったのだ。
それはわかっていたが、それでも思い出すと恥ずかしい。
実に面倒くさい自分の感情というものである。
今は人と向き合うだけで手いっぱいの夏生には、誰かを好きになるという感覚はまだ確信が持てなかった。高校生にもなって、それもおかしなことかもしれなくて、またもや自分に価値がないように思えてきてしまうのを夏生はぐっと抑える。私は私を肯定するんだ。一喜は一晩自分のために潰してくれた。少なくとも私は一喜の一晩分の価値はある。そう肯定しないと、携帯を切らずに付き合ってくれた一喜に悪い気がした。
一喜か。
笙子が一喜を好き。
そもそもそれもよくわからない。
あんなに笙子は一喜のこと悪く言っていたじゃないか。
一喜から話を聞いた夏休みには笙子は既に一喜が好きだったはずである。それなのに秋になっても彼女は一喜の歌は好きではないと言い続けていた。
もしかしたら一喜につれなくされたことの恨みもあったのだろうか。
笙子の性格を考えると、好きと音楽へのスタンスは別だとしてもそれはありそうな気もした。歌は好きになれないけれど、一喜は好き、ということも彼女ならあり得る。
もっとも夏生にはそれ以上のことはわからない。
夏生は笙子ではないし、そもそも人を好きになったことがない。
そういえば、と思い出した。
笙子が夏生に、一喜のこと好きじゃないのか、と聞いたことがあった。その時、夏生は即座に否定したが、今思えば、あの時から既に笙子は一喜が気になっていたのだろうか。あの時、否定していなかったら、笙子はどうしていただろうか。一喜のことを諦めたのだろうか。それとも夏生をスタッフからはずしただろうか。
笙子、あんた私のことわかってないよ。
夏生は思った。
私が一喜を好きになるなんてあるわけないのに。
確かに一喜はかっこいいと思う。才能もあるし、何よりいい奴だ。でも、ステージの上の人。遠いあちらの世界の人。
でも。
もしかしたら笙子も同じことを感じていたのかもしれない。
どんなにバンドと一緒に打ち合わせをしても、ライブの時はステージの上には上がれない。客席で見るしかない存在。こちらの人間。超えられない壁にもどかしさを感じていたのではないだろうか。
子供の頃から音楽が好きで、誰よりも音楽に詳しくて、それでもステージに立つ勇気がなかった彼女は、あるいは音楽自体に嫉妬していたのかもしれない。
だから躍起になってメンバー以上にバンドの活動に口出しをして、その気持ちが過剰になってバンドの音楽を独り占めしたいと思ったのかもしれない。だが、どれだけメンバーよりも熱く音楽を語ってもやはり彼女はステージには立てない。いや、立つ勇気がなかった。彼女に足りなかったのはその勇気だったのだろう。
それはそれで切ないなと夏生は思った。
美香から聞いた内緒の話は、でも、表立って何かを引き起こすことはなかった。
あくまで笙子はバンドのマネージャー役を以前と変わらずこなしていたし、和司や一喜ともめることもなくて、実は美香の話は間違っていたのじゃないか、と夏生は思うほどだった。
夏生の日常では噂話は話だけで終わることが多い。誰かと誰かが付き合っている、という噂が流れても、二人のデートを目撃することなんてなかったし、誰かが補導されたという話もしばらくの間、当事者が姿を消すくらいの変化しか起こさない。目の前で何かが起きることはほとんどないし、噂話を全てシャットダウンしてしまえば、日常に事件は何も起きていないような錯覚さえ起こせただろう。
だが、何も起きないことが日常のストレスを蓄積してもいくのだろうか。事件を人は待ち望み、野次馬になって目撃者になりたがるのは、現実感への飢えなのかもしれない。
あれから何度か一喜は夏生の家にやって来たが、笙子の話をすることはなかったし、夏生も聞いたりはしなかった。
ハロウィンライブの日、一喜はライブ前に夏生の家を訪ねてきた。
「珍しいね?ライブの日に来るなんて」
おそらくこれが初めてだったろう。一喜は仕事帰りのようで、
「残業で遅くなっちまってさ。夏生さん、今日、次のデザイン持ってくるって言ってたから、先に取りに来たんだよ」
「打ち上げの時でもよかったのに」
「や、今日は病院に直行するから俺」
「え、……じゃあ、デザイン今日じゃなくてもいいよ?」
「今もらえるなら持ってくよ」
「じゃあ、ライブハウスで見てくれる?」
「いいよ」
二人は連れ立ってライブハウスに行くことになった。が、これはあまりよくなかった。
ライブハウスの前でいつも早めに来てたむろしている子供達に出食わすことになったのである。子供達は道で甲高い声でさざめいていたが、一喜に気がつくと、一瞬、悲鳴を上げかけて、すぐにブーイングにも近い不満の声を漏らした。
「えええええええ、なんでえええ」
と聞えよがしの声で、夏生は、あれ、と気がついた。それで、
「一喜、先にライブハウス入っててくれる?」
と小さな声で囁く。
「なんで?」
「お子様ファンが嫉妬してる」
「いいじゃん」
一喜は笑った。
「させとけよ。ガキ、そこどけ」
一喜は気にせずに、入口を塞ぐ形で集まっている子供達に無遠慮に声をかけた。きゃあ、と黄色い歓声が上がる。
「どけ、と言われても嬉しいのかお前ら」
と一喜が笑うと、また歓声が上がった。もっとも今日は単独ライブではなかったから、誰?と聞いている声も聞こえて、レディシュリンプを知らない客も大勢いた。
一喜が通用口を抜けるのに続いて夏生も入ったが、背中ではひそひそ声が聞こえていて、何あの女、という言葉が聞こえた。
「人気あるねえ」
夏生は深いため息をつく。一喜は笑って、
「いらねえ、ああいうファン」
「ファンはファンでしょ」
「どうせ見てくれのファンだろ?俺らヴィジュアル系じゃないから」
「確かにそうなんだよね。もうちょっと中身見てほしいよね」
「それとも、スタッフ全員男にするか?」
「え、そうなの?」
うーん、と一喜は首を傾げたが、
「夏生さんみたくデザインできる野郎が見つかればの話だな」
と笑いながら言った。
「なんで夏生ちゃんは夏生”さん”なの?」
と横からライブハウスの従業員が聞いた。一喜は一瞥をくれると笑って、
「年上だから」
と言った。
「え、ちょ、違うでしょ?同級生じゃん!」
夏生がびっくりして訂正すると、
「あんた、十八になっただろ?」
「え、なんで知ってるの?」
一喜はおかしそうに笑うと、
「夏生さん、自分の名前、漢字で書いたことないの?」
「え?」
「夏に生まれるって名前の奴が秋か冬の生まれってことはないだろうよ」
「あ、あああ、なるほど」
「気づこうぜ全く」
一喜はおかしそうに笑いながらデザイン画に目を走らせている。
「あれ、じゃあ、一喜は?誕生日まだなの?」
一喜の代わりに従業員が答えた。
「一喜、早生まれなんだよ。元旦だってさ」
「え、元旦の生まれなの?」
「うん。だから一喜らしいぜ」
「え?」
「一日生まれでめでたいから一に喜ぶで一喜なんだって」
「ほおおお」
「アキさんは?」
