(ゼロ)の男                         オーディンの森

一、雲英 二、コンビニ

 

三、悪魔

朝の光が磨り硝子を通してぼんやりと差し込む。

あたたかな光に包まれた部屋の真ん中で薄目が開く。ぼうっと霞む視界に天井を映してダイコクはようやく自分が朝になって目が醒めたことに気づいた。なんだか、ずいぶんと長いこと、こうやって仰向けに寝かされていたような気がした。いったい誰の記憶だろう。

 気がつくと、脇腹や胸が息ができないほどに痛んでいた。

 夢を見たのは覚えている。蛇にしめつけられる夢。あるいは痛むからあんな夢を見たのかもしれなかった。

さて、起きるか。

現実の社会で生きている以上、働いて金を稼がなければ飯も食えない。電気も点かない。水道も使えやしない。ダイコクはがばっと起き上がる。起きた瞬間、息が止まるほどに痛んだ。

どこかで打ったか。

覚えもなくてダイコクはとりあえず階段をぎしぎしと下りてくる。階段を下りきると風呂場の硝子戸をがらがらがらと音を立てて開けた。寝汗をかいて気持ちが悪い。シャワーを浴びて目を覚まそうと思ったのである。風呂場の板戸も飴色に古ぼけた木造だったが、シャワーだけはついている。物臭な息子を心配して母親がつけたのである。心配性の母親も今は再婚して北海道にいる。遠くにいてくれるのは有難い。母にとって息子はいつまでも息子のようで、いい年をして子供扱いされるのはやりきれなかった。

 シャツを脱ぐ。ズボンを脱ぐ。パンツも脱いだ。

 シャワーをひねる。

 すぐにお湯は出ない。しばらくは水だったが、それでもダイコクは待てなくていつもすぐにシャワーを浴びる。

 あ、と思った。

水がかかった途端、激しい痛みがからだを走った。びっくりしてからだを見る。唖然とする。胸と言わず腹と言わず、まるでたった今まで縄で縛られていたような赤黒い痣がうねるようについていた。いつついたのか全く記憶になかった。覚えがあるとすれば夢くらいのものだが、夢では痣のつきようもない。

 

 店を開ける。

 本棚から適当な本を選んでレジに座る。からだがだるい。薄ら笑いを浮かべていられる状態ではなくて仏頂面で座っていた。

 入り口に影が差す。

 レジは入り口の真正面にあるからすぐにわかる。客が来たのである。長い髪がすぐに本棚の隙間に消える。どうやら女のようだった。こつこつという足音もきっとハイヒールで、やはり女である。

 ダイコクは顔を伏せて熱心に商売物の本を読みふけった。熱心に読みふけっているうちに、こつこつこつという足音が段々近づいてきているのに気がついた。気に入りの本をみつけたか。こういう足音はいつも買う客の足音だ。

