オーディンの森

ルーティンワーク                

青い空に白い雲。煙のようにたなびく雲の間を見え隠れしながら飛行機がまるで溜息のような微かな音をたてて白い尾を引きながら飛んでいる。お日さまはどこへ行ったのだろう。灰色の壁に囲まれ四角く切り取られた空のどこにも太陽は見えなかった。きっとこの建物の真後ろに燦々と輝いているに違いなかった。

ごうんごうん、という音にふっと我に帰る。

目の前では激しく音を立てながら水流が渦巻いていた。洗濯機。白いシーツがまるで助けを求めてでもいるかのように翻弄されている。ぐるんぐるんと回されたかと思うと、つかのま、立ち止まり、そして今度は反対の方向へとまた回り出す。ベランダで野ざらしの洗濯機はその薄緑色の薄汚れたからだを小刻みに震わせながら黙々とルーティンワークをこなしていた。

苗はもう一度空を見上げる。半間のベランダから眺める青空。真っ青な中に浮かぶ白い雲をしばし眺めてから洗濯機の中に目を落とす。

本当に青いわ。

回されるシーツをぼんやりと眺めながら彼女はもう目には映っていない青い空を愛でる。

こういう天気の日って好き。

瞳の中で白いシーツが柔軟剤の白濁色の水の中を喘いでいた。

やっぱり洗濯をするならこんな天気でなくっちゃ。

洗濯機が止まる。

苗は渦がまだ残る水面へと手を突っ込んでやっと開放されたシーツを掴んだ。飛沫とともに引き上げる。この洗濯機は二層式だ。シーツはすぐに隣りで暗い口を開けている脱水槽に放り込まれる。今度はさらに高速でシーツは振り回されるが、今度ばかりは苗にも見えない。蓋を開けると途端に身動きは止まる。安全のためにそう作られていた。蓋はかたんと閉まる。ごごご、と薄緑色のからだが激しい身震いをし始め、苗はまた空へと目をやった。

できたての飛行機雲はもう風にさらわれ始めていた。所在なげにかき乱され、空は相変わらず青い。

心が洗われるような青さだわ。

洗濯しながら心まで洗われるなんてできすぎ。

一人で言葉を作り、一人で苗は受けた。家の中には苗しかいなかったからだった。

ウィークデーの昼である。夫は当然まだ会社だ。そうでなければ困る。今日の弁当には夫が苦手な鯖の塩焼きを入れたけれど、ちゃんと食べただろうか。四十も近いというのにいつまでも好き嫌いが多くて困る。夫はいんげん豆も嫌いでついでにピーマンも椎茸も嫌いだった。何も作れないじゃないの、と結婚当初文句を言う苗に、

「そこを何とかするのが妻だろう」

とかなり真面目に言い切られたのを苗は思い出す。

子供達は小学校の教室で授業を受けているはずである。そうでなければ困る。今日の給食はレバーのたつた揚げだ。父親に似たのだろう、三年生の昭博も一年生の由利も好き嫌いが激しかった。

まったくもう。

今晩は何にしようかしら。

そこまで考えた時に激しい身震いをして洗濯機が唐突に止まった。

蓋をがくんと開ける。苗の手が黒い脱水槽に突っ込まれたかと思うと水気をかなり搾り取られたシーツがこわばった表情で引き上げられた。

びしっと両手がシーツをしごく。

ばっと広げて物干し竿に干す。白いシーツが目の前に広がって狭いベランダは視界も何も塞がれて白一色になる。もう青い空もふやけた雲も見えなかった。

洗剤の箱を手に取ると計量スプーンで適当に洗剤をすくい上げる。苗は空っぽになった水の中にぱっと投げ入れた。左手がぱっと子供達のシャツを掴んで放り込む。

白いポロシャツなんて買ってやるもんじゃないわね。あっというまに真っ黒。

スイッチを回す。またごうんごうん、と激しい音が始まる。ポロシャツは白い泡に飲まれて右に左に回り始める。

体操服も洗わなくちゃ。

風が吹く。

苗は嬉しい。

こういう時はすごく幸せだわ。

掃除機もかけなくちゃ。

懇談会はいつだったかしら。

洗濯機が回る。ポロシャツが悲鳴を揚げながら回される。シーツやワイシャツに比べて小さなポロシャツ。苗は何だかおかしい。子供の服。子供のハンガー。でも、着られなくなるのもあっと言う間ね。だからこそ、今この時が大切なんだわ。

