オーディンの森
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アリスの息子
乙延湾の埋立地に甲田町ができてもう十年になる。
「だから、それが十年目、というわけではないんだろう?」
隆之は千鳥格子のジャケットを脱ぎながら大儀そうに聞いた。五月だというのに蒸し暑い。
「五年目だ。」
甲田町役場に勤め始めたばかりの木下は鼻の下の汗を手の平で拭いながら、正確な数字を口にした。
「俺も新参者だからよくは知らないが」
と前置きして木下は、
「町長が何でも大病院の院長だとかで、」
「産婦人科の、か?」
「そうそう」
「なんだ」
と五百城。
「マジか?」
「そうさ。」
青少年の育成にも力を入れていて、それは選挙時の公約にもかかげられていたのだという。
「驚いたな。」
その発想の奇抜さに、である。それにその公約を大真面目に受け入れた町民に対しても五百城は驚きを禁じ得ない。新興の都市には柔軟な発想を持つ家族が集まったということなのだろう。若年層が多いことは確かにデータにも出ていた。
「いづれにしても、」
と木下。
「国があまりいい顔をしていないのは事実だ。」
国だけではない。今でもその条例をめぐっての議論は後をたたない。
「でも、まあ、結果が今のところ、良好だし。」
「なるほど」
「実験としては大成功、ってわけで」
甲田町に続けとばかり、同じような条例を検討し始めた自治体も少なくない。かく言う五百城も県庁職員の一人として派遣されてきたのだった。
「せいぜい参考にさせてもらうよ。」
と五百城。
「お前んとこは」
と木下。
「少子化が問題だっけ。」
木下の口ぶりが少しだけ皮肉に聞こえて、五百城は肩をすくめた。
乙延郡甲田町。
今、この町では子供はすべて町役場の管轄下に置かれている。
「保育所を見学できるか?」
と五百城はメモ帳を閉じ、黒い鞄に入れながら訊く。
「ああ」
と木下。今日は担当者がいるから案内してもらえるだろうと言うと、
「ちょっと待ってろ。」
応接室から出ていった。そして、直に戻ると、
「五百城、こちら、育児課のアリス君だ。」
「アリス、さんですか?」
応接室の薄い仕切りのそば、木下の横に並んで立っていたのは背の高い色の白い男だった。まだ若い。二十四、五だろうか。彼は笑った。
「有巣、です。名字ですよ。」
いつも言われつけているのだろう、彼は白い笑顔を浮かべて名刺を差し出した。五百城は自らの名刺も差し出しながら、彼の名刺を受け取る。
有巣 司
そう書かれていた。
「ありす、つかさ、です。」
「なるほど」
「あなたは、えーと」
「あ、いおぎ、です。いおぎ、たかゆき。」
「なるほど」
有巣は五百城の口真似をするとまた相好を崩した。
五百城は有巣に言われるままに地下の駐車場までついていった。
「いおぎさんは木下さんとはお知り合いなんですね。」
と有巣。
「ええ、高校の同級ですよ。」
「それじゃあ木下さんとは同い年なんだ。お若く見えますね。」
何の、と五百城。
「奴が老けてるだけです。」
このジョークは有巣の気に入ったようだった。
車は駐車場から出る。白い道路がせり上がるように見えてきて彼方の青い海が眼前に広がって煌めいた。五百城は一瞬、妙な気分に襲われる。まるで日本という気がしない風景のせいだろう。築十年の町はそれだけ新しく、それだけ古いものに捕らわれていないのかもしれなかった。
「どうですか、乙延湾の眺めは。」
五百城の気持ちを見透かすように有巣が明るい口調で言った。
「こんな都心にこんな海岸があるとは思わなかったでしょう?」
妙にうきうきした口調で言う。どうやらこの海を自慢したいらしい、と五百城も気づいて、
「すばらしいですね。」
同調して頷いた。
「僕は、」
と有巣。
「時々、この浜にサーフィンをしに来るんですが、それはとても素敵ですよ。」
「へえ、サーフィン?さすが若い人は遊びも違うな。」
「いおぎさんも今度一緒にどうですか?」
「いや、遠慮しときます。」
実は泳げないんです、と白状して、また有巣を笑わせた。
「保育所はどこいらあたりにあるんです?」
と五百城。役場からそんなに遠くでは役をなすまい。
「この道をまっすぐです。あ、ほら、もう、見えてきた。」
なるほど前方の高台に緑に包まれた白い建物が見えている。つや消しの白いタイルのせいだろうか、まるで絵に描いた建物のように立体感がなかった。それを、
「清潔な感じがするでしょう?」
と有巣は見ているらしい。
「あそこに子供達が?」
「そうです。」
心なしか、有巣は誇らしげに言った。