と一喜は従業員に話を振る。
「やっぱ秋生まれだからアキさん?」
従業員は困ったように笑うと、
「俺、昭島だからアキさんだよ?苗字だから生まれ関係ないって」
「そりゃそうだ」
一喜はご機嫌で笑った。
「夏生さんって誕生日いつ?」
と聞く。
「え、七月」
「何日?」
「七日」
「お、七夕じゃん」
「うん。そうなの」
「俺ら、おそろいだな」
「え?」
「誕生日、ゾロ目」
「ああ」
夏生は気づいて笑う。
「一月一日と七月七日だね」
「名前もおそろいだね」
「なんで?」
「カズキとナツキ。どっちも”キ”ついてる」
「あ、ホントだ!」
「いや、もっと早く気づこうぜ」
一喜とアキさんに大笑いされて、夏生はなんとなく面白くなかった。
笙子は何もなかったように後からライブハウスにやってきて、美香も途中から参加して三人は合流した。夏生は少しどきどきしたが、二人ともいつものように差しさわりのない雑談をしながら、ライブを見ていた。
レディシュリンプの出番は一番最後だった。別に人気があるからではなく、単にくじ引きで決まったのだが、そうした事情は客にはわからないから、彼らがステージに上がる頃には妙な期待が高まってもいた。いつものように最前列には、一喜に威嚇されたにも関わらず、中学生と思しき子供らが陣取って黄色い声を上げていた。
ファンタスティックな夢描いて
ファンタスティックな夢求めて
ファンタスティックな夢に溺れて
ファンタスティックな夢を語るが
ファンタスティックは夢物語
ファンタスティックはすぐに破れて
ファンタスティックは叶やしなくて
ファンタスティックは夢と消え果つ
明日は明日の風が吹き
明日は明日の日が昇る
明日は今日の繰り返し
だけど
明日の明日のまた明日
繰り返す日常
抜け出す非日常
それでも何も変わらなくて
それでも生きるしかなくて
ファンタスティックな夢描いて
ファンタスティックな夢求めて
ファンタスティックな夢に溺れて
ファンタスティックな夢を語るが
ファンタスティックは夢物語
ファンタスティックはすぐに破れて
ファンタスティックは叶やしなくて
ファンタスティックは夢と消え果つ
今日は今日で過ぎ去って
今日は過去へと変わりゆく
今日は明日の繰り返し
だけど
今日という日は一度きり
噴き出す日常
逃げ出す非日常
それでも何も変わらなくて
それでも生きるしかなくて
ファンタスティックな夢描いて
ファンタスティックな夢求めて
ファンタスティックな夢に溺れて
ファンタスティックな夢を語るが
ファンタスティックは夢物語
ファンタスティックはすぐに破れて
ファンタスティックは叶やしなくて
ファンタスティックは夢と消え果つ
「連呼好きだねえ」
と笙子が呑気に感想を言った。
「耳障りいいし、覚えやすいからいいんだけどね」
「メロディアスで弾きやすいってハル言ってたよ」
と美香が言うと、笙子は、
「ふうん」
と相槌を打つ。美香は少し慌てたようだったが、笙子はそれ以上のことは何も言わなかった。恋愛が絡むと本当に面倒くさいと夏生は思った。ついこの間までただの客としてライブを楽しんでいたのに、くっついたり離れたりで、素直に楽しめなくなっている。でも、それが当たり前で、いつまでも無邪気に楽しめると思う方が幻想なのだろうか。
楽しめなくなったとしてもアーティストに近づき、独占したいと思うものだろうか。だが、独占したいという気持ちを夏生は批判しようとはやはり思えなかった。独占する価値が自分にある、と思えるからこそ、そういう発想になるに違いなく、それはやはり夏生にはうらやましいことなのである。
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
生きてるだけで全てOK
生きてるだけで問題ないさ
全てOK 過去も未来も
全て肯定 今も昔も
自分の手の中 あるもの全て
それが全てで この世は天国
ここで叶えず どこで叶える?
夢見るのなら 今この場所で
この世の全て統べるEmperor
誰にも否定はさせやしない
この世の全て統べるEmperor
自分の手にあるものが全て
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
息するだけで全てOK
息するだけで問題解決
全て肯定 過去も未来も
俺は皇帝 これからずっと
自分の手の中 握りしめる
それが全ての 俺の帝国
ここで叶えず どこで叶える?
夢見るのなら 今この場所で
この世の全て統べるEmperor
誰にも否定はさせやしない
この世の全て統べるEmperor
自分の手にあるものが全て
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
Error Error 時に Terror
ハロウィンライブは大盛況のうちに終わった。
サイトをチェックしたら、いつも以上のアクセス数があり、ライブで興味を持った客がいたことは確かだった。
それから二週間ほど、ぽっかりとスケジュールは空いていて、その間、夏生は学校のことに専念して過ごした。
お互い見飽きた友達の顔、先生の顔、制服に教室。それでも夏生にとって学校は今年の夏以降、少しだけ大事なものになっている。それは一喜が行きたくても行けない場所なのだと意識したからだった。
一喜は高校に通い続けたかったに違いなかった。それでも親の入院で彼は通信制への転校を余儀なくされた。
当たり前だと思っていた学校がなんだかとても大事なもののように思えたのはその時だったと思う。明日も明後日もずっと同じ日常が続くと思っていたのに、突然それが終わりを告げるとしたら、自分はどう思うだろう。
考えてみれば、学校だってあと半年足らずで卒業である。二度と見飽きた風景は戻っては来ない。そう思えば、全てがかけがえのないもののように思われた。
普段は飲み込んでしまうような言葉も意識して口にするようになった。
なんだか積極的になったね、と友達からは言われたが、そうかな、と笑ってごまかした。
ライブハウスでの風景もその頃には既に変わりつつあった。
笙子と美香らと当たり前のようにライブを見ていた頃とはもはや違う風景がそこには広がっていた。
ライブハウスの片隅で交わす会話は同じだったが、美香はハルと付き合っているのを笙子に知られたくないと警戒していたし、夏生も笙子の恋愛話を知っていることは悟られたくはなかった。笙子にしたってそんな話は知られたくもないだろう。見た目は以前と同じでも、三人の心象風景は明らかに変わっていたと思う。
全てが変わってしまうのならば、今という時間は自然と大事なものとなっていく。
結局は気づくか気づかないか、その違いでしかないのだろう。
目に見えない早さでゆっくりと移ろっていく時間に人はその風景を失うまで気づかないこともある。
だから、明日は今日の繰り返しで、延々と退屈な時間が続くような錯覚に陥りがちだが、現実にそんなことはありはしない。それは自ら環境の移ろいを拒否してしまわない限り、難しいことなのだ。