 本の上に影が差して足音が止まる。

 見ると目の前に一人の女が立っていた。髪が長い。目が細い。おまけに唇の形がよかった。

「こんにちは」

にっこり笑って女は言った。

「こんにちは」

とダイコクも愛想笑いを浮かべて応える。が、それきりである。女はそれ以上何も言わない。

「何かお探しですか?」

仕方がないのでこっちから訊いてやる。女は相変わらず微笑んで、

「蛇を見た?」

と言った。ダイコクは沈黙する。

 一瞬、何故、夕べの夢のことを知っているのか、と思った。だが、別に知っている、と言ったわけではない。

「蛇がどうしたの?」

ややあってようやくいつもの薄ら笑いを浮かべるとダイコクは問い返した。別に夢に蛇が出てきただろう、と言ったわけではない。そういう偶然はあるかもしれない。

「ダイコクさん」

と声がした。見ると再び入り口に影が差して、声の主はイトウだった。イトウは何か言いかけて女に気がつくと急に黙った。人見知りをする性格である。

「誰?」

と訊いたのは女だった。もっともそれはこっちの台詞である。

「…イトウ、です」

上目遣いで薄ら笑いを仕方なしに浮かべてイトウが名乗った。見ず知らずの女に名乗るにはあまりに卑屈な態度だとダイコクは思った。が、すぐに、

「おたくは?」

イトウが珍しく居丈高に反撃した。自分でも自分の卑屈さに気がついたのだろう。

「なむち」

と言ったのは女だった。

「は?」

と言ったのはダイコクだった。

「あれ、」

と言ったのはイトウで、急に顔をほころばせて、

「じゃあ、ダイコクさんと同じ名前なんだ」

実に無邪気な反応をした。

「黄泉比良坂、なむち、っていうの」

と女は言った。

「よもつひらさか、っていうと」

とダイコク。

「古事記にでてくるよね」

「御存知?」

と女が訊いた。ダイコクは頷くと、

「あの世とこの世の境にあるんだろ」

「えっ、」

とイトウ。

「じゃあ、この人、あの世から来たんですか?」

と言って、こいつ馬鹿か、とダイコクは思わず舌打ちを打つ。女はおかしそうに笑うと、

「それもいいわねえ」

と言った。

「よかないだろ」

とダイコク。この女、少しおかしいのかもしれない。でなければ、変なことを考えているか、である。困ったな、とダイコクは思った。

「最近、」

とダイコクが言う。

「オカルト研に入っているって学生につきまとわれていてね、」

「それって僕のことですか、」

とイトウ。ダイコクは無視して、

「今度は黄泉比良坂、なんてのも縁起でもねえ話だねえ」

「変わった友達が多いのね」

とよもつひらさかなむちは言ったが、ダイコクは無視して、

「誰に聞いた?」

「誰に、って?」

「うちの爺さんは有名だったからな」

祖父は霊能者で有名だった。祖父の関係なら那牟智の名前を知っていてもおかしくはない。

「あの世から来たってことじゃだめなの?」

と女はわけのわからないことを言った。頭が少しおかしい方が当たりなのかもしれない。

「だめだね」

とダイコク。女は目を大きく見開くと、

「なんか、存外に現実的ね」

とぼやいた。

「あいにく、オカルトの類は信じていなくてね」

とダイコク。

「じゃあ、悪魔、」

「だめ」

「なんだ、つまらない」

言ったきり彼女は踵を返すとそのまま出ていってしまった。

「何ですか、ありゃ」

イトウはきょとんとして女の後ろ姿を見送る。

「たちの悪い悪戯さ」

とダイコク。

「ねえ、」

とイトウ。見ると、ダイコクはもう本に戻っていた。

「ダイコクさん、ダイコクさん」

「何だ」

「…今日は御機嫌斜めですね」

珍しいものを見るようにイトウが言う。確かに、とダイコクも素直に認める。何もイトウに当たることはない。

「からだの調子が悪くてさ」

と素直に白状した。

「脇や胸が痛むんだ」

「…幽霊の祟りじゃありませんか?」

「なわけないだろ」

ダイコクは幽霊が見えるくせにその手の話はあまり信じない。

「だいたい何で祟られなきゃいけないんだよ」

「昨日、幽霊を追跡しました」

「ああ、あれは」

さすがにまずかったかな、と自分でも思っていた。でも、

「お前は何ともないんだろ」

「何ともありません」

「ほら見ろ」

でも、とイトウ。

「もし、それが幽霊のせいだったら僕、責任感じちゃうな」

「ちゃうな、って面か」

「僕っ、ダイコクさんはっ、そんなことは言わない人だと思っていましたっ!」

そんなの勝手に決めるな、と毒づきながら相変わらずイトウに当たっている自分に苦笑する。

 確かに夕べの件はイトウが言い出さなければ行かずにすんだことだったが、それとこれとは関係がない。この痛みが幽霊と関係があったとしてもそれはダイコクの体質でイトウのせいではなかった。

