オーディンの森

歴史の小舟

天智天皇と天武天皇は本当に兄弟か?

以前、大化の改新の首謀者は中大兄か?でってネタをアップしました。
……昔むかしのことなのでご記憶にない方の方が多いと思いますが;;
中大兄こと天智天皇、なんか好きなんですよね……
19歳で逆臣蘇我入鹿に一人で切りかかるとか、かっこいい!とか思って(笑;;
……子どもにとってはかっこよく見えたんですよ;;
まあでも世間的には全っ然っ人気ないですけどね;;弟の天武の方が地味に人気ありますね、うん;;
で、閑話休題。
この兄弟、天智天皇と天武天皇。
本当に兄弟だったのか? という疑問を多くの研究者が投げかけています。
確かに史料をつき合わせてみると関係を疑いたくなる要素がもりだくさんなんです。
まずは当時の記録である日本書紀には天武天皇の生年が書かれていません。
制作当時の天皇だったわけですから、あえて書くまでもなかったのかもしれません。でも日本書紀は公的な記録なんだし、いくら現代のことだからって省くかなあ?という疑問符はつきます。
天武が亡くなった年が史料に現れるのは鎌倉時代になってやっとです。
その史料によると、天武は享年65歳。
実をいえば、この記述が兄弟関係が疑われるもっとも大きなきっかけとなっているんです。
天武が65歳で亡くなったとして、逆算すると、不思議なことに兄である天智よりも4つも年上だったということになってしまうんです。
後世の研究家達がもっとも疑ったのは凡ミス、つまり書き間違えたんじゃない? ってことでした。確かに鎌倉になって書かれた史料ですからね。書き間違えたんだろうと考えられなくもない。そう考えてそのあとの時代の史料では天智の享年を日本書紀では46歳とされているものを58歳に引き上げて辻褄を合わせています
ただ、通説と異なる史料を全部書き間違いで済ませてしまうと、史料自体の信憑性も揺らいでしまうんですね。史料を疑っていいんなら、そもそもの兄弟だという記述の方が間違いなんじゃないのか、という指摘もできてしまうわけです。
そして、その時に思い出されるのが、日本書紀の史料になぜ天武の生年が書かれていなかったのかという疑問です。
本当は兄弟どころか、弟のはずの天武の方が年上で、だから生年を書くことができなかったんじゃないか。鎌倉の天武の享年の方が正しくて、兄弟という通説の方が実は誤りだったんじゃないのか、と考える研究者が現れて、二人は本当に兄弟だったのか、という疑問が投げかけられることになったんです。
なぜ日本書紀は当時の天皇の生年の記録を残さなかったのか。
日本書紀の編纂を命じているのは天武であることは逆にも考えられるわけです。
つまり、天武にとって都合の悪いことは書かなかった、という推測も成り立つというわけです。
さらに不思議なことがあります。
日本書紀には天武の先代であった兄、天智天皇の陵についても何も触れていないんです。
ある学者は当時まだ完成していなかったからだと主張しますが、どこに建設されるとかは書いてもよさそうなもんですよね。
で、さらにさらにおかしな史料が見つかります。
平安時代の歴史書「扶桑略記」には、巷間知られているものとは全く異なる天智天皇の最期が書き記されています。
ある日、天皇は馬に乗って山科の里へ出かけます。そしてそのまま帰ってこず、ただ山科には沓(くつ)が落ちているのだけが見つかります。そのまま消息は途絶えてしまい、仕方がないので沓が落ちていたところを陵とした、というものです。そして、殺害されたのかもしれない、とも書かれているのです。
これを神仙思想の反映と見る研究者もいますが、神仙思想のエピソードにわざわざ「殺害」の二文字を書き加えるかなあという気はします。「扶桑略記」を書いたのは僧ですから、学識もあるでしょうし、神仙思想ならそれとわかりそうなものです。
勿論この史料も平安のものですから、後世の史料として問題にしない研究者も大勢いますが、その伝説自体がどこから生まれたのか考えるととても不思議です。
さらにさらに、ですよっ。
さらに面白い史料があるんですよ。
実は天智天皇は日本書紀に書き記された年には亡くなっておらず、もっと長生きをしたのだ、という伝説が残ってるんですね。
近年の学者が唱えたトンデモ説じゃないんですよ。
伝説の地は鹿児島です。
開聞岳にある枚聞(ひらきき)神社には天智天皇が祀られている、というんです。
神社の縁起に曰く、天智の妃の一人に大宮姫という鹿児島出身の女性がいて、彼女はわけあって天智4年に都を追われ、里の鹿児島に帰郷します。
その6年後の天智10年、天智天皇は彼女の後を追って鹿児島を訪れ、その地に留まり、慶雲3年に79歳で亡くなった、というんです。
日本書紀の舞台大和からははるか遠い鹿児島の地に残る伝承ですが、この天智10年というのは、日本書紀で天智が亡くなったとされるまさにその年なんです。
大和から天智が姿を消したちょうどその年に鹿児島での天智伝説はスタートするんです。
そして、鹿児島で天智が歿したとされる慶雲3年とは706年です。これで計算すると、亡くなったとされる天智10年には天智は58ではなく、やはり46でないとおかしいってことになります。
遠い地の神社の縁起と日本書紀の記述の一致をどう見るか、さらには突然いなくなったと伝える扶桑略記、それらを統合した上で鎌倉時代の天武の享年はやはり書き間違いとしていいのか、実に興味深いと思います。
もし二人が兄弟ではないのなら、天武天皇とはいったい何者なのか。
これも説があって、天智天皇の異父兄にあたる漢皇子(あやのみこ)が天武その人ではないかともいわれています。二人の母である皇極天皇は天智の父・舒明天皇に嫁ぐ前に、高向王という人物と結婚していて、漢皇子という息子がいました。天武が漢皇子なら年長でもおかしくないし、皇位継承権は父母ともに天皇である天智