オーディンの森
大王殺し
おおきみころし
甲午の年の春の候。
大日下王(おおくさかのみこ)の一族は滅んだ。
事実無根の讒言を大王は信じたのである。兵に屋形を包囲させ、大日下を一族もろとも大王は攻め殺したのである。
石上(いそのかみ)の穴穂の宮に坐(ま)しまして天下を治めた大王には多くの臣下が心を寄せた。さりながら、大王は真実の在処を御存知なかった。そして、知らないままになってしまった。
三年秋八月九日。
大王は庭を臨む神床でごろりと横になっていた。
天気のよい、穏やかな日であった。
神床とは本来、神の声を聞く所である。この日、大王には、御宣託をいただく用事はなかったが、急にこの庭を眺めたくなって、神床へとやってきたのである。
「三年」
温かい日溜まりの中、大王の口がぽつりと呟く。
「何と申されました?」
傍らに侍っていた大后、長田大郎女(ながたのおおいらつめ)が穏やかに問い返す。
「昼寝をしておいでだとばかり思っておりましたのに。何ぞ夢でも御覧遊ばされましたか」
大郎女は微笑んだ。
「三年、たった、と申したのだ」
ぎしっと床を軋らせて、大王は大きな体を起こし、かすれた声でそう言った。大郎女はさらに深く微笑んで、
「左様でございますね」
とうなづいた。
「大王の御世となりまして、もう三年でございますね」
が、
「そうではない。」
「え?」
大王はすぐには応えない。物憂げに目を伏せて、大儀そうにかすれた声で、
「大日下王が死んで三年たった、と申しているのだ」
大后の顔色が変わる。大王は気だるそうな瞳を上げる。
「お前も何か思うところがあるのではないか」
「わ、私が何を思うと申されるのです!」
長田大郎女は元は大日下王の妃だった。
確かに。
大郎女は思う。
三年前、大日下王が無実の罪を得、大王の大軍に攻め滅ぼされた折、長田大郎女とその子目弱王は生きて捕らえられた。いづれ処分が下されるものと誰もがそう思っていたが、その後も何の沙汰もなく、どうやら大王は二人をお許しになるようだ、と今度は誰もがそう思った。しかし、当時の大郎女にとって命が助かったことよりもむしろそのことを呪う気持ちの方が強かった。
待つほどもなく、大王は大郎女を妻に迎えることとなる。彼女にはそれは夫の仇を討つ好機となるはずだった。だが、大王は大郎女ばかりか、当時、四つになる目弱王をも共に宮中へと召し上げた。すわ大日下王の血筋を絶やさんとする大王の謀り事かと、大郎女は我が子を宮中から去らせようと八方手を尽くしたが、事成らず、この三年間、目弱王はひたすら大王の慈愛を受けてすくすくと成長した。彼女が危惧したことは何一つ起こらず、今も、目弱王はこの庭のどこかで我が物顔で遊び回っているに違いなかった。
あるいは。
大郎女は思っている。
大王は大日下王の罪に疑問を抱いておられるのではないか。漠然とではあったとしてもそう思っておいでなのではないか。
確かに思うところがないではない。しかし、
「大王のお恵みあってのこの世の平安でありますのに、何を思うところがあると申されるのです」
大郎女は叱咤するように強い調子で応えた。今はもう大王を恨む気持ちなど微塵もない。むしろ、この大王あってこそのこの国なのだと思っている。
大后の言葉に、しかし、大王は弱く破顔っただけでそれ以上のことは口にしなかった。
この時、胸の内を大后は口に出して言うべきだったかもしれない。
「オオハツセ様! オオハツセ様!」
先程よりその名を呼ぶ者がいる。あの低い、だがよく通る声は妃の若日下王(わかくさかのみこ)に相違あるまい。オオハツセはその声が自分の名を呼ぶのを返事もせずに聞いていた。
「オオハツセ様、お呼び申し上げておりますのに…」
ようやくと庭の木の上に求める人を見つけ、若日下王は仰ぎ見る。仰ぎ見られるその人の、実の名は古事記によれば若建、日本書紀では幼武と書き、ともにワカタケ、もしくはワカタケルと読む。だが、長谷に宮があることからオオハツセとも呼び慣わして、現に妃は昔よりその名で夫(つま)の名を呼んだ。