「でも、」

とイトウ。急に声をひそめると、

「さっきの人、ホントに悪魔だったりして」

ダイコクはさすがにあきれかえって、

「馬鹿か、お前は」

イトウはむっとする。

「馬鹿じゃないですよ。僕、大学生ですよっ」

「お前、少しは現実的に物を見ろよ」

「だって、ダイコクさんだって、幽霊見た、って言ったじゃないですかあ」

「それとこれとは別だろう」

「悪魔だって幽霊だって僕には同じですよ、僕には見える分だけあの悪魔の方がリアルですよ」

と言い捨てた。

なるほど、それも理屈かもしれないとダイコクは思った。だが、幽霊も悪魔もいないと思うのが普通ではないだろうか。

「その理屈でいくと、」

とダイコク。

「お前、俺が神だって言ったら信じるのか?」

「信じます」

からかったつもりで言ったのだが、こうも言い切られるとどうしていいかわからなかった。この自信はどこからくるのだろう。ダイコクは知りたくなって、じゃあ、と言う。

「あそこの黒猫が神様だって言われたら信じるのか?」

イトウは入り口の外に見える猫に目をやってから、

「いえ、」

と言った。

「…なんで?」

「だって、僕、あの猫、よく知りませんから…」

「なるほど」

「何が?」

「いや、別に」

何がなるほどなのか、自分でもよくわからない。

「そういえば、」

とイトウ。

「あの時計、どうしました?」

「時計?」

「ほら、ダイコクさんが夕べ拾った。もらっちまおうか、って言ってたじゃないですか。」

 あ。

 思い出した。

ダイコクは急いで皮のジャンバーのポケットをまさぐる。

「あ」

手が固い物に触れて引っぱり出された物は腕時計だった。夕べ、拾ってそのままポケットに入れてしまっていたのだろう。

「なるほど」

何故だかわからなかったが、時計を見た途端、納得してしまう。

「何が、なるほど、なんですか?」

イトウが訊いたが、それはわからない。ただ合点してしまっただけだった。理由も理屈もない。ただ、意味もなく納得がいっただけである。

「これのせいで祟られたんじゃないでしょうね」

とイトウは言った。祟るとかそういうことではないのはわかっていた。そういうのではない。

 だが、悪魔は憑いたかもしれない。

 

 

 四、エレベーター

 

 次の日。

「また、」

とダイコク。

「来たのか」

「来たわよ」

と言ったのは、なむち、と名乗った女だった。

「イトウが、」

とダイコク。

「あんたのこと、悪魔だってさ」

女は気持ちよさそうに笑った。

「嬉しいわ」

「面白いか?」

とダイコク。

「何が?」

と女。

「人、からかってさ」

「まあね」

女は逆らわなかった。

「何、読んでいるの?」

と訊いた。

「『四書集注』。」

と教えてやる。別に教えたくない理由もない。

「なに、それ」

と訊かれてダイコクはむっとする。どうしてだかわからないが、

「四書集注くらい知っとけよ」

と毒づいた。

「だって、」

と悪魔。

「知らなきゃいけない理由でもあるの?」

理由のつけ方がダイコクに似ていてダイコクは面白くない。黙って本に集中する。

「ねえ、」

と悪魔は存外に寂しがりやなのか、また喋り出す。まあ、人間や神とともにいたがるのだから、悪魔はやはり寂しがりやなのだろう。

「私、ここ、住んでみたい」

とこの悪魔はそう言った。ダイコクは首を傾げる。

「住み込みの客なんて聞いたことないな」

「だって、ここすごいレトロなんだもの」

「気に入ってくれて嬉しいよ」

「じゃあ、住んでいい?」

「通いで結構」

なんだ、つまらない、と悪魔は一人ごちた。

「悪魔、っていうと」

とダイコク。

「あ、信じてくれてるのね」

「…何か悪さをしなきゃいけないのじゃないか?」

馬鹿ね、と悪魔。

「悪魔は何もする必要はないのよ」

「なんで」

「人間の側にいるだけでじゅうぶん」

そういうと艶然と笑ってみせた。こいつ、本当に悪魔かもしれない、と思うのはこういう時である。勿論、思うだけである。

”悪魔”はあれ以来、大黒屋の馴染み客になっている。

主人が主人だから客も奇妙なのばかりつくのかもしれない。そうぼやくと、

「それって、僕のことですかっ」

憤然とイトウが噛みついた。時々イトウは妙に自意識が高くてダイコクはやりにくい。

「誰もお前だって言ってないだろう」

「だって、」

「大体俺がなんでお前にそんなに執着しなきゃいけないんだよ」

と言うと、

「どうせ僕はどうでもいい人間なんです」

とすねて、やりにくいことこの上なかった。梅雨が近い。時に人間もおかしくなるのかもしれない。

 そんなことより、とイトウが言った。

「こないだの時計、」

「時計?」

「ほら、ダイコクさんが幽霊から猫ばばした」

「人聞きの悪いことを言うな」

だが、あながちはずれてもいないかもしれない。悪魔と名乗る女が現れたのも蛇の夢を見たのもあの日を境にだったと思うと、まんざら見当違いでもないかもしれなかった。幽霊に迂闊に関わってはいけない、と言ったのは祖父だった。幽霊にもいろんなのがいるから逆恨みされることもある、だから、安易に関わるな、と散々脅されて育ったおかげで、ひどく用心深い子供になってしまった気がする。イトウが俺をゼロだと言ったが、それもそのせいなのかもしれない。正直、ゼロでないと怖いのである。