週末には姑が遊びに来る。部屋を片づけとかなくちゃ。たぶん義妹も子供を連れて泊まりがけで来るはずだった。週末のお買い物にも行かなくちゃ。

ごうんごうん、と洗濯機が回る。

ふうっ、と苗は大きく息を吐いた。首を回す。こりこり、と音がする。ちょっと疲れたな。居間へと入り、台所の椅子にすとんと座った。

椅子から見える青い空。涼しい風。

気持ちがいい。

ここんところ、寝不足なのよね。

ちょっとまどろむ。

まあ、いいよね。

ここんとこ、ほんとにからだが言うことをきかなくなったわ。

 

ちょっとの間、うとうとしたようだった。

気がつくと、洗濯機は止まっているのだろう、ベランダは静かだった。

顔を上げる。

青い空。

たなびいた飛行機雲がまだ辛うじて残っている。

 苗は止まった洗濯機の水の中に手を突っ込む。ポロシャツを引き上げるためだ。

玄関が開く音がした。子供達が帰ってきたのだろう。

もうそんな時間?

つい長く寝てしまったようだった。

「誰?昭博?由利?」

苗は振り返る。

詰め襟の学生服を着た中学生がいた。

あれ、と思う。

そういえば、今朝のテレビで近頃、中学生の犯罪が多いと言っていたな。

「どうしたの?」

苗はおそるおそる聞いた。

中学生は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「今日の塾の月謝だけど」

「え、塾?」

「出しといてよって言っただろ」

「ああ…そうね、そうだったわね…」

苗はしどろもどろに応える。

「ああ、ああ、そうね、昭博…」

昭博だ。この中学生は昭博だ。

どうしたのかしら?

苗は頭が真っ白になる。

どうして昭博は中学生になっているのかしら? 今朝家を出る時はまだ小学三年生だった。

「…えーっと、塾、って何だったかしら?」

「はあ?」

昭博は不愉快な表情をあからさまに眉間にのせて問い返す。

「頭、どうかしちゃったんじゃないの」

「ああ、そうね、…ねえ、お母さん、あんたの中学の入学式、行ったかしら?」

中学の入学式。あったような気もするし、なかったような気もする。

「はあ?」

いよいよ昭博は不快を満面に浮かべる。一緒に行ったじゃないか、母さん、紋付きの着物着て。親父と一緒に校門の前で写真撮っただろ。

「ああ、ああ、そうだったわね…」

そう言われてみればそんな気もする。小学校の入学式も確か同じ紋付きを着て、夫と一緒に校門の前で写真を撮った。今年の春には由利の入学式で同じ着物で…

「俺、もう今年、受験だぜ」

母さんの方が先に参っちまうんじゃないの、と昭博は憎まれ口を叩きながらも、月謝、忘れないでよ、と付け加えた。

「ええ、そうね」

目の前でごうんごうん、と洗濯機が回っていた。いつ自分は回しただろう。渦を巻き、大音響をたてる水面を眺めながら、苗は何だか不思議な思いに駆られる。

あ、早く夕飯の支度をしなくちゃ。

うたた寝したせいで買い物もまだだわ。

ごうんごうん、と洗濯機が回る。

とりあえず洗濯をしよう。それから買い物に行って、夕飯の支度もしなくちゃ。それから週末には姑が来る。義妹も子供を連れて泊まりがけで来るはずだからその用意もしなくっちゃ。

「昭博、母さん、買い物に行ってくるから」

奥の部屋に向かって大きな声で呼んだ。

「洗濯物、干しておいてちょうだい!」

ええー、と昭博が不満そうに声を上げるのに目を上げず、苗はエプロンをはずしながら、お願いね、と言う。

ああ、忙しい。

「母さん、月謝の金、忘れないでくれよー」

文句を言いながらも昭博は脱水槽に手を突っ込む。水気を絞られた白いポロシャツが引き上げられる。ばっと両の手で広げる。

「母さん」

昭博が大声で呼んだ。苗はもう玄関なのだろう。

「母さん!」

もう苗の耳には届いていなかったかもしれない。それでも構わず昭博は叫んだ。

「何で洗ったんだよ、小学校ん時のポロシャツ!」

 ぱたぱたと苗は灰色の道路を小走りに走る。

うたた寝をしたおかげで時間に追われることになってしまった。おまけにかえってからだが重かった。

「あ、由利」

道で学校帰りの由利に出会う。

「あ、お母さん」

赤いランドセル。

「気をつけて帰んなさいね」

「うん」

大きすぎる黄色い帽子を大きく揺らして由利はうなづく。兄と2つ違いの由利は小学校に入ったばかりでまだまだ頑是無い。

急がなくちゃ。

買い物。掃除機。洗濯。週末には姑が来る。義妹が子供連れで泊まりに来るからそのお買い物もしなくっちゃ…

空はまだまだ青い。雲もぽかんと白かった。            (終)