彼は遠くの山々を眺めやったまま、
「何か用か」
と逆に問うた。
「大舎人でございます。穴穂の宮より馳せ参じてございます。ひどく慌てておりますが、」
と用向きを半分だけ告げておいて、
「まずはお下りなさいませ。木の上では大舎人との対面もなりますまい」
「穴穂の宮からとは、兄上だな」
「大王、でございますよ」
妃は訂正した。オオハツセはようやっと笑った。
「なに、構うものか。俺が兄貴呼ばわりしたとて、お怒りになる兄上ではないのさ」
たんっと木の枝より飛び降りる。身軽である。まだ若かった。
オオハツセには九人もの兄弟姉妹がいる。皆、同腹である。九人もの子をなした母は大変気丈な人で、夫が別な女に心を移したを見ると、身重のからだでその産殿に火を放ち、燃えさかる火の中で子を産んだ。その子がこのオオハツセである。その母のその気性を、彼はもっとも濃く受け継いだ。男と生まれ、激しさを増幅させたオオハツセを遠ざける兄弟も多かった。父上にあたる前の大王、男浅津間若子宿禰命(をあさづまわくごのすくねのみこと)、漢風諡号の允恭天皇は穏やかな気質の持ち主で、他の兄弟は総じて父に似たのかもしれない。唯一人、今の大王、穴穂命は何くれとなく、オオハツセを気にかけた。穴穂命は第四子三男である。オオハツセは第七子五男で年は離れていたものの、弟はこの兄によくなついた。穴穂命が長子の木梨軽王と争った折りも、オオハツセは穴穂命の側についている。
木から下りたオオハツセの前に使者が連れてこられる。残念ながらこの忠臣の名は今に伝わってはいない。
「大王の使いが、この長谷の朝倉の宮に何用か」
とオオハツセが問うと、使者はその舌がまろび転びつするように、勢い込み、顔面蒼白のただならぬ様子で、こみ上げてくる何物かとともに叫んだ。
「穴穂の大王、お隠れ遊ばしましたッ!」
「な、なんだとッ!」
オオハツセはうろたえなかったと言えば嘘になる。傍目にそれとわかるほどに彼は狼狽した。その右手がむんずっと使者の襟首を掴み、荒々しく引き寄せると、
「どういうことだ、はっきり申さぬかッ!」
目玉が転がり落ちるほどに目を剥いて叫んだ。その細い体からは想像もつかないほどの力と勢いである。気色ばんだ彼の前で動揺しなかった使者は誉められてよいだろう。彼はひるまず、
「何者かにしせられたまひて…」
「殺せられた?」
「何者かに殺せられたまひて、大王、お隠れ遊ばしましたッ!」
使者はもう一度はっきりと、皇子の顔に唾が飛ぶのも構わず叫ぶと、こらえきれずに慟哭した。
「兄上が、死んだのか…」
オオハツセは放心して呟いた。傍らにいた若日下が不安になるほどにその顔からは血の気が失せ、立っているのさえ危うく思われた。が、すぐにその頬はみるみる赤く染まる。何かがこみ上げてくるかのように目がつり上がり、その瞳は怒りに満ちた。
「行くぞッ!」
「いづこへ参られますっ?」
「穴穂の宮だっ」
その短い言葉すら終わらぬうちに駆け出す。舎人はあわてて後を追った。
事の次第は至極簡単だった。
大王は大后の長田大郎女と二、三たわいもない言葉を交わした後、寝てしまった、という。そして、あまり昼寝が長いので大郎女が様子を見に来てみると、
「この有様、か…」
八瓜白日子王(やつりのしろひこのきみ)は嘆息して呟いた。