「あの時計がどうした?」

「警察に持っていきました」

「は」

「交番に届けたんです」

「ああ」

「半年たっても持ち主が現れなかったら、ダイコクさん、もらえますよ」

「…ああ、ありがとう」

「いいえ」

礼を言われてイトウはひどく嬉しそうな顔をして誇らしげに胸を張った。なんだか可愛いな、とダイコクは思わないでもない。

 だが、その後、それは思わぬ展開をする。

 一週間後のことである。

「ダイコクさんっ、大変ですっ」

とイトウが大黒屋に駆け込んできた日は雨が降っていた。

「おう、雨降ってんな。大変だな」

「違いますよっ、こないだの時計、覚えてますか」

「時計?」

ダイコクは覚えていなかった。忙しかったのである。

「ほら、あの、幽霊が落としていった」

「誰が幽霊が落としたって言ったんだっ、」

「あの時計、」

イトウはダイコクの抗議を無視して、

「落とし主が見つかったんですよっ」

何だ、そんなことか、とダイコク。

「別にいいよ、本気で欲しかったわけじゃないから」

「そうじゃないんですよっ、あれ、持ち主がホントに幽霊かもしれないんですよっ」

「は」

イトウは、警察から今朝、電話があって時計の落とし主が半年前から行方不明だということを知らされた、と言う。

「それで、僕、いろいろ突っ込んだこと、聞かれちゃって、」

「まさか、幽霊追っていて、とか言ったんじゃないだろうな」

「言いました」

「お前、馬鹿かっ」

「本当のことじゃないですか」

ダイコクは頭が痛くなった。

「本当のことが通じる世の中か」

「だって」

「そういう非科学的なことは迷信、俗信と言ってだな、警察とか会社とかで大真面目に発言してはいけない事項になっているのを知らんのかっ」

お前、就職して苦労するぞ、と散々非難してから、

「で、警察は何て?」

「…ダイコクさんと同じことを言われました」

「ほれ見ろ」

「それに、ダイコクさんにも事情を聞きたいって」

「かあーっ」

俺にまで持ってきやがる、と悪態をついた。

 しかし、こればかりは仕方がないので、ダイコクはイトウと連れだって交番へと出かける。

 応対に出てきたのは初老の物わかりのよさそうな男だった。私服だが、やはり警察官なのだろう、

「いやあ、落とし物を届けてくれたのは嬉しかったんですけどね」

しょうことなしに笑いながら、

「小学生じゃあるまいし、幽霊探検だなんて、二十歳過ぎの大学生に言われたら、そりゃあ、あきれますよ」

「はあ、仰るとおりです…」

「親御さん、苦労して大学までお入れになって、お泣きになりますよ」

「だから、やめろ、って言ったんですけどね」

「お兄さん、ですか、あなたも」

「いや、知り合いの古本屋です」

「まあ、あなたも分別のあるお年のようですから、」

いつまでも若い者の道楽につき合っていないで、云々、と何だか行方不明者とはあまり関係ない説教を延々と聞かされて、時計に関してはどこで拾ったのか、具体的に聞かれただけであった。