環境の変化を、例えば、ひきこもることで拒否したとしても、それでも年を重ねる我が身は止められない。変化を拒否している気になって思考停止しても、勝手に移ろう現実をいづれは突き付けられて、その時にパニックになるだけだ。
だったら、早い段階で向き合った方がいい。
辛いのは慣れていないからだ。
慣れてしまえばきっと辛さは軽くなる。
次のライブが目前に迫った頃、一喜からメールが届いた。
メールを開く。
親死んだ。
とだけ書いてあった。
葬儀には和司が代表して参列したと聞いた。
誰も母親とは面識がなく、メンバー全員行くのもおかしいだろうということになったらしい。
夏生も行くべきか迷ったが、考えてみれば母親とは会ったこともないのである。夏生は親に相談すると、母はひどく悲しんで、花を贈ることを提案してくれた。葬儀会場を笙子にはなんとなく聞きづらくて、美香経由でハルに聞いてもらった。さすがにハルは知っていて、快く教えてくれた。
財布から花代が消えた以外、目に見える変化もなく、何の実感も湧かないまま、慌ただしく訃報が通り過ぎていった。
人の死は取り返しがつかないほどに大きなニュースであるはずなのに、その大きさゆえに夏生はまるで受け止められなかった。
ただ、何かが時間の中から欠け落ちてしまったような焦燥感だけをひりひりと感じて、でも、それが何なのか自覚もできないまま、ただ時間だけが過ぎた。
結局、週末に迫ったライブは中止となった。メンバー急病のため、と告知を出したが、チケットの払い戻しが大変だった、と後で笙子に聞かされた。不幸があったのにと思うと、そんな愚痴は聞きたくなかったが、そう言いたくなるほど大変だったのだろう、と夏生は好意的に考えることにした。まだ笙子を信じたい気持ちが強かったのである。
一喜から改めてメールが届いたのはそれから一週間後だった。
ご心配おかけしました。落ち着きました。
と丁寧な言葉で書いてあった。普段とは違う言葉遣いが、まだ日常の生活を取り戻してはいないのだと伝えているようで、夏生はまたもや焦燥感に駆られる。何かしなければという強迫観念と、何をしていいかわからないという戸惑いが、夏生の中には同時に湧いていて、結局、どう動いていいのか、やはりわからなかった。
どうしよう、とそれでも夏生は悩んだ。
電話でもかけた方がいいのだろうか。いや、むしろこういう時は人とは話したくないものだろうか。声をかけて慰めるべきなのだろうか、そっとしておくべきなのだろうか。
夏生はまだ肉親の死に目にあったことはない。だから、こういう時、どうしてほしいのか、どうしてあげたらいいのか、想像もつかなかった。
が、その悩みは夕方には自然解消した。
一喜が直接、家にやってきたのである。
「次のチケット、もらっとこうかと思って」
いつもと変わらぬ口調で、いつもと同じ仕事帰りにやってきた彼は、それでもまだ表情が硬くて、そして、何よりも目に見えて痩せていた。ハロウィンライブで別れてからの十数日と、親を失ってからの一週間。その時間が一喜に何を与え、何を奪ったかがわかるような気がした。
夏生はその痩せた顔を見て初めて悲しいという感情が湧いてきて、不覚にも彼の顔をまともには見られなかった。大丈夫、とか、ご愁傷様です、とか、無理しないでね、とか、彼を励ます言葉をかけてあげたかったのに、
「ちょっと待ってて」
そう言うのがやっとで、デザインを取りに自分の部屋へと引きこもる。わざともたもた探すふりをして、夏生は自分の波立った気持ちを落ち着かせようとした。
玄関では母親が気づいたのだろう、一喜に、大変でしたね、と声をかけるのが聞こえていた。一喜は言葉を乱すこともなく、静かに礼を述べていた。
もう法要は済みました?と母が声をかける。
おかげさまで、と大人びた口調で一喜が答える。
母がお礼を申してました、と彼は言った。
本当にお世話になって有難うございました、と一喜が気丈に答える声が聞こえてくる。
またいつでも遊びに来てくださいね、夏生も喜ぶから、と夏生の母が穏やかに声をかけている。なぜああいうふうに自分も声をかけてあげられないのだろう、と夏生はもどかしい。でも、たぶん今顔を見たら、やはり言葉に詰まってしまうに違いなかった。
どうしよう。
平気な顔して出ていくしかない。
なんて言おう?
ちょっと待ってて、なんて言葉、思いやりの欠片もない。もっと違う声かけをしたい。夏生は頭がこんがらがってきた。胸がひどく痛い。でも、もっと痛いのは一喜なのだ。
「何やってんの?」
いきなり後ろから声がして、
「うわあっ!」
夏生は思い切り飛び上がって驚いた。
見るとすぐ後ろに一喜が立っていて、彼も目をまんまるくして驚いていた。
「あああっ、びっくりしたっ!」
夏生は思わず叫ぶ。一喜はこらえ切れずに笑い出して、
「俺はお化けか」
「あ、ごめん、ちょっと考え事してて……一喜、入ってきたの気づかなかった」
「いや、お袋さんが様子見てきてって言うからさ。ちょっとあがらせてもらった」
「あ、ごめんごめん、見つからなくて」
下手な言い訳をしながら、夏生はやはり一喜の顔を見られない。
「ごめんな、いきなり来て」
柔らかい口調になって一喜が言う。
「い、いいよいいよ!気にしないで!全然平気!」
夏生はぎこちなく、つとめて明るく言ったが、何を言ってるのかさっぱりわけがわからなかった。しかも後の言葉が出てこない。出てこないどころか胸に込み上げるものがあって始末に困る。一喜は相変わらずとても柔らかい笑顔のままで、
「一週間まるまる開けちまったから、チケット間に合わないと思ってさ」
「え、ライブやるの?」
「やるよ。一度中止しちまってるからな。二度もできないよ」
「だったら、私、印刷しとくよ?て、いうか大丈夫?あの、えっと、体調?」
「いいよ」
一喜は仕方なさそうに笑った。夏生の不器用さがおかしかったのだろう、
「ストレートに、大丈夫?って聞けねえのかあんたは」
おかしそうに彼が突っ込んで、夏生はむっとする。
「わかってるもん!わかってるけど、わかんなかったんだよ!」
「てめえが何言ってるかわかんねえんだよ!」
一喜はとうとう笑い出してしまった。確かに夏生は混乱していた。
「あーさすが夏生さん、予想の斜め上をいくわ」
「……ごめん」
「誉めてるんだよ。俺、今、みんなに気遣わせてるからさ。こっちも気になってたんだけど、まさか突っ込ませてくるとは予測してなかったわ」
「いや、わざとじゃなくて、」
「わかってるって」
一喜はまだおかしそうに笑いながら、
「こんなにおかしいの、親死んで初めて」
ぼそっと言ったから、夏生はもう我慢ができなかった。ほろっと涙が右目からこぼれ落ちる。一喜の目線が落ちる。
「平気だから」
とだけ言った。
避けたかった場面、来てほしくなかった時間、でも確実にその時は訪れて、死は親子すら分かつのだ。
こんなの退屈な日常の繰り返しでも何でもないじゃん!