つい今しがたまで大王と呼ばれていた大きなからだが高縁の上で大の字になったまま寝転がっていた。投げ出された大王の足はだらりと白彦の腰のあたりの高さにぶら下がっている。肢体を伸ばしきったからだは仰向けで、口はまだ事問いたげにかすかに開いていた。唇の端や口髭には唾が乾いて糊のようになっている。殺される一瞬、目を開いたのであろうか、濁った瞳がむなしく空を見つめていた。朝餉の際に見た顔である。同じ顔ではありながら今はもう何も言わぬのだとはっきりとわかる顔だった。首が奇妙に折れ曲がっているのは首の骨が完全に折れているせいだろう。刀で刺すというよりは幾度も叩きつけただろう、喉も潰れてしまっていた。潰した際に噴き出した血は顔といわず床といわずに飛び散って、今はもうかさかさに乾いてしまっていた。刀がぶつかったのか、高縁の縁は木がささくれ立っていて白っぽく見える真新しい傷がついている。その真下には、まだその痕跡をべったりとつけて太刀が放り出したように落ちていた。白彦には見覚えのある太刀である。それは紛れもなく大王自身の物に違いなかった。枕辺には鞘が置いてあり、そこから抜き取られただろうことは容易に想像がついた。
白日子はじっと大王の死に顔を見つめていたが、またほうっと深く嘆息した。人の生き死にを目にするのはこの時代、珍しいことではないが、大王の死ともなれば話は別だった。ましてや、神床での、この修羅場である。尋常なことではなかった。
「白日子、…馬鹿に早いな」
ふいに声がして彼は振り返る。
庭の木々の間を縫いながら背の高い若者がこちらへ向かって歩いてきているのが見えた。まだ童男(をぐな)である。が、背は白日子とそう変わらない。面には決して好意的ではない、峻厳な表情が浮かんでいた。その顔の作りが優しげであるだけにその表情も頼りなげに見える。が、それがこの男の本性ではないことを白日子はよく知っていた。
「呼び捨てはやめてもらいたいな、オオハツセ。すぐ上とはいえ、俺はお前の兄なのだからな」
苦々しげに白日子は応えた。オオハツセは眉間に皺を寄せたままで、
「悪いな。九人もいると順序を忘れる」
と言い捨てた。白日子はこの弟のこういう言い方が好きではない。腹が立って、
「そうだな、梨の木のように忘れたか」
長子である木梨軽王と敵対、自害に追い込んだことを揶揄った。オオハツセは口ごもる。後ろめたさからではない。怒りのためである。
「同腹の妹と寝るような奴などっ、」
激昂のあまり声を裏返らせて、
「兄でもなければ弟でもないわっ!!」
白日子はあまりの激しさにたじろいだ。
そうなのだ。
まだ子供のようなふりをして、これがこいつの本性なのだ。白日子はたじろぎながらもその気性の激しさを嫌悪した。白日子は同じ兄弟ながらも穏やかな性格である。悪く言えば事なかれ主義のようなところがある。そのため、どんな些細な事も大事に変えてしまう、この末弟のやり方が気に沿わなかったのも無理はなかった。
怒り心頭に発すれば前後の見境もない。兄弟さえも攻め滅ぼしてしまう。こいつはそういう奴なのだと白日子は断じてしまう。
勿論、同母妹と通婚した木梨軽王が自業自得であったことは白日子も承知していたし、オオハツセはこの件に関しては穴穂命の後押しをしただけにすぎないこともわかってはいたが、白日子にしてみれば、この高慢な弟こそが憎いのである。憎悪の感情が先に立ち、事の是非はこの際どうでもよかった。これも白日子の性格といってよいだろう。
もしかすると。
白日子の頭にある考えがよぎる。
いや。
こいつならやりかねん。
オオハツセなら。
「何だ、もう帰るのか」
背を向けた白日子にオオハツセがむっとして言う。
「俺はもう充分に拝見した。悪いが先に帰る」
白日子は背に寒いものを感じて、振り向きもせず、退出していった。
ほどなく長谷の朝倉の宮に馬の嘶きが聞こえ、主が戻ったのだと知れた。妃の若日下王が出迎える。
馬から下り立った皇子は顔面が蒼白で、穴穂の宮でどんなことが彼を出迎えたかは妃には容易に想像がついた。
「如何でしたか?」
それでも若日下王は訊いた。
「白日子が来ていた」
とだけ若い夫(つま)は言った。
「八瓜白日子様が?」
「うん」
若日下も白日子は見知っている。オオハツセと不仲であることも承知していた。彼女は白日子のひょろりとした表情に乏しい顔を思い浮かべながら、