車は急カーブで緑のトンネルの中の道を白い建物に吸い込まれるように入り込んだ。そのまま地下へつながるスロープを下る。白いタイルが幾何学模様になってフロントガラスをローリングする。やがて剥き出しのコンクリートが見えてきて、駐車場へと入った。
「子供達は親が預けるんですか?」
狭い棺桶のようなエレベーターに乗り込んでから、五百城は訊いた。
「え?」
と有巣が聞き返す。
「この保育所にいる子供達は親が預けに来るのか、と訊いたんですよ。」
「いや」
と有巣。
「親はいません。」
「え、じゃあ、孤児なんですか。」
「いえ──お聞き及びじゃないですか、この町には基本的に親という概念はないんです。」
「え?」
今度は五百城が聞き返す番だった。
二人は二階で下りて白い廊下を歩く。
いくらも行かないうちにガラス張りの明るい部屋が見えてきて、中に二、三才くらいの子供達が十二、三人ほど集まって大きな布のボールに飛びついて歓声をあげていた。保母とおぼしき女性が二人、子供達の輪の中に座り込んで大笑いしていた。
有巣はガラス越しに部屋を覗く。すぐに一人の子が気づいて歓声をあげる。すると、他の子供達もわあわあ言い出して駆け寄ってきた。有巣は満面の笑みを浮かべながら、ガラス戸を開けてやった。彼は二人の女性に、お疲れ様です、と声をかけてから、子供達一人一人に声をかけてやる。有巣は人気者なのだろう、子供達はなかなか彼を離そうとはせず、我先にしがみついていた。
「困っちゃったな。」
と彼は笑いながら言う。二人の女性もほらほら、と声をかける。
「アリスのお兄ちゃん、お仕事なのよ。」
「いい子にしようね。」
それでも離れない子供達に彼は、
「お兄ちゃん、お仕事、終わったらもう一度、来るからさ。」
何度も何度も言って、ようやく解放されたのだった。
「人気者ですね。」
五百城が茶化す。有巣は照れ臭そうに、
「同類と思っているんですよ。」
と笑って、
「でも、可愛いでしょ?」
「あなたにすっかりなついているようですね。」
有巣はまた顔を赤らめて笑うと、
「ここではホントに町自体が親なんですよ。僕は子供たちにとって抽象的な町を代表しているようなものなんです。」
と言った。それじゃあ、と五百城。
「戸籍なんかはどう処理されているんですか?」
「戸籍には親は書かないことになっています。子供達はまず一個人としての人権があり、町という自治体自体がこの子供達の養育に責任を持つ、いわば親的役割を果たすことになっているんです。」
甲田町が話題の町としてここ四、五年、注目されているのはこの保育制度のためだった。親となる資格を有する町民は子供を委託されて家庭で育てることになっている。これは子供の人権を守るという人道的立場から制定された条例によっている。が、“親となる資格を有する町民”はイコール、世間一般でいうところの「親」ではないのか。いうなれば、これは概念の問題で、人の良心を条例という形で規制したものなのではないのか。つまりは、親の資格を有した親たれ、という概念の。
だから、と有巣は続ける。
「ここでは嫡出子、非嫡出子といった差別も存在しませんし、実子、養子といった違いも全くあり得ません。」
「ああ、なるほど」
五百城は合点する。やっとわかった気がして、
「親が存在しない、ということはそういうことなんですね。確かにそうなれば子供は生まれながらに平等だ。その概念を親も守れ、という──」
「いえ」
と有巣。
「親はいないんですよ。」
彼は頑固だった。
「でも、親は親でしょう?」
五百城も依怙地になる。
「”いわゆる親”じゃありません。」
「たとえば?」
「転居の際には子供は保育所に返却していただくことになっています。」
五百城は沈黙した。
今さらながら条例の条文が“親の資格を有する町民”であって“親の資格を有する者”ではないのに気がついた。これは概念の問題でもなんでもない。行政の問題であることを認めざるを得なかった。
「もちろん」
と有巣。彼は五百城が沈黙した理由を誤解して、
「転居以外でも子供を返却することは可能です。」
と注釈をつけた。
「しかし」
と五百城。彼にはわからない。
「それでは親は安易に子供を町に返却することになりませんか?」
いつでも返却できる子供なら子育ての責任はどうなるのだろう。子供はペットではない。
が、有巣は笑うと、
「それはあり得ません。」
こともなげにそう言った。
「だって、そうでしょう?どんなまずい状況になっても、ちょっと気持ちを落ち着けて子供を見たら、こんなに可愛いのに手放そうと安易に思える親なんてそういませんよ。」
五百城はまた黙る。今度はちょっと驚いたのである。有巣のロマンティシズムに、である。
そんな人間ばかりなら最初からこんな保育制度の必要があろうはずがない。