なんだかわけのわからない憤りを感じて、夏生はそう思い込んでいた自分の愚かさがひどく腹立たしかった。
一喜はデザイン画を受け取ると、穏やかな笑顔を見せて、また連絡する、とだけ言って帰っていった。
全く実感を持てなかった一喜の母の死が、やせこけた一喜の顔を見た途端、現実となって夏生の中に流れ込んできたようだった。それでも平和な日常を乱されまいと思うのか、その現実を認めたくない気持ちがどこかで働いていて、そのせめぎ合いが夏生の中でひりひりとした焦燥感になっていたんじゃないか、と夏生はベッドの上でぼんやりと抱き枕を抱えて考えていた。
親の死はそう頻繁に経験できるものじゃない。夏生どころか、夏生の母も祖父母が元気なのだから親の死は未体験なはずで、それなのに一喜がそれを早々と経験しなければならなかったのは夏生には理不尽に思えて仕方がなかった。
自己肯定感の低さに泣いた夜、付き合ってもらったことを夏生は今でも恩に感じていたから、今こそその恩返しをする時ではないか、と思いもするのだが、一喜がどうしてほしいのかがわからない以上、どうしようもなかった。
こちらから電話をかけるのも押しつけみたいで、違う気がする。
考えて考えて考え疲れて、何もしていないのに、その日はそのまま寝てしまった。宿題もしないままで、次の日は学校に行って大わらわだった。
その日ほど学校が空虚に感じられたこともそうなかった気がする。
たぶん頭の中がバンドのことでいっぱいだったせいだろう。バンドメンバーのいない学校、ライブ仲間のいない学校は自分の日常でさえないような気がした。
別に学校で浮いているとも思っていない。たまに一緒に遊びに行く友達だっていないわけではないのだが、なんだかその中に自分自身がちゃんといる気がしないことがあって、それがまさにその時だった。
「なんか今日、元気ないね」
と言ってきたクラスメートもいた。
「知り合いのお母さんが亡くなっちゃって」
と夏生は正直に言った。
「それはかわいそうだね」
と同情してくれたが、それでその話は終わってしまった。死への現実感のなさは夏生だけの問題でもないのだろう。
でも、大事なのは経験の違いではないはずだとも思った。
おそらくそれは想像力。人は同じ経験をするわけではないから、人の経験への想像力こそが大事なんじゃないだろうか。
夏生が訃報に焦燥感に駆られたり、泣きたくなったりしたのはきっと想像力のせいだろう。
馬鹿みたいだ。
夏生は二、三日してそう思った。
想像力は大事だが、過剰になって自分が動揺してても何も意味はないのだ。
なんだかよくわからない喪失感に三日ほど取りつかれた後、夏生はもっと理性的に考えようと決めた。
週末の夕方がライブだった。
ライブハウスに出かけていくと、いつものように子供達がたむろっていたが、夏生は気にせずに通用口へと入る。子供達には相変わらず嫉妬されているようだが、気にしていても仕方がなかった。
それよりも気になるのは一喜である。ライブ前の打ち合わせにも一喜は来られなくて、電話でやり取りをした、と美香経由でハルの話を聞いている。
体調が悪いわけではなく、法事や相続関係が一喜に直接関係していてそれで忙しいようだったが、それで絶好調でいられるわけもないだろう。
会場を覗いたが、いつものビールケースには一喜は座っていなくて、夏生はきょろきょろあたりを見回す。まだ来ていないのかもしれない。
「夏生ちゃん」
と従業員が呼んでくれた。
「アキさん、まだみんな来てない?」
「一喜入ってるよ」
「え?どこ?」
「そこ」
と笑いながら彼が指差した先にはソファがあって、横になって寝ている一喜がすっぽりとおさまっていた。
「肘掛で見えなかった」
「と夏生が苦笑すると、
「綺麗におさまってるからね。どんだけ細いんだよ」
とアキも笑った。そして、
「まあ、疲れるよね、カズキも」
と同情してくれた。
「忙しいのかな?」
と夏生が聞く。アキは首を傾げて、
「詳しいことは聞いてないけどね。まあ、人一人いなくなるんだから残された方は大変だよね。銀行とか役所とかの手続きもあるだろうし。お袋さん入院してたから病院の支払いとかもあるだろうしね。それでも仕事休めるのも一週間が精いっぱいだろうし」
さすがにアキはよく知っていた。
ソファの一喜はぴくりともせずに胸のあたりだけを大きく上下させながら眠っている。白いシャツに細いネクタイ、黒のジレ、黒いスリムな革のパンツをはいて大人しめの色使いなのは喪中だからかな、と夏生は思った。二の腕には黒い革のアームバンドをつけていて、それが喪章のようにも見える。
眉間にしわを寄せていて、寝ていても彼はなんだか辛そうで、夏生はどうしていいかわからなかった。
一喜が大きく息をする。一瞬、止まる。そして、また元に戻る。夏生はまるで時間が止まったようにさえ感じた。
そのうちぽっかり目が開く。
茶色い大きな瞳がくるりと動いて、こちらを見る。
「見てんな、すけべ」
かすれた声でそう言った。
「はあっ?」
夏生はかちんと来て、
「そんなとこで寝てたらみんな見るって!」
思い切り文句を言ったが、一喜は自分がどこにいるのかわからなかったようで、
「あれ、ここ何?」
放心状態で起き上がると、わけのわからないことを呟いた。
「ライブハウス!ライブハウス!」
夏生が連呼すると、
「ああ、そっか、俺、ソファに横になって寝ちまったのか」
ようやく思い出したようだった。
「おはよう、夏生さん」
と彼は欠伸をしながら挨拶したが、
「私のこと、すけべって言ったっ」
夏生はすっかりおかんむりだった。
「寝起きに何言ったかなんて覚えてないよ俺」
と一喜はとぼけたが、
「俺、また病院かと思っちまった」
髪をかきむしりながら、ぼそっとそう呟いた。
確かに病院の付き添い用の簡易ベッドはソファの寝心地とさほど変わらないだろう。
一喜はまたソファに寄りかかる。目を閉じて額に手を当てた。
「大丈夫?」
と夏生が聞く。かすかな声で、うん、と彼は答える。そして、気づいたように右に少しだけ体をずらした。夏生のためにスペースを空けたのだろう。
「あ、いいよ、気にしないで」
と言ったが、一喜は額に手を当てたまま、左手でソファを叩く。座れ、というのだろう。観念して夏生が座ると、うん、と一喜は軽くうなずいた。
かと言って、その後、何か喋るわけでもない。額に手を当てたまま、一喜はじっとしているだけである。なんだか夏生は落ち着かない。また以前のように美香に見つかったら、と思ったが、考えてみると、美香がもはや嫉妬することはないのだと思い出した。
「あら、お雛様みたいに並んじゃって」
と声がして目をあげると、笙子だった。
あ、彼女がいたんだった、と夏生は思い出した。もはや美香は嫉妬しなくても、今度は笙子がするのである。
一喜は身動き一つしない。声は聞こえていたはずだが、リアクションする気はなさそうだった。
「一喜、その後、どう?」
と笙子が声をかける。
「おかげさまで」
と一喜は額に手を当てたまま答えた。
「ならいいけど」
笙子はいつも通りの笙子で、夏生はなんだか不思議に思えた。二人のやり取りを見てると、失礼なのは一喜だ。笙子の噂は本当なのだろうかと思う気持ちが相変わらずある。
「ライブ始まるまで休んでたらいいわ。夏生、相手してやってね」
と彼女は言って、楽屋の方へと姿を消した。
一喜が全く同じ態勢のまま、ため息をついた。そして左手が宙を漂い、手探りで夏生の頭にたどり着く。そして二回ぽんぽんと頭をなでた。
「なに?」
と意味がわからなくて夏生が聞く。
「なんとなく」
と一喜の答えもよくわからなかった。