「お早うございますね」
とだけ呟いた。
オオハツセは黙ったまま、やっと若日下の顔を見る。若日下は決して美人ではない。どちらかといえば目立たぬ容貌であった。彼女は三年前に滅ばされた大日下王の妹であり、大王の大后、長田大郎女の義妹にあたる。その兄大日下をして「其の醜きこと」と言わしめている。謙遜してではあろうが、ただそれだけならば日本書紀の執筆者がわざわざ書き留めただろうか。醜くはなかったとしても取り立てて美しくはなかったのだろう。
「何故そう考える」
とオオハツセは問うた。
「何故と申されますと」
と若日下は頬笑む。
オオハツセは応えない。若日下王ももとより応えは期待していなかった。オオハツセはまだ年若かったが、妃の知るどの大人より物事の悟りが早いのを妃は知っていた。
白日子様がお早い、と言ったのは確かに自分であったが、それはオオハツセがとっくに思いついていることであろう、と妃は思った。
オオハツセは無言で甲を被ると、
「白日子の所へ行ってくる」
それだけ言って、また馬へと跨り、出かけていったのだった。
「お気をつけて」
と言って妃は見送った。
オオハツセは単騎、明日香にある八瓜白日子の宮を訪れた。
「兄上っ、兄上っ!!」
案内も待たず、宮に押し入ると、彼は先ほどまで呼び捨てにしていた兄を尊称し、大声で探し求めた。
驚いたのは白日子である。顔の血がいっせいに引いて転がるように宮の奥から出てきた。見るとさっき別れたばかりの弟、オオハツセが宮を足音を踏みならしつつ、徘徊しているのに出くわした。さっきとはうってかわって甲まで被っている。白日子は何だか嫌な気がした。この弟の気性の激しさは内に外によく聞こえているのを改めて思い出したのである。
「何だ、どうしたというのだ、オオハツセ?!」
激しくうろたえながら白日子は問うた。オオハツセが少し笑ったような気がしたのは白日子の考え過ぎだろうか。笑ったように見える口元が薄く開いて、
「大王が人に殺されてしまいました」
と幼い弟の唇が言った。一瞬、白日子はわけがわからなくなった。
「それが、」
と言った。何を言いたいのだろう。
「どうした?」
「どうした?」
オオハツセの顔から微笑が消える。眉間にはっきりと皺が寄って今や険しい表情がその顔に現れていた。白日子は蛇を踏んだような気がした。
「それがどうした、と申されるのかっ?!」
弟が荒々しく問いただす。言い方が気に入らなかったのだ。この幼い弟は言い方が気に入らないというだけで兄をこうも恐れさせるというのか。白日子はいわれのない恐怖と怒りでさらに顔が白くなった。が、一言も口が聞けない。オオハツセはそんな兄に更に目を剥く。
「一には大王であらせられる、また一には兄でもあらせられるというのに、何でそのようにぼんやりと、兄が殺されても、”それがどうした”とはっ!!」
更に大きく剥いた目玉を見ながら白日子は物が言えなかった。怒りのあまり、も確かにあろう。だが、何よりも怖かったのだ。彼はこの弟が怖ろしくて怖ろしくて物を言うことすらできなかったのだ。
この男だ。違いない。この男が──
オオハツセが白日子の襟首を掴んだ。とたんに、
「ぎゃあああっ!!」
白日子は叫んだ。叫んだ拍子に口が自由になって、
「お前だろうっ!!穴穂の兄上を手にかけ──」
「何だとっ!!」
言ってはいけない言葉を白日子は口走る。これでオオハツセは完全に理性を失った。いや、あるいはそう見えるだけなのか。襟首を掴んだ手がぐいと白日子のからだを引き寄せる。決して痩せているわけでも小柄なわけでもない白日子のからだがやすやすとオオハツセの手の内へと手繰り寄せられてしまう。オオハツセの顔が白日子の顔を覗き込む。怖ろしい形相というのではない。いつもの少年の顔。いつもの険しい表情さえ今はない。いや、むしろ、オオハツセが笑っているように見えるのはやはり白日子の目の錯覚なのだろうか。何故か恐怖が増す。言いたくもないのに口を閉じておくことの方が怖かった。口は喋り続ける。