「あの、」

とダイコク。

「時計の持ち主はどんな人なんですか」

近くなので見かけているかもしれない、と言うと、男は、

「大学生です。二十歳くらいの。行方不明になった時には黄色いジャンパーを着ていたらしいことはわかっているんですが」

「大学生、というと、じゃあ、やはり、Gパンかなんかはいていたんですかね」

「ああ、そうですね。そのようですね」

あとお気に入りの赤い野球帽が部屋からなくなっているのできっと失踪当時に被って行ったものと思われます、と彼は手帳を見ながら教えてくれた。

「何か心あたりでも?」

「いや、知り合いにも聞いてみます」

これも何かの縁ですから、と言うと、よろしくお願いします、と男は頭を下げた。

「何だか、」

交番からの帰り道、イトウは、

「ダイコクさん、ずるいな」

と文句を言った。

「みんな僕が悪かったみたいにいいわけして」

「だって、そうじゃないか」

お前が行きたい、って言ったから連れていってやったんじゃないか、とダイコクが言うと、

「でも、ダイコクさん、別に止めませんでしたよ」

「理屈を言うな」

ああでも言わなきゃ挙動不審者のブラックリスト入りだぞ、とダイコク。でも、とイトウは釈然としない。

「でも、」

ともう一度、言った。

「今度は何だ」

「間違いありませんね」

「だから、何が」

「行方不明、ですよ」

あの幽霊に間違いない、と言うのである。

「まあな」

とダイコクは気がないように言った。

「そうかあ、死んでたんだなあ」

感に堪えぬようにイトウが言って、

「おい、」

とダイコクは注意する。

「人一人死んでいるかもしれないんだぞ。そんな嬉しそうに言うな」

「だって、」

とイトウはますます喜色満面に浮かべて、

「僕、オカルト研なんですよ。これが喜ばずにいられますか」

明日、早速、クラブで発表しよう、と言ったに及んで、

「お前っ、」

ダイコクは怒った。

「人の命を何だと思っているんだ!」

「だって、寿命でしょ。僕が殺したわけじゃないし、人は死ぬって決まっているんですから」

と言うと、さも真面目げに腕を組み、

「それにですよ、今、テレビも新聞も人の死体とか映さないじゃないですか。あれは僕は偽善だと思うなあ。事実、人は死ぬんだから、隠す方がおかしいですよ」

「お前、」

とダイコク。

「はい?」

「二度と店に来るなっ」

「ダイコクさんっ、」

まだ何かイトウは喋っていたが、今のダイコクは聞く耳持たなかった。

 全く。

 馬鹿な奴と関わってしまった、と猛烈に後悔した。

 

 人に魂があるのか、ないのか、本当のところをダイコクは知らない。どう思うかは人の勝手だし、実際のところ、確かめる手だてもないだろう。自分の目に映る幽霊と呼ばれる諸々の映像だとて本当に霊なのか、あるいは自分の幻覚なのか、自分でも区別できるわけではない。ただ、その見えるものが、多く実在の人達と当てはまるから霊なのだろう、と思うだけのことである。

 イトウが言ったことに間違いはなかったが、間違いがなければ許されるというものでもない。ああいうのを無神経というのだ、とダイコクは腹立たしかった。おかげで今日は一日、何を読んでも頭に入ってこなかった。

「自分がいっぺん死んでみやがれってんだっ」

悪態をつきながら冷蔵庫を開けるとビールが切れていた。小さく舌打ちを打ってダイコクは今脱いだジャケットをもう一度羽織る。ポケットに黒い財布を突っ込んでコンビニまで缶ビールを買いに出かけるのである。

 コンビニといえば。

 あの幽霊がいたところだよな。

 コンビニまでさほど距離はない。車も通らない車道をのろのろと横切りながら、コンビニの明かりが見えてきたところでダイコクは思わず立ち止まった。

 あ。

 黄色いブルゾン。

 赤いキャップ。

 あの幽霊が前を歩いていた。

時計を見る。

十時五分。

 確かこの前もこの時間じゃなかったか。

 この時間にコンビニに来たことはそれまでにはなかった。いつも九時頃で、いつも立ち読みする幽霊しか見たことがなかったが、あるいは、毎日、彼はこの時間にはコンビニを出るのかもしれなかった。

 そして、どこへ行く?