「今日も行こうかー!」
一喜は珍しく最初からハイテンションだった。
「あら元気」
とぎりぎりにやってきた美香が驚いたくらいだ。
目を剥いてがなり立てる一喜は確かにいつもと違うパフォーマンスで鬼気迫るものがあった。当然、客のノリもいい。まるで一つの生き物のように客はみな縦ノリで揺れた。いつもは声を潰して歌う曲も今日は叫ぶ。どっちにしても歌詞が聞き取りにくいのは変わりなかったが、それでも誰も気にしはしない。トランス状態になってみな歌に酔いしれた。
ライブ終了後の打ち上げにはやはり一喜は参加しなかった。
「まだ忙しいみたいね」
と笙子が言う。
「打ち合わせとかうまくいってる?」
と聞かれて夏生は、
「最近は私が描いて仕事帰りに一喜が取りに来るだけだね」
「そっか、仕事場近いみたいだし」
「うん」
「時々は夏生んちでデザインしたりするんだよね?」
「え?」
誰から聞いたのだろう。
「いや、以前、一喜がそう言ってたからさ」
と笙子が言い訳した。ああ、一喜本人が言ったのか。
「うん、たまにね。間に合わない時とかは二人でやった方が早いからね」
「ふうん」
なんだなんだ、と夏生は思った。今までアートワークに興味持ったことなかったじゃないか。
「女性ファンが多いからさ、」
と笙子が言った。
「スタッフ、男にした方がいいんじゃないかって話があってさ。デザインはどうなんだろうって思って」
「はあ?」
と声をあげたのは横で聞いていた美香だった。
「それって私らクビってこと?」
「いや、決まった話じゃないよ?ただ、女性ファンの嫉妬がすごいみたいだから。なんかそういうメール来てるんでしょ?一喜が言ってた」
笙子は夏生に話を振った。
「まあ、来てないことはないけど……たまぁにだよ?」
おそらく一喜がその話をしたのは、ステージに上がろうとして阻止された子供ファンを彼が叱責した直後だろう。確かにあの時は一時的にそういうメールが届いたが、今はたまに女性ファンの熱烈ラブレターが届くだけである。
「通用口の出待ちの子供達もすごい目で睨んでくるじゃん」
と笙子は言った。
「確かにそうだけど、」
と美香は認めたが、
「でも、そんなの気にしてたら、何もできないじゃん。勘違いのファンなんてほんの一部だしさ。そんなのに合わせて折角うまくいってるスタッフまで変えることないじゃん」
正論だ、と夏生は思った。が、笙子はうーんと悩んで、
「いや、あんた達がいやがらせとかされたら困るからさ。でも、まあ、あんた達が気にしないって言うんなら、それはメンバーに言っておくよ」
笙子はそれで話を切り上げた。
三日ほどして夜に一喜から電話があった。
「こないだ打ち上げ行けなくてごめん。打ち合わせできんかったね」
と彼はまず謝った。
「いや、気にしないでいいよ。忙しいんでしょ?」
「うん、まあ、だいぶ落ち着いたけどね」
「大変だよね……」
と言うしかなかった。一喜は笑って、
「でも、なんか不謹慎かもしれないけど、ほっとしてるとこもあってさ」
「ほっとした?」
「うん……いつ容態急変するかって心配しなくてよくなった」
ああ、それは、と夏生は絶句した。
確かにそれはほっともするが、これ以上ないほど残酷な安心の仕方ではあるに違いない。心配すべき明日がもうないのだ。
一喜はちょっと黙ったが、少し声を落として、
「俺、今日、会社の同僚殴っちまってさ」
「えっ」
「親の保険金入ってよかったな、って言われて」
「え、それって、ひどい、」
「聞いた突端、手が出てた」
と一喜は自嘲気味に笑った。
「何やってんだろ俺」
ひどく落ち込んだ声がぼそっと呟く。夏生は言葉がない。それは一喜もわかっている。
「次のチケットだけどさ」
急に声を明るくして話を変える。
「来週の分、ストックある?」
「あるよ。印刷しとこうか?」
「いいよ。顔見知りのとこだと安くしてもらえるからさ。スタッフの自腹分もいい加減、払わなくちゃな」
「え、自腹?」
「手出しあるだろ?美香も交通費もらってないと思うしさ」
「え、じゃあ、やっぱり私達クビ?」
「え?」
「スタッフ全員男にするって」
「それ、ずいぶん前に俺が言ったジョークじゃん」
「じゃなくて、こないだ笙子が言ったの」
「またあいつか」
一喜は舌打ちをする。
「クビだから手出し清算するのかなって思っちゃった」
と夏生が言い訳すると、一喜は仕方なく笑って、
「そんな話、話題になったこともないよ」
笙子の脳内での話だろう、と一喜は言った。
「今まで笙子のアイデアがすんなり通ることが多かったからな。自分のアイデアはノーチェックで通ると思っちまってるのかもしれないな」
「笙子は結構関わってたんだね」
「メンバーはギグやれればいいからね。どこでやるとかいつやるとかは笙子が意見出してその通りにすることが多かったんだよ。逆らう理由もなかったし、それ以上のアイデアもなかったしね」
「じゃあ、具体的な話じゃないんだね。安心したよ」
「なんだかなあ、一生懸命なのは有難いけど、全て自分の思う通りになるって思われてもな……、ってこれはお友達の悪口だな」
「いや、……なんか最近一喜の言ってること正しかったんだなってわかってきたから」
「そう?」
「うん……」
「できればそういうわかり方ってしたくないよな」
「……うん」
「自分の友達の悪口は全部嘘っぱちであってほしいって思うよ」
「そうだね」
「まあ、そうはいかないのが現実なんだけどさ」
一喜がそう言って、夏生は深いため息をついた。そして、
「私は笙子にもまだ誠実でありたいと思うんだ。だから、笙子が私に直接理不尽なことをしない限りはフェアに付き合いたい」
「おー男っ前ー」
一喜が茶化した。夏生は、もう、と怒ったが、一喜は笑って、
「誉めてるんだよ。その考え方は俺も賛成」
と言った。
「それでいいんじゃね?俺は夏生さんに笙子さんの悪口をやっぱり言うと思うけど」
「言うんだ?」
「うん。だって話合わせて笙子さん持ち上げる必要もないじゃん。それはそれで俺にとっての本当の話だからさ」
「それはなんかわかる」
一喜は笑うと、
「夏生さんはわかってくれるから嬉しいよ。これやるとたいてい嫌味な奴だって言われるからね。俺の仲間ってわかってて悪口言うことはないだろうってね」
「まあ、それが普通だよね」
「俺、生きにくい性格なんだよ」
「確かに」
今度こそ夏生は笑った。電話の向こうで一喜も笑っているようだった。
「時々思うんだ」
今日の一喜は饒舌だった。
「なんかさ、回りの人はみんなリアリティのない生活してるのに、俺一人リアリティのど真ん中にいるんじゃないかってさ」
「リアリティのない生活?」
「うん。生きるってことを常に意識しなくてもいい生活。今日働かなくても生きていける生活」
「ああ、それは確かにそうかもしれない」
「人の生き死にもさ、あまり身近じゃなくて、いつか親も自分も死ぬだろうけど、でも、それはたぶんまだずっと先のことで、生きるって何だろうって考えながらも、スイッチ入れれば電気がついて、学校に行きゃ友達がいてさ、テーブルに座れば夕飯が出てくるような生活」
それは夏生の生活そのものだと思った。
「でもさ、俺にとっては常に意識してないとそういう生活って簡単に途切れてしまうわけよ」
と彼は自嘲気味に笑った。
「今日働かなきゃ電気だってガスだって来ないし、明日食べるものだってない。寝る時も起きる時も、親が息してるかどうかって確認しなきゃいけなくてさ。まあ、もう親の心配はしなくてよくなったけど、それも親が元気になったからじゃなく、親が死んだからなわけで」