「お前がっ、お前がっ、疑り深く、兄弟をも平気で手にかけられるお前がっ、」
腰に帯いた太刀がすうっと抜き放たれた。何故だ。白日子が思った次の瞬間、彼の思考は途切れた。
誰も手を出さなかった。
八瓜の宮を出るまで誰一人オオハツセを留め立てしようとするものはいなかった。
彼は我が身を見る。衣に少しだけ血がついていた。
まあ。
これならよいだろう。
彼はまた馬に跨った。そして、道を急ぐ。
ただ一人残る兄、境の黒日子王のもとへと行くためであった。
オオハツセの同母の兄弟は全部で九人。内五人が男兄弟だった。一番年長である木梨軽王が同母妹、軽大郎女と通じて討たれたことは先に述べた。兄弟の父たる前の大王は生来病弱で、即位に当たっては幾度も大王の位を辞退されたという。だが、大王の位が空位のままではならない、という妃、忍坂大中津比賣命(おさかのおおなかつひめのみこと)の強い懇願によって大王となられた、と伝えられている。
長子たる軽王亡き後、次男の境黒日子(さかいのくろひこ)が本来ならば後を継いでもおかしくはなかったが、彼は生まれた時より父親と同じ病を得て長らく病床にあった。それがために、すぐ下の弟である穴穂命が大王になったのだった。もっとも、その病も父が大王の地位にあった頃、既に癒えていた。かつて新羅国主が貢ぎ物を積んだ船八十一隻を献上した折り、この使者である金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)という者が薬の処方に詳しく、おかげで父も黒日子も無事に回復することができたという経緯がある。だから、病のため、というよりも人気の差だったのかもしれない。病癒えて後も彼はあまり人前に顔を出さなかった。が、長子軽王が逝き、三番目の男子であった大王穴穂王が殺せられ、四男白日子がいない今、オオハツセにとって男兄弟は黒日子一人だった。
黒日子の宮はそう遠くはなかった。
宮に乗りつけると、馬から降りる。宮の舎人達はオオハツセの突然の来訪に驚き、恐れて皆、散り散りに走り去りながら、口だけは、
「オオハツセ様、しばしお待ちをっ!!我が主をお呼びいたしてまいりますっ!!」
と叫ぶのだった。我が主を客人(まれびと)の所へ呼んでくるとは本末転倒もよいところだった。オオハツセは苦笑する。普通は我が主の元へ客人を案内するのではないのか。黒日子も舎人には恵まれておらぬ、と思った。もっともそれが自分の風聞に起因しているのは充分に承知していた。だからこそ来たのだ。そうでなくては困る、と思った。
「オオハツセ様、オオハツセ様!!」
遠くより声かけしながら、舎人はかなりの距離を残して立ち止まり、一礼すると、
「我が主が元へ案内いたしまする」
震える声で消え入りそうにそう言った。オオハツセの顔に少しだけ怪訝な表情が浮かぶ。
「兄上のおからだの調子はよいのか」
「ええ、本日は実に爽快だと申されまして」
舎人はひどく客人の様子を気にしながら、彼を中の庭へと案内した。庭に入った途端、
「おお、オオハツセではないか!」
明るい声が自分の名を呼んだ。見ると、兄の黒日子が上半身裸になって井戸の側に立っているのだった。
「オオハツセ、久しぶりではないか」
胸や腹にほとんど肉のないからだの上に乗った小さな顔が上機嫌でそう言った。肉のかわりに青黒い皮膚の下には骨ばかりがごつごつと入っていて、こうして見ているとその皮は岩に被せた布のようで容易に引き剥がせそうにすら思えた。
「これは、兄上、…何をしているのです」
常ならば朝夕の大御食(おおみけ)にすら病弱を理由に顔を出さぬ黒日子である。たまに会う時も陰気な顔しか見たことがなかった。
「たまには、」
黒日子は無邪気にはしゃいで快活に応える。
「俺もからだを鍛えぬとな」
からだを鍛える?