 これもなにかの縁だ。

 止せばいいのに、と胸の内が呟くが、これも縁さ、といいわけをして、とりあえず、幽霊の後をついていく。あるいは、イトウよりも自分の方がよほど物見高いかもしれない。

 この前の道。

 この前の角。

 幽霊はこの前と同じ道を辿りながら歩いていた。ポケットに手を突っ込んで少しがに股だった。ゆっくりと白いスニーカーが地面を蹴る。すべてこの前と一緒。ゆっくりと地面を蹴って、ともすれば消えてしまいそうなその足にダイコクはついていく。

 そのうち、考えた。

 すべてがこの前と同じなら。

 ダイコクは白いスニーカーを追跡するのをやめて右に曲がる。こちらに行けば大通りへの近道になる。大通りを少し入ったところに黒っぽい外壁のビルがあった。この前、幽霊が消えたところである。すべてがこの前と同じならきっと幽霊はここに行くつもりに違いなかった。

 上を見上げる。黒っぽい外壁に数えて五つの通路がある。一階から数えて六階建てのビル。少しうろうろする。奥まったところにエレベーターがあった。傷だらけの扉。ダイコクは左側にある三角のボタンを押す。エレベーターの奥でぶーんと低いモーターの音が思いもかけずに大きな音で響いてきた。がくんと大きな音がして扉がすーっと開く。狭い四角い箱。ダイコクは乗る。何だか石鹸の匂いがして、きっと先客は湯上がりだったのだろう。とりあえず屋上に上がろうと思った。屋上から幽霊が見えるかもしれない。最上階の6のボタンを押した。うつろにオレンジの光が灯る。がたんっと大きく揺れてぐいいんと音も猛々しくエレベーターは動き出した。三方に黒いフェルトが貼られている。きっと落書きがひどいのだろう。なんだかその中にいると棺桶に入れられたような気がして落ち着かなかった。がくんっと揺れる。着いたか、と上を仰ぎ見る。扉の上に階数を表す数字が灯っている。数字は四である。扉がすーっと開いた。扉の向こうには誰もいなかった。

 

 

 五、発見

 

 「ダイコクさん…」

まるで消え入りそうな声が入り口からして、ニキビだらけの大きな顔をイトウが覗かせたのはそれから三日後のことだった。

「おう」

と那牟智は一瞥をくれただけで、また目を落として読みかけた本に戻った。

「あの」

とイトウ。

「何だ」

とダイコク。

「まだ怒っていますか」

「何を」

「何を、って、この間の警察のことですよ」

思い出した。イトウが幽霊騒ぎを面白がったことに自分は腹を立てていたはずだった。

「ああ、思い出したよ」

言って顔を上げると、イトウが薄ぼんやりと卑屈な笑いを浮かべて立っていた。

「あの、すみませんでした」

「ああ」

イトウはイトウなりに反省したらしかった。

「わかりゃいいよ」

と那牟智はまた目を落とした。それから思い出したように、

「イトウ」

「はい?」

「お前、こないだのビル、覚えているか?」

「ビル、ですか?」

「ほら、幽霊が消えた」

「ああ、時計を拾ったところですね」

覚えていますよ、とイトウ。

「あそこの屋上にあがって、コンビニがどっちの方向にあるか見てこい」

「方向ですね」

急にイトウは目を輝かせて、合点承知とばかりに飛び出して行った。

 あの夜は結局、あれから幽霊に出会うことはなかった。四階でエレベーターが止まったのに驚いて早々に帰ってきたせいもあったが、興味本位に幽霊を追いかけた自分にその実、うんざりしていたのだった。イトウには偉そうなことを言ったが、もっとも物見高いのは自分だな、としみじみ思った。関わるな、と胸のあたりがざわざわし通しの三日間だった。やれやれ、と思った。わかっている。わかっているよ。彼はざわつく心臓を人差し指で軽く叩く。ゼロに戻さなくては。でなければ背負いこんでしまう体質なんだぞ、俺は。ゼロでなければ見えてこないことが山ほどあって、でも、何だか本当に背負いこみそうで本気で怖くなっていた。