夏生は言葉が見つからない。一喜の言葉はあまりに重たくて、何を言っていいかわからなかった。一喜もたぶんそれはわかっている。だから、夏生にしか言えないのだ。たぶん夏生にも受け止められない重さだということもわかっているだろう。それでも拒否はされないだろうと彼は思っているに違いなかった。でなければ、こんな話するはずがなかった。だから、夏生は聞こうと思った。一喜が投げるボールは重たいけれど、受け止める努力はしたいと思った。
「俺からすりゃ生活の心配しなくていいってのはさ、ファンタジー世界みたいにリアリティのない幸せな生活なんだよ。でもさ、それでもリアリティの重さに耐えてる自分が好きだったりもするんだ」
「そうなの?」
「うん」
一喜の声は穏やかだった。
「俺はたぶん生きている限り、喪失や破壊としか思えないリアリティもプラスに変えていける。変えてしまえばそれは破壊じゃなくなる。再構築にできるんだと思う」
現実を全肯定しろ、と以前、一喜は言った。彼は自分の現実をも全肯定しようとしているに違いなかった。彼に訪れた現実は決して楽なものではないはずだが、それをも彼は肯定するのだろう。
「勿論、俺も理不尽とは戦うけどね」
そう言って一喜は笑った。
「なんか、安心した」
夏生はなんだかほっとする。一喜は遠くで生死の境目を見つめているわけじゃない。夏生と同じ世界に留まって、明日を生きていく人なのだ。
「なんでほっとするんだよ」
と一喜が笑う。
「俺はなんて不幸なんだ、って泣き喚くとでも思ってた?」
「そうじゃないよ。ただ、なんだか違うところを見てる気がしてたから」
「違うところ?ああ、リアリティのど真ん中にいるからな。リアリティのない幸せな人には違う世界の人間に見えるよな、って」
言いかけて一喜は少し考える。
「夏生さんはたぶん俺の方に近いんだろうな。俺らはきっと楽じゃないリアリティ世界のサヴァイヴァーなんだぜ」
「サヴァイヴァー?」
「生き残り。生存者。克服者」
「ああ、サヴァイヴァルの」
「乗り越えてきたんだぜ。かっこよくね?」
無邪気に一喜が言って、夏生は声を立てて笑った。
「かっこいー!」
一喜もあははと笑った。
「だから、これからもしぶとく生き残ろうぜ。馬鹿野郎、負けてたまるか、生きるんだよ俺は」
最後は一喜は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
ライブのスケジュールはそれからはかなり間が空けられた。
琢磨の受験勉強もいよいよ大詰めに入ったからである。
「琢磨、大学受かったら抜けるかも」
と笙子が不安そうに言った。
「え、志望校、県外なの?」
「うん。ベース探さなくちゃね」
大晦日のカウントダウンライブまでは予定を入れたがそれ以降は白紙なのだ、と笙子は言った。
そう言われて初めて夏生はバンドすらもその風景を変えざるを得ないことに気づく。
この頃から単独ライブは組みにくくなっていた。琢磨も一喜も忙しく、練習に集まることすら難しくなっていたからだ。
ようやくクリスマス間近になって単独ライブが開催された。
夕方には息も白くなるほど冷え込んでいたが、客は大入りで、ライブハウスは熱気にむせかえるほどだった。
一喜はステージに現れると、あまり喋りもせず、じゃあ一曲目、とだけ言っていきなり歌い出した。
四方八方敵ばかり
見渡す限り 敵 敵 敵
攻撃用意 見境なしに
破裂を前に 敵前逃亡
Survival Game of Survivalist
自分がたすかりゃオールオーケー
Survival Game of Survivalist
生存主義者の生存競争
司法六法嘘ばかり
見渡す限り 嘘 嘘 嘘
攻撃用意 敵も味方も
破裂寸前 敵前逃亡
Survival Game of Survivalist
愛する人の犠牲もやむなし
Survival Game of Survivalist
生存主義者の生存競争
生き残ることは難しくないさ
死ぬことなんて偉くもないさ
死なない奴なんかいやしない
「どうせ死ぬんだから急ぐことねえ」
生き残ることは難しくないさ
死ぬことなんて偉くもないさ
どうせこの世はSurvival Game
「残ったもん勝ち 生きたもん勝ち」
Survival Game of Survivalist
愛する人の犠牲もやむなし
Survival Game of Survivalist
生存主義者の生存競争
生き残ることは難しくないさ
死ぬことなんて偉くもないさ
死なない奴なんかいやしない
「どうせ死ぬんだから急ぐことねえ」
生き残ることは難しくないさ
死ぬことなんて偉くもないさ
どうせこの世はSurvival Game
「残ったもん勝ち 生きたもん勝ち」
Survival Game of Survivalist
一緒に生きるぜ俺達みんな
Survival Game of Survivalist
生存主義者の生存競争
最初から客は大盛り上がりだった。うねるような旋律がトランスのように客を酔わせる。冬休みに入ったこともあるのだろう、いつもより子供の客も多く、黄色い悲鳴を時折あげて、更にカオス状態になっていた。
この日、一喜はあまりMCを入れなかった。次から次へと歌い継いでいく。似た曲をあえてチョイスして、連ねていくことで、うねりは途切れることなく、客を否応なく律動の渦へと巻き込んでいった。自然と体は揺れて、その衝動から抜け出すことができなかった。
すぐ耳元で死が囁く
please surrender yourself
すぐ耳元で悪魔が囁く
please surrender yourself
そんなにすぐにできやしない
まだまだ未練のこの世の限り
だけど囁く
please surrender yourself
頬に口づけ
please surrender yourself to my embrace
まだまだ死ねないこの世の限り
それでもあいつは頬に口づけ
俺の心臓鷲掴みにして引きずりこむのさ
地獄の底へ
please surrender yourself
please surrender yourself
please surrender yourself
please surrender yourself
すぐ耳元で甘美な囁き
please surrender yourself
だけどあいつは悪魔の手先
please surrender yourself
息がかかるほど近くに迫り
脳味噌溶かして未練断ち切り
そして囁く
please surrender yourself
瞳塞いで
please surrender yourself to my embrace
まだまだ死ねないこの世の限り
それでもあいつは頬に口づけ
俺の心臓鷲掴みにして引きずりこむのさ
地獄の底へ
please surrender yourself
please surrender yourself
please surrender yourself
please surrender yourself
生きろ
低い声で一喜が、生きろ、と呟くように歌った時、大歓声が上がった。生きろというメッセージこそ、もしかしたら今、一喜がもっとも伝えたいメッセージだったかもしれない。全てはここで生きるべきなのだ。夏生は涙ぐみそうになった。死の淵を覗いてもそれでもここに踏みとどまって生きるべきなのだ。
そして、これが最後の単独ライブとなった。
大晦日。
カウントダウンライブ。日付が変わるまであと十五分。
夏生は聞き直す。
「レディシュリンプ、やめるの?」
一喜は穏やかに笑うと、
「うん」
とうなずいたが、その口元は少しだけ強張っていた。