「兄上」
とオオハツセは眉一つ動かさずに聞いた。
「穴穂の宮のことはお聞き及びではないのですか?」
「大王のことだろう?」
黒日子は少しも声の調子を落とさずに応える。
「さきほど宮からの使いが来たのでな、私もそれで知ったところだ」
「一には大王であらせられ、また一には兄でもあらせられる方が殺せられました」
「憂うべきことだ」
やっと少しだけ声を落として黒日子は同調した。今度はオオハツセは八瓜の時のような大声は出さない。黒日子の真意をはっきりと述べさせることだと思った。
「だが、」
と案の定、黒日子は喜色満面に湛え、
「大王の位は長く空しゅうしてはおられぬではないか」
確かに穴穂の大王は日継ぎの御子、いわゆる皇太子を立てなかった。
「つまり、」
とオオハツセは黒日子の言葉を補う。
「黒日子が大王を継ぐと」
「そうではないか」
黒日子は我が意を得たりと頬笑んだ。つまり、とオオハツセ。
「大王なかりせば、我こそは継ぎの大王であると」
「みまかられた今となっては」
と黒日子。
「継ぎの大王は私だ」
やっと言わせたその口舌がオオハツセの中で弾けた。言われもせぬ怒りがからだの奥からふつふつとたぎる。
「それで」
とオオハツセは、その面には表情を一つも表さず、
「穴穂の大王をその手にかけたか」
「え?」
と黒日子。意味がわからず、まだうっすらと笑みの浮かんだ顔をオオハツセに向けた。気のせいだろうか、頑是無い弟は微笑んでいるように見えた。そうか、お前は喜んでくれるのか、そう黒日子の口が言おうとした時、その弟が太刀を抜いた。
「オオハツセっ!!」
黒日子の夢見がちな瞳ははっきりと夢から醒めた。あわてて後ずさりして、自らの衣に足を取られて彼の痩せたからだは転がった。
「これはいったいっ、」
「兄に成り代わろうとてっ、」
無表情な少年の顔に初めて怖ろしいまでの怒りが漲った。
「大王を手にかけるとはっ!!」
「ちょっ、オオハツ、」
何か黒日子は喚いたが、言葉にはならなかった。
無軌道、というのだろうか。この弟の予測のつかない直情の前に黒日子の思考は生きながらに停止した。口どころか、指一本、身震い一つすることができなかった。角膜に写りこんだ弟の姿が近づいてくる。太刀が振り下ろされる。頭蓋が音を立てた。一瞬、何も見えなくなった。両の眼はどこにいったのだろうか。思う間もなく、そのからだは反転して大きな水音と共に井戸の底へと投げ込まれたようだった。
静かな夜だった。
「若日下」
と呼んだのは遅くに戻ってきたオオハツセだった。
「はい」
「お前の隠し所はどこだ?」
「は」
唐突に言われて意味を計りかねた。
「お前の大切なものをどこに隠した?」
夫の顔を見る。幼さの残る白い顔が月明かりに見えた。彼は無表情にこちらを見つめていた。
これは、と妻は思う。
オオハツセがこちらを向いて話しかけることなどまずないと言ってよいのに。
これは。
と若日下王。
「どういう謎でございますか」
彼女はくすりと笑った。が、オオハツセは笑わない。
「大王殺しの目弱王のことだ」
目弱王とは穴穂命の大后、長田大郎女の連れ子の名であることは冒頭で述べた。長田大郎女の義妹である若日下王にとって目弱王は甥にあたる。齢は七つ。
「七つの子が大王を殺した、と?」
と若日下王。
「しらばくれるな」
とオオハツセ。瞬きもせず、
「そなたが知らぬわけがなかろう」
どういうわけで、とは言わず、また若日下王もそうだともそうでないとも言わず、ただ、
「いつ、お気づきになられたのです?」
「兄上の」
とオオハツセ。
「おからだを見た時だ」
「…何故でございます?」
「兄上の喉が潰れていた。太刀を扱いなれた者なら潰さず、斬ったことだろう」
あれは太刀の重みに任せて上から太刀を幾度も落としたからだ、とオオハツセは言った。