 ふっと顔を上げる。目の前に女が立っていた。悪魔と名乗った、あの女だった。

「驚いた?」

嬉しそうに黄泉比良坂は笑った。

「驚いたよ」

那牟智は仕方なく正直に告白する。うふふ、と女は心底嬉しそうに含み笑いをしただけだった。

「何、読んでるの?」

「『唐詩散策』」

「何かあった?」

と黄泉比良坂。勘が鋭いのか、そうでなければ、本当に悪魔なのか、どっちかだろう。

「別に」

事実、何かあったというわけでもない。

「幽霊でも見た?」

那牟智は顔を上げる。それで充分だったのだろう、

「あ、当たった?」

「あんた、」

と那牟智。

「爺さんの知り合いだったんだよな」

祖父が霊感が強かったことは有名だった。

「知り合いじゃなかったけど、」

と悪魔も正直である。

「私は知ってたわよ」

「なるほど」

と那牟智。知り合いじゃなかった、ということは、祖父が死んでいることも知っているわけである。

「従兄弟にでも聞いたのかな」

「だから、悪魔だってば」

「はいはい」

まぬけな会話にうんざりする。

「従兄弟いるの?」

「いるよ。強力なのが」

「強力?」

「ああ。トライアスロンとかやってるの」

「鉄人レースの?」

「ああ。筋肉もりもり」

「いいじゃないの」

「医者もいたな」

「あら、賢い従兄弟じゃないの」

「OLとかもいるよ。今は主婦だっけ」

ふうん、と比良坂は興なげにうなづいてみせただけで、従兄弟の誰かと知り合いかとも思ったが、そういうわけでもなさそうだった。だとすれば北海道の母親が喋ったのかもしれない。

 ばたばたと音がしてイトウが真っ青な顔で走り込んできたのはそれからすぐだった。

「ダイコクさんっ、ダイコクさんっ、」

イトウは息を切らして、

「おおごとですよっ、エレベーター、」

「四階で止まったか」

「へ?」

やっぱりそうか、と那牟智は頬杖をついた。

「何で、」

とイトウは釈然としない。

「ダイコクさん、知ってるんですか?」

「夕べ、行ってきたからな」

「それじゃあ、」

とイトウは声を荒げると、

「ダイコクさん、知ってて僕を行かせたんですかっ!」

「超常現象に出会えて嬉しかろう」

そっけなくそう言って立ち上がると、

「なるほどな」

「何がですかー」

「幽霊だよ」

「え」

「あのビルの四階に用があったってことだろうな」

「ひっ」

それがイトウの答えだった。

 この世の中は正義とか愛とか善とかだけが道理というわけではない。それらと同じくらい強い力で理不尽という道理が存在している。幽霊が見えるのなら成仏できるように供養してやればいいじゃないか、という者は多いが、それは理不尽という道理を理解していない者の発言だとダイコクは思っている。供養してやろう、と思った時に、幽霊はその人間に憑くのである。そうなれば下手するとこちらも命を落としかねない。嘘か本当かを問われても証明のしようがないので人には言わないが、少なくとも祖父はそう言い切る人間だったし、ダイコク自身そう感じることは事実だった。理不尽だが、世の中にはそういうこともあるというのを知っておかなければ、世の中に対してどす黒い疑問を抱えて生きていかなければならないだろう。純粋に善を信じている者ほど理不尽を知った時、恨む気持ちはすさまじいものがある。善のエネルギーはかくして容易に強烈な負のエネルギーへと転換する。理不尽があることを知っていれば、まあ、そういうことだろう、とあきらめもつくのだが。

「何でだろう」

とダイコクは聞いたことがある。父に、である。

「何で、理不尽な目に遭うと恨むんだろう」

「当てが外れるからだろう」

「当て?」

「善人というのは報われたいと思ってるわけだから」

でなきゃ、と父は、

「馬鹿馬鹿しくて善人なんてやってられないからな」

あっさりと言った。

 しかし、それでは優越感の域を出ないのではないか、と最近になって那牟智は思う。それとも善そのものが優越感の生み出した幻想なのだろうか。

 理不尽に対して理解の深かった父は自分の早すぎる死に対しても騒ぐことなく従容として受け入れて早や十五年が経つ。

「どっちにしても、」

と那牟智。

「これで限界ってことだな」

と彼は言った。

「何がです?」

とイトウ。イトウにはその理不尽がまだわからない。

「幽霊だよ」

と言った。

「四階なら行ってきましたよ」

「え?」

「だから、四階。あのビル、一フロアーに八軒も入ってるんで大変だったけど」

「八軒、って、何してきたんだよ」

「え、だから、こんな人を知りませんかって」

「え」

「赤い野球帽かぶって、黄色いブルゾン着た男を知らないか、って…」

「聞いて歩いたってのかっ?」

「ええ」

イトウはとっくの昔に限界を超えてしまっていた。まさに見えない者の強さというものである。

「かあーっ」

那牟智は頭を抱え込んだ。

「知らないぞ。警察にまた呼び出し食らっても」

「な、何でですかっ?」

「お前、馬鹿かっ」

「馬鹿じゃありませんよっ」

「もし、その男がホントに死んでたらお前、参考人で警察に呼ばれるかもしれないんだぞ。行方不明の男をなぜ探していたのかと聞かれて、幽霊見ました、じゃすまねえぞ」

「えっ」

今頃、えっ、もないもんだ、と那牟智は歯がゆい。

「下手して巻き込まれても知らねえからな」

「ダイコクさん、何とかしてください」

「馬鹿野郎、たまには自分で何とかしやがれってんだ」

捨て台詞で切り捨てた。

 