「最後までいる?」
と一喜が聞いた。
「え?」
「ライブ。最後まで見る?」
「……帰るの?」
「もう話し合い終わったから」
「そうなんだ……」
詳しい話が聞きたくて、夏生も一喜と一緒に出ることにする。ちょっと待ってて、と一喜は舞台裏に引っ込むと、置きっぱなしにしていた鞄とコートを持って出てくる。黒いロングコートはガーゼシャツの上に羽織るにはおよそ似つかわしくないスタイリッシュなものだった。
最後のバンドはまだ演奏中だったが、二人はそのままライブハウスを後にした。
深夜の大晦日。
凍てつく空気が頬を刺す。
駅前に立ち並ぶビルはすべて照明が落ちていて、街灯だけが煌煌と明るい。
ライブハウスが熱気に満ちていた分、冷気はより冷たく感じられる。見上げると寒さでより冴え渡った夜空に白い三日月が凍えていた。
一喜は先に立って歩く。黒いロングコートが翻る。夏生は少し遅れてついていった。
「寒ぃー」
と一喜が声をあげて、コートの襟を立てた。彼はあたりを見回している。たぶん開いている店を探しているのだろうが、あいにくとビジネス街の大晦日は見渡す限り休業中だった。日付が変わるまであと十五分。そのタイミングでレディシュリンプは約半年の活動に終止符を打とうとしていた。
一喜は店を探すのをあきらめて、自動販売機の方へと近づく。
「何がいい?」
と聞いてくれて、ココアと夏生が答える。
彼はココアとブラックコーヒーを買うと、ココアを夏生に渡してくれた。財布を取り出そうと鞄に手をかけると、
「ココアくらい奢らせろよ」
と呆れたように笑いながら一喜が文句を言った。
「有難う」
と夏生が言うと、ふっと笑う。
「解散、するの?」
と夏生が聞く。
「解散はどうだろう?とりあえず俺が抜けるだけ」
「なんで?」
「琢磨のこともあるし、音楽性の問題もあるし……それとやっぱ笙子さんだね」
「笙子、また何かしたの?」
「スタッフ変えるってとうとう言いだしてさ」
「え……男性にするってこと?」
「うん。冗談みたいな話だろ。おかしいだろって言ったんだよ。そりゃちょっと前にはそういう勘違いファンもいたけどさ、それって俺がきつく当たったからだろ。それを女性ファンが女性スタッフに嫉妬してるって、話すりかわってるだろって。そもそもその話なら笙子だってクビだろう」
「そうだね……」
「でも、自分は辞める気はないんだよ。それじゃあ筋通らねえじゃん」
夏生はココアの缶は開けずにその熱で両手を温めながら、黙って話を聞いている。
「考えてもみろよ、」
と一喜は言った。
「今、アートワークみんな夏生さんにやってもらってんだぜ。夏生さん切って、次見つかるまで白紙のチケット売るにしたって場所と日時は入れなきゃなんないのにさ、それは誰がやるの?俺しかいないじゃん。でも、俺、練習にさえ行けなくてライブ入れられてないんだぜ?俺の仕事増やしたらますますライブできねえじゃん。馬鹿かこの女って思ったさ」
一喜はもう言いたい放題だった。我慢も限界に達していたのだろう。
「でも一喜が抜けたら歌作る人いなくなるよ?」
夏生が素朴な疑問を口にする。
「楽曲は全部進呈するって言ったよ。だから、違うボーカル探してくれって」
「え、だって全部一喜が作った歌なんだよね?」
「レディシュリンプのために作ったんだから、そこはいいんだよ。それに俺のもんだって主張したら楽曲なくなるじゃん。そこまで俺は鬼じゃないよ」
「え、だって」
メンバーにさえ変えさせたくないと言っていた大事な歌詞と曲である。それを手放すほどに一喜は限界に来ていたのだろうか。
「一喜は?一喜はもう歌わないの?」
「いいんだよ。楽曲はまた作れるから。そもそもまたバンドやるかどうかわかんねえし」
「え」
夏生は絶句した。
考えてみれば当たり前である。
一喜がバンドを抜けたからといって、また必ず音楽をやるとは決まっていないのである。
でも、出会った時から一喜はバンドマンで、バンドマンではない一喜を夏生は思い描くことができない。
一喜とはいわば音楽で繋がっていたはずだった。
その一喜がステージをおりる。
ステージから下りたバンドマンはただの人だ。
学校も違う、住んでるところも、進む道も、趣味も、遊びも違う、ただ同じ年というだけの異性。
唯一の繋がりであった音楽。
その音楽がなくなる。
一喜といる時間は楽しかった。
でも、それは恋じゃない。
恋人にでもなれれば、この関係は続くのだろうか。
でも、それは恋じゃない。
でも、それは夏生にとってとっても大事な関係だった。
もしかしたらそれは恋なんかよりももっと大事な関係なのかもしれなかった。
どうすれば、この関係は継続できるのだろう?
ステージのこちらと向こう。
そのステージがなくなる。
カイロ代わりに手の平を温めていた缶コーヒーを一喜は開けた。ぷしっと音がして、夏生はびくっと我に返る。
「寒ぃー」
とまた小さく言って、一喜は歩き出した。
夏生は置いていかれまいと後を追う。
一瞬、ぱっと周囲が明るくなった。ビジネス街に聳える摩天楼がシルエットになる。その背景の夜空に金色の火花が散った。
「花火?」
夏生が呟く。一喜が振り返ってうなずく。
「年明けたな」
A HAPPY NEW YEARと言ってから一喜は缶コーヒーを乾杯のように掲げた。夏生は急いで自分もココアの缶を開ける。一喜はおかしそうに、
「一緒に乾杯しなくてもいいよ」
と笑った。そういうわけにはいかないの、と夏生はココアを掲げて、
「お誕生日おめでとう」
と言った。一喜は目を丸くして、
「おお、そういやそうだ」
サンキュと言ってまたコーヒーに口をつけた。そして、
「すっかり温くなってる」
と眉をひそめて、
「どっか開いてねえのかな」
とぼやいた。
そのまま二人は大通り沿いに歩き続けた。やがて車道は大きな川のふもとへと出る。川岸からは遠い花火が見えていた。どこかでカウントダウンパーティをやっているのだろう。花火が打ちあがるたびに川面は明るく照らされて真っ暗闇の川底が一瞬見える。花火が消えると川面には凍えた三日月だけが揺れていた。
「綺麗だな」
と一喜は無邪気に喜んだ。
夏生は川面に揺らぎながら映っている月を見ている。
空がステージなら川面に映る月は自分だと思った。ただ見上げる空に憧れながら、ゆらゆらと揺らいでいるだけではないか。ただ憧れる姿を映すだけで、空の月が隠れれば、何も残りはしないのだ。
川面の月には空の月は存在理由だ。しかし、空の月に川面の月は必ずしも必要ではないのだ。
結局、一喜に助けてもらって、ようやく自分を肯定できていることに気づく。
「私も歌歌えたらな」
夏生がぽつりと言った。
「歌ったらいいじゃん」
と一喜が軽く言う。
「私ってきっと”歌を忘れたカナリヤ”なのよ」
と夏生が言って、
「え」
と一喜が振り向いた。
”歌を忘れたカナリヤ”。子供の頃、そんな歌があった。
「ああ、童謡の」
一喜は知っているらしかった。そして、川を眺めながら歌い出す。いつもとは違う、よく通る綺麗な声だった。
唄を忘れた金糸雀は
後(うしろ)の山に棄てましょか
いえ いえ それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は
背戸の小藪に棄てましょか
いえ いえ それもかわいそう
唄を忘れた金糸雀は
柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた唄をおもいだす
(作詞・西條八十)
ステージに上がる勇気のない者は棄てられる運命なのだろうか。夏生は川面で揺らめく月を眺める。風が吹いた。川面は大きく波立って浪間に月は呑み込まれた。夏生は思わず顔を手で覆う。