「大きく振りかぶり、それから首めがけて太刀の重さにまかせて振り下ろしたのだ。でなければ、ああは潰れぬ」
「しかし、太刀に不慣れというだけでは…」
ただそれだけで目弱王を疑うオオハツセではないだろう。オオハツセは一瞬黙った。言ってやる必要について思ったのだろう。が、口は動いて、
「太刀の跡が縁に残っていた。柄を持つ手があの高縁と同じ高さか、下にあったと思った。縁の高さは大人の腰くらい。背が小さい者なら振り下ろした時につきそうな傷だ。おまけにいつ行ってもすぐに目についた目弱に、今度に限って一度も会わなかった。俺は宮をうろついて探してもみたのだ。隠れているのでなければ会わずにすむはずもなかろう」
「…なるほど」
若日下王は合点した。
「大王殺しはどこにいる?」
オオハツセは重ねて問うた。
「返答によっては、」
と言う。
「そなたとて許さぬ」
「いいえ」
と若日下。毛頭隠し立てする気などはない。
「都夫良意富美(つぶらのおほみ)が屋形の内に」
なるほど、と今度はオオハツセが呟いた。
「そなたの指図だな」
「おわかりになりますか」
が、やはりそれには応えない。太刀を左手に掴んだ。
「目弱王を唆したのもそなたか?」
柄を右手で握りながら問う。若日下王は笑った。
「そこまで練られた事ではございません。あれが私の元に参りましたのは、事の後でございました。大王が父を殺した、と。それ故、仇を討った、と。宮からの御使者が見えるすぐ前のことでございます」
「誰が目弱に大日下のことを話した?」
穴穂の大王が目弱王の実の父、大日下王を攻め滅ぼしたことを目弱王の前で口にすることは禁忌ともなっていたはずだった。
「推察いたしますに、」
と若日下。
「おそらく目弱は縁の下にでも潜り込んで遊んでいたのでしょう。それと知らずに大王と義姉上が大日下の兄上の話をしたのではありますまいか」
「なるほど」
とオオハツセは納得した。そして、
「若日下」
というとその襟元を掴んで荒々しく引き寄せる。
「兄の仇を討たんとて俺には黙っていたか」
無表情に彼は聞いた。だが、こういう時の夫は心底、怒っているのだということを妻は知っている。オオハツセはいよいよその襟首をきつく絞め上げて、
「お前の兄を攻め滅ぼした兄上を、その兄弟を根絶やしにせんと、放っておけば兄弟で殺し合うだろうと目論んで黙っていたか」
「残念ながら」
と若日下。
「そんな殊勝な心がけではございませぬ」
オオハツセは黙る。
「確かに」
と若日下。
「兄上様方のもとへ行かれるだろうとは目論みもいたしましたが、そのためではございません。──おわかりになりませぬか」
オオハツセはしばしの後、
「わからぬ」
素直に言う。若日下は微笑む。
「おわかりにならぬとあれば是非もございません。いいわけと思われるのも癪。兄の仇を討った妹として打ち殺していただいた方がまだよいというものです」
「申せ」
「申しませぬ」
「何故だ」
「貴方様に情けを請うていると思われたくありませぬ」
「思わぬから申せ」
オオハツセは賢い。賢いだけに腑に落ちぬことをそのままにしておくということがどうにも我慢ならなかった。若日下はそこを見抜いている。それに、この夫の怒りの前でここまで言えばきっと信じてくれるだろう。若日下はそう思った。それでは、と微笑む。
「ありのままに申し上げましょう。オオハツセ様に継ぎの大王になっていただくためでございます。私が先に目弱王のことを申し上げていれば貴方様は御兄弟の元へは出かけられませぬ。そうでございましょう?」
オオハツセは何も言わなかった。
「もとより目弱のことも隠すつもりなどございませんでした。御兄弟の後は目弱も討たなければなりませんでしょう。私共も大王につながる血筋。目弱とて日継ぎとしての資格は充分にあるのですから」
若日下はもう一度微笑む。