「そんな愛情深い親ばかりじゃないでしょう?」
「だからこそ、ですよ。」
有巣の思想は五百城と全く同じ理屈から発していながら、全く違う方へと向かっていた。
「今や平気で親が子供を虐待したり捨てたりする世の中ですからね。僕には信じがたいことですが。我が子が可愛いと思えない親はこういうシステムがなければ子供にどんなことをするか、わかったもんじゃない。最悪の事態には返却できるとわかっていれば、人は冷静に子供と付き合っていけるはずですよ。」
ここでは、と有巣は言う。
「子育ては義務じゃない。権利なんです。」
五年前。
この年は子供が被害者となる残虐な事件が全世界的に多発した年だった。子供を自治体の管理下におこうというアイデアを現町長が提案したのはちょうどそんな時であり、この公約を引っ提げて立候補した彼は圧倒的な支持を得た。世論が味方したこともあって、この選挙は全国的に話題になった。善なる子供をみんなの手で守ろう、と追い風を受けてこの運動は全国的な広がりさえ見せかけた。熱しやすく醒めやすい国民性は次に起きた巨額不正融資事件にいっせいにその関心の矛先を変え、その運動もさほど長続きはしなかったが、ここ甲田町では、この時制定された条例が五年目の今でも機能しており、そのための入植者がわずかながら年々、増加の傾向にあるのだ。
「昔ながらの生活苦、というのは今ではすっかりなくなりましたが、親の精神障害というのは増えていましてね、育児ノイローゼによる幼児虐待や無理心中といった悲惨な事態を防ぐため、子供はいつでも公的機関に返却していいことになっているんです。」
言いながら有巣は次のガラス戸を覗き込む。
そこは先程よりもう少し年嵩の子供達、四、五才だろうか、が初老の男性が読んで聞かせている紙芝居を食い入るように見つめていた。
「折角だから」
とだけ有巣は言う。折角紙芝居に夢中になっているのだから声はかけまい、というつもりなのだろう。彼は今度はガラス戸を開けず、そっとその前を通り過ぎた。
「子供を返却できる。そういう逃げ道があれば育児ノイローゼに追いつめられることも少なくなります。そうなれば、子供だけじゃない、大人も救うことができますから、一石二鳥です。ね、いいアイデアだと思うでしょう?僕はこの条例があったから五年前にここに越してきたんです。」
有巣は第三の扉を開けた。
そこはそれまでの部屋より数段広いスペースで、滑り台や大きな家、ブロックやぬいぐるみなど様々な遊具が置いてあり、色んな年齢の子供が入り交じって遊んでいた。
「どうぞ」
と有巣は今度こそ部屋の中に五百城を入れてくれるらしかった。
「しかし驚いたな。」
と五百城。施設のことではない。
「なんだか、アリスさんは子を持つ親の気持ちがとてもよくおわかりのようだ。」
それも理想としての親の気持ちが、と多少皮肉まじりに彼は言った。実際の子育てはそんなもんじゃない、と言いたい気持ちが二児の父親である五百城にはある。
「そうですか?」
と有巣。
遊んでいる子供の何人かがやはり有巣に気づいた。彼らはまた駆け寄ってくる。
「アリスのおじちゃんだ。」
子供の一人がそう言った。さっきの部屋ではお兄ちゃんだったのに、もうおじちゃんと呼ばれているのが五百城にはおかしい。
「おじちゃん、どうしたの?」
もう一人が言う。
「やあ、君たち」
有巣は笑いかけながら、
「あきらを見なかったかい?」
「あ、あっち」
子供の一人が後ろを振り向くと、
「おーい、アリスー、お父さん、来たよー」
「お父さん?」
思わず声に出したのは五百城。
「ええ」
と有巣。
「僕も親の資格を有する町民の一人なんですよ。」
「驚いたな。」
五百城は溜息混じりに呟く。
広い中庭には背の高い木々が芝生沿いに並んで立っている。木陰になっている道を歩き、道沿いのベンチに五百城と有巣、その息子あきらは座っている。こうしていると何だかサナトリウムに来ているような錯覚を五百城は覚えていた。
「ここの案内役を僕がしているのも、僕がここのシステムを実際に利用しているからということがあるんです。」
四才になったばかりだというあきらを膝に抱いて、有巣は笑いながら説明した。
「実際に利用してみないとわかりにくい点も若干ありますからね。」
「じゃあ、」
と五百城。
「奥さんもこのシステムには賛成というわけで…」
「いえ、結婚はしてません。」
「え、じゃあ、独身、ですか?」
「そうです。」
あきらは大人しい子供だった。しばらくは若い父親の膝の上でじっとしていたが、もぞもぞし出すと、そっと父親のシャツを左手で引っ張った。え、なに、と有巣はあきらの口元に耳を寄せると、あきらは小さな声で、遊んできてもいいか、と訊ねたらしかった。