「どうした」
一喜が驚いたように聞いた。
「カナリヤ、可哀想」
「なんで?」
「だって棄てられる」
「棄てないって歌ってるじゃん。象牙の船に銀の櫂で月夜に漕ぎ出せばいいんだよ。そうすれば歌を思い出す」
象牙の船はどこにあるのか。
銀の櫂はどこにあるのか。
夏生は見つけることができない。
「寒いな」
と一喜が笑った。
「このままじゃ風邪引くな」
と言って、それはたぶん別れの挨拶だった。
「また連絡するよ」
ぽつりと一喜は言ったが、でも、何の連絡だろう。もはや一喜が夏生に連絡しなければならないことは何もない。デザインもサイトももはやいらないものだった。
「サイトは俺の方で更新しとくよ」
「閉鎖するの?」
「わからない。和司達が使うならそのまま使えばいいし」
それは和司達も了解している、と彼は言った。全ては完了している、と思った。
売り言葉に買い言葉で咄嗟に出た脱退ではないのだろう。少し前から彼らは違和感を感じ始めていたのかもしれない。でも夏生はそんなことは全く気づかずにいた。
ライブハウスの風景が変わり、バンドの風景も変わる。
人の関係も繋がりも心象風景さえも移り変わっていく。
かけがえのない一瞬。
かけがえのない時間。
変わるからこそ、今という時間は大切なのだ。
浪間の月は強い波に遊ばれて、もはや月の形は留めていない。ただ、月の光の残骸だけが波頭に照り映えていた。
象牙の船はどこにあるのか。
銀の櫂はどこにあるのか。
夏生は探さなければならない。
お正月というのにまるでボロ雑巾にでもなったような、打ちのめされた気分で過ごした。
何をする気にもならなかったし、ライブハウスに行く気も起きなかった。
母親は夏生が落ち着いたと思ったようだったが、だったら、落ち着くとか、大人になるとかいうのは現実に打ちのめされることなのかもしれない、と夏生は皮肉に考えていた。
全肯定しろ、と一喜は言った。
しかし、今の夏生にはそれはかなり難しい。
それでも仰ぎ見る月を失ったからは、自力で生きるしかないのだ。
笙子から正式な連絡があるのではないかと思い、しばらくサイトのチェックはしていたが、一か月過ぎても何の連絡もなかった。代わりに美香が電話してきて、きいきいと文句を言った。それは女性スタッフを辞めさせると言った笙子へのストレートな怒りと、いきなり脱退した一喜への恨み節だった。
笙子はおそらくこのまま連絡はしてこないのだろう、とようやく夏生も認めざるを得なかった。
きっと彼女は夏生が一喜から話を聞いていると思っているはずである。ストレートな物言いの一喜が笙子にとって都合の悪い話をするのは目に見えていたし、事実、その通りだった。
プライドの高い笙子がその言い訳をしなければならない電話をかけてくるとも思われない。夏生という友人を失っても笙子にはまだたくさん友人はいるのである。
それでもレディシュリンプが、その後、ライブをやることはなかった。
代わりのボーカルを見つけられなかったのか、あるいは見つける気はなかったのかもしれない。どちらなのか夏生にはわからなかったし、別に知りたいとも思わなかった。
夏生は一喜のファンだったかといえば、そんなことはない。レディシュリンプは純粋に歌が好きだったのだが、歌の全てを一喜が作っていたし、そのボーカルも一喜だったから、一喜のいないレディシュリンプに夏生の好きな要素はもはや何も残ってはいなかった。
インディーズバンド、レディシュリンプに関わった半年間はこうして終わりを告げた。
凍える季節の真っただ中、夏生にとって意味のないバレンタインデーが過ぎ去り、受験組の一喜一憂に教室が溢れ返る頃となっても、ライブハウスからは足が遠のいたままだった。もともと音楽にこだわりがあったわけでもなく、ないならないままの生活が続く。それはある意味、リセットの期間ともなった。なんとなく所在のない不安をライブハウスに通うことで解消してきた高校時代だったが、それは終わりを前にリセットされようとしていた。
それはそれでいいのかもしれない、と夏生は思い始めてもいる。短大に進学する前にいったんゼロになるのもいいだろう。自分が本当に何が好きかを考えるのにはいい機会だった。
レディシュリンプに関わって、それまで趣味で描いていた絵をちゃんと勉強してみたいと思うようにもなっていた。まずはパソコンのペンタブを買ってみよう。そのために短大に行ったらバイトを始めよう。小さいながらの目的もできた。
たぶん小さな一歩一歩が象牙の船に銀の櫂。
歌を忘れ、ただ傍観者として生きていた夏生が自分の人生の土俵に返るような気がしていて、そうやって一つずつ前進できればいい、と思った。
眺めて批判するだけの人生にも退屈していい頃だ。かっこ悪くても自分の足で歩き出す勇気を持とう、と夏生は思った。
携帯が着メロとともに一喜の名前を表示したのは卒業式も間近になってのことだった。
「やあ」
と呑気な声がして、久しぶりに聞く一喜の声だった。
バンド終了のお知らせが今頃来たのだろうか、と夏生は思う。あるいは復活でもするのだろうか。
「やっと落ち着いたから」
と一喜は上機嫌で言う。
「バンド?」
「それもあるけど」
「笙子から何も連絡なかったよ」
「とっくに終わった話だと思ってるんだろ」
「そうか……」
バンドが終わった話なら、一喜の話はなんだろう?
「え、何、バンドの話じゃないんだよね?」
と夏生は聞く。一喜は苦笑して、
「俺の話ってバンドだけかよ」
「あれ?じゃあ、デザイン?私、預かってるのとかあったっけ?」
「ねえよ……てか、夏生さんって、俺のこと何だと思ってたの?」
え?
お月さま?
ステージの上の人?
アイドル?
バンドの人?
少女少年?
「てめえは俺の友達じゃねえのかよ」
「へ、友達?」
「……いや、……悪かったよ、勝手に友達扱いしてて、」
「いや、ごめんごめんっ、ごめんってばっ、え、でも、友達?私、一喜の友達?」
「何度連呼してんだよっ」
一喜は笑い出してしまった。
確かに友達と思っていたのは一喜だけだった。夏生はずっと一喜のことを遠い存在に置いてきた。ただ眺めるだけの存在。夏生は常に鑑賞者で、一喜は常に表現者だった。でも、バンドが消滅して関係も消えたと思っていたのも夏生だけで、一喜にとっては、バンドとは関係なく夏生は友達だったのだ。
「夏生さんは人と距離を置きたいところあるから、」
柔らかい口調で一喜が言って、夏生はびくっとする。一喜にはばれていると思った。
「でもさ、そろそろ俺もあんたのテリトリーに入れてよ」
言葉が夏生を支配する。
テリトリーに人を入れるということ。強固に守ってきたテリトリー。確かにそれは存在した。それは自分の領域であり、なわばり。厚い壁はいつ瓦解するのか。
思考停止したままの夏生を置き去りにして、一喜の話題はあっさり移っていく。琢磨が大学に合格したこと、母親の納骨が済んだこと、夕べ近所の犬に威嚇されたこと、昨日割った卵の黄身が二つだったこと、ドライアイスをペットボトルに入れて放置していたら爆発したことなど、どうでもいいことをひとしきり喋ってから、
「そういやハルがさ、またバンドやりたいって言うからさ。また一緒にやろうかと思って」
「え、そうなの?、」
「バンドの話には食いつきいいよな」
そう言って一喜は笑った。
卒業式はいい天気で桜吹雪に空が霞んだ。
どこかリアリティを持てないままの高校という季節が終わる。
春になったら自分の足で歩き出そう、と夏生は思った。
きっとたぶんそれは違う季節になるに違いない。
(終)