「でも、余計なことでございましたね。私が図らずともオオハツセ様は真の大王殺しを最初から御承知の上で、それでも御兄弟の元へとお出かけになられたのですからね。お為めと思い、隠しておりましたが、無駄となってしまいました」
オオハツセの手が若日下の襟元から離れた。そして、太刀をその手の平に掴んだ。
「若日下」
ともう一度名前を呼んだ。
「はい」
「でかける」
若日下王は一瞬、沈黙する。
何がどうなったのかにわかにはわからなかったのである。
「いづこへ?」
ようやく言葉になった。
「都夫良意富美の屋形だ」
その言葉が終わらぬうちにもう彼は部屋を出ていた。
「オオハツセ様っ、」
若日下は後を追う。が、夫は見もしない。
「すぐに戻る」
たった今まで妻の首にかけていた手で部屋に戻っているように指示すると、そのまま行ってしまった。
確かに。
若日下は思う。
返答次第では本気でこの命はなかっただろう。
若日下は深い長い溜息をついた。安堵の溜息である。
これで。
我が背が大王となる。
三年前、穴穂命が兄の屋形を攻めた時、とっくに失っていたはずの命である。今この身があるのは一重に年若い夫のおかげであることを彼女は有難く思っている。
夫は以前からずっと若日下王の元へと足繁く通ってきていた。美しい女など余所にいくらでもいように、と解せず、追い返したことすらある。ずっとそのわけがわからず、あるいは高い血筋故かと疑ったこともある。その血筋も三年前の争いで威力を失った。だが、その争いの後も、オオハツセは妻を手放すことはなかった。
この人は賢すぎるのだ。
若日下はようやく夫のわけがわかるような気がしている。美しい女はたくさんいるだろう、賢い女も、子を為す女もこの世には多くいることだろう。だが、彼の常人離れした行動を理解できるのはおそらく自分だけだろう。この人は賢すぎるのだ。賢いが故に誰にも理解されずに恐れられ、また、本人もそれを承知で利用してもいる。その心の内を理解できる若日下王はオオハツセにとってなくてはならない存在なのだった。日本書紀は「鄙(いや)しき人の云はゆる、心を相知るが貴きといふは、この謂ならむ」というオオハツセ自身の言葉を今に伝えている。この時、自分の意を解してくれた母に対してオオハツセは跪いて礼を述べたという。実の母、皇太后と若日下のみが彼の心の内の理解者だった。
若日下王は窓の側に歩み寄る。
蜘蛛の子を散らす如くに突然の出陣に右往左往する舎人達の姿が見えた。
この三年。
若日下にとってそれは長い三年だった。
唯一の肉親である兄を失い、嫁して後もまた子を為すことも叶わなかった。いつ失ってもおかしくはない寵であった。とっくにない命と思えば失って惜しいものは今更何もない。
理解されない夫を理解し、悪しきは諫め、それで怒りに触れても、今更命も惜しくはなかった。それでこの類い稀な男が正しい道を見つけるのなら、それはそれでよいのではないだろうか。生まれた甲斐があるというものである。が、夫もまた妻のいうことを理解するであろう。彼はただ猛き男なのではない。
めいめい甲をつけ、太刀を帯いた舎人達が集団となって出陣していくのが見えた。
若日下の顔に笑みが広がる。
今、ここに三年前が再現されようとしている。
目弱王をかばった都夫良意富美も一族皆殺しとなるだろう。大王殺しである。ことがことだけに逃れようのない罪であった。
訶良姫も一族を失うこととなる。
都夫良意富美の娘、訶良姫の元に夫が通っているのを妻は知っていた。
訶良姫は後、日継ぎとなる白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)、漢風諡号、清寧天皇の母となるが、オオハツセワカタケ、漢風諡号、雄略天皇の大后となったのは仁徳天皇の血を継ぐ若日下王であった。記紀に、子無し、と記されているのは周知の通りである。 (終)