 が、そうはならなかった。

翌日の朝刊にスニーカーの幽霊の記事が載ったのである。勿論、幽霊自体が載ったわけではない。あの男が発見されたという小さな記事が載ったのだった。

 記事は行方不明だった何とか某という大学生が遺体で発見された、という事実を告げていた。発見現場は雑居ビルの四階だった。その部屋は大学生とつき合っていた女性の部屋で、部屋の住人は一ケ月前から旅行に行っていて知らなかった、と書かれていた。

「一体、何で死んだのかしら」

新聞の記事を読み上げていた黄泉比良坂は顔を上げるとそう言った。小さな記事で死因には触れていない。ふと目を上げた那牟智は黄泉比良坂の後ろ、本棚のそばに、いつ来たのか、髪の短い女がいるのに気がつく。小さな女だった。

「急に持病の癪でも起きたんでしょ」

イトウがいつになくぶっきらぼうに言った。あははと黄泉比良坂が笑った。髪の短い女が後ろでふいに花瓶を振り上げた。

「その女が犯人だろうな」

と那牟智は頬杖をついて小さな女を眺めながら一人ごちた。彼の視線に気づいて黄泉比良坂は自分の後ろを振り返る。が、もう何もいない。彼女は那牟智を見ると、

「見えた?」

「ああ」

と那牟智。黙っている理由もない。黄泉比良坂は察しがいい。

「きっとあの部屋に行く前にあのコンビニに行って雑誌立ち読みして、それから死んだのね」

あの部屋、とは彼女の部屋である。

「ああ、そうだろうな」

と那牟智。

「殺される理由もわからず、行った途端に殺されたのね」

「多分ね」

「死んだこともわからずに、あの幽霊はいつまで死ぬ直前のことを繰り返すのかしら」

「さあな」

こればかりはわからない。人間は生きていても死んでいてもなんだか切ないものである。

 でも、と黄泉比良坂。

「よかったじゃない?イトウさんのこと、どこにも書いてないわよ」

と明るく言ってイトウを振り返った。イトウは相変わらず不機嫌そうである。絶望のどん底にいるようにも見えるが、いつもと変わらない顔である。

「ほんと、」

と那牟智。

「お前、表情変わらないな」

「失礼なこと言わないでくださいよっ」

とイトウは怒った。

「失礼って面か」

イトウは憤然として、

「僕はダイコクさんはそんなこと、言わない人だと思ってましたっ」

「勝手に決めるな」

イトウはまた押し黙る。やれやれ、と那牟智。幽霊騒ぎが相当ショックだったのだろう。これに懲りて、と言う。

「オカルト研なんてやめるこった」

 とうとうイトウが死んだ男のことを聞いて回ったということは警察には知られなかったようで、それから一か月経って、犯人の女性が逮捕されてもイトウの元にも那牟智の元にも警察は現れなかった。人一人の不可解な動きは、時として人口に膾炙し、時として人目につかず埋もれていくものである。どんなに細心の注意をもってしても見られる時は見られるし、どんなに大胆に動き回っても知られない時は知られないままである。知られたい、知られたくないの思惑に関わりなく、何の確率も成り立たずにアトランダムに降りかかる。それはまるで雨垂れに脳天を打たれるのに似ている。ぼつんぼつんと落ち始めの雨垂れが脳天に落ちてくる感覚。偶然でもあり、必然でもあるのだろうか。その因果関係を解き明かせる者はいないし、それだからこそ、現実なのだろう。この世を支配しているのはそういう理不尽という現実かもしれなかった。

 コンビニへ行く。

雑誌のコーナーには今でもあの幽霊が立ち読みをしている。

 

                             (六、従兄弟 につづく)

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