オーディンの森

言葉のお店

受承る 〜 記号と意味の乖離

こないだバスに乗っていたらですね、↑のタイトルのような文字があったんですね。
「受承ります」と。
読ませ方は…とってもよくわかりますよね?
「うけたまわります」
ですよね?
そうなんじゃないの?と疑問に思った方いらしたかもしれませんが、「承る」だけで「うけたまわる」と読むんで、「受」は必要ないんですね。ええ、そういうことなんです(^^)

…(^^;;で、終り、じゃないんです;;
じゃあ何なの?的ネタではありますが、ここで思ったのはこの「承る」という字が「うけたまわる」という意味と結びついて初めて漢字というものが機能しているなということでした。
はい;;
こっからわけわかんなくなります;;
何のこっちゃ?という方、突っ込みお待ちしております(^^;;

で;;
言葉、ここでは漢字ですが、それはある約束事に立脚して成り立っていることに気づいたんですな。
「承」は「うけたまわる」って意味だよ、という約束事ですね。
つまり漢字の読み書きを習うということは、この約束事を覚えるということなわけですね。
この決め事が自然発生的に定着していくわけですよ。
で、「危」という記号を見たら、「あぶない」らしいと覚えてね、「崖」という記号を見たら「がけ」があるらしいとわかってね、というのが初歩的な約束事なわけでして、この約束事を使う双方が了解していなければ漢字という記号は機能しないということです。
で、考えてみると、漢字に限らず、言葉というもの自体がこうした約束事を了解している同士でのみ機能しているということになります。
約束事を了解していない同士となると、ここに双方の約束事に通暁した者の介在が必要となってきます。通訳ですね。
双方に通じる者がいなくなると、その言葉を理解する者は存在しなくなるというわけですね。
こうして滅びていった言葉が過去においていくつかありました。
滅びた言葉を理解しようとする作業はまず、この約束事を復活させることから始めることになるわけです。
これが解読作業というわけでして…

こういう流れを改めて意識的に見た場合、この「受承る」という誤字は、この約束事が破綻しつつあることを表していると見ることもできるわけです。 漢字は記号と意味の結合によってその機能を全うします。
「受承る」の誤字は、この結合の破綻による記号と意味の乖離を表してもいるわけです。

文字の習得作業、早い話が読み書きを覚えるということは、人間の意識の中で記号と意味の結合作業をすることでもあるわけです。
難しい漢字が苦手な人が増えてきていることがとかく話題になったりしますが、結局、漢字が読めるということは自分の中での表現方法としての記号が多いということで、自己表現だったり、コミュニケーションツールだったりするのかな、と何だかこむずかしく考えてみたくなったりしたのでした(^^;;
漢字の書き取りは単純作業の「お勉強」と思うと非常に退屈ですが、記号と意味の結合作業だと思うと…尚更退屈な気がしないでもない今日この頃(- -;;…こむずかしく考えた意味はどこにあるんだ…

考えてみれば、私のサイトの原稿書きというものは、これでもかというくらいに記号と意味をバラバラにする作業のような気がしないでもないようなこともないような…この作業の結晶を端的に表現すると「意味不明」に集約されるかと(違)

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