「いいよ、行っておいで。プレイルームに行くかい?」
父親に言われて、あきらはそっとうなづく。
そろりと膝から下りるとぺたぺたと走っていってしまった。
「失礼ですが」
小さな背中が見えなくなったのを見計らって、五百城は切り出す。
「あきら君の実の親たちは…」
「さあ、僕にはわかりません。」
五百城にはその説明がわからない。
「そういうシステムになっているのですよ。」
と有巣は言った。
「親の資格を有する町民も子供を選ぶことはできません。申請を出して、その後、自宅に子供を我々職員が連れて行くのですが、それがどんな子なのかは前もってわからないことになっているし、他にどんな子が保育所にいるのかも知ることはできません。子供を比較して、この子がいい、とか、あの子はいやだ、とかは言えないことになっているのです。」
「子供を選ぶ権利は親にはない、ということですか?」
「そうです。でも、普通、そうでしょう?お腹の中からどんな子が生まれるか、選ぶ権利は親にはないんです。それと一緒です。」
「一緒、ですか?」
「ええ」
「でも、気に入る子がくるまでその親はいくらでも返却することはできるのでしょう?」
「ええ。でも、それをやると親の資格を有する、とはいえないので、その時点で資格を失う可能性もあるんです。」
「至れり尽くせり、ですね。」
「ま、そういうことです。」
今度は五百城の皮肉がわかったのだろう、固い表情で有巣は相槌を打った。
風に有巣の前髪がさらさらと揺れる。流行りのスタイルのようにも思えたが、人の良さそうな穏やかな表情からは流行を意識しているようなイメージはなかった。むしろこれが彼の昔からのスタイルなのだろう。こんなに若いのに、と五百城は不思議に思う。
「アリスさんは」
と訊いた。
「どうして親に?」
「自分が家族にいてほしいからです。」
と有巣。五百城にはわからない。ならば、有巣は何故、結婚しないのだろう。
風がそよいだ。薫風香る五月であることを誇らしげに主張しながら、風が蒸し暑い気温の中を吹き抜けていった。
「かつて子供は地域ぐるみで育てたもんです。隣りの人たちも本気で怒ってくれたし、才能ある者は金を持っている者が上の学校へと行かせてやった。それを考えたら、そうおかしな制度だとは思いませんけどね、僕は。」
その時代を知りもしない若い有巣がもっともらしくそう言って、五百城には何だか滑稽に見えた。有巣は国がこのシステムに懐疑的なのを知っているのだろう。幾分挑戦的なその視線を見て五百城はそう思った。
「でも、」
と五百城。
「いづれ子供は独立し、離れていくでしょう?」
「ええ、まあ、そうです。」
「そうなったらどうするんですか?」
「その時は、」
と有巣。
「次の子供を役場にお願いしますよ。」
答えは明快だった。
あの子供達は。
五百城は思う。
保育所に今、いる、あの子供達はまだ申請されていないのだろうか。それとも、返却されたのだろうか。
だが、答えを聞くのは怖かった。
「それでお前はどう思ってるんだよ。」
次の日は木下は非番であった。早速喫茶店に引っぱり出して五百城は彼を追求した。
「俺にはわからんよ。」
木下は簡単にギブアップした。
「制度のうたっていることは、なるほど、と思えるんだが、なんか、もっと根っこの方でどうもしっくりこない。」
それは我々が古い概念から抜け出せないからなのか、それともこの制度自体に欠陥があるからなのか。
「しっくりこない、じゃすまないんだぞ。俺は県庁に戻ったらレポートを作んなきゃなんないんだぞ。」
「まあ、がんばれ。」
あくまで木下はひとごとだった。
かんらんかんらん、とドアベルが鳴って、焦げ茶色のドアが開く。
「今年は梅雨入りが早いって本当らしいわねえ。」
声高に喋りながら女性達が店に入ってきた。確かに今日も蒸し暑かった。
「ともかく、」
と木下。
「俺の女房はここでは子供を作りたくない、と言っている。」
「なんで?」
「転居の際、子供を置いてかなきゃなんない。」
「なるほど。」
「今度の学校はどうかなー、と思って。」
一際、声高に囀りながら女性達はテーブルについた。いやでも耳に入ってくる声だった。
「パソコンは習わせてるんでしょ?」
「お薦めはどこ?」
「どこまでやらせたいかによるわよ。」
子供を育てているらしい会話が耳に入って五百城は思わず聞き耳を立てる。木下を見ると彼も同じ顔である。
「英語は?」
「やらせてるわよー。」
「英語は毎日、喋らないとダメだそうよ。」
「え、でも、家では誰が喋ってあげればいいの?」
「そりゃあ親でしょ?」
「でも、私は喋れないわよ。」
「あそこの店には行った?」
「行った行った。」
話はあっさり別方向へ向かってしまった。
(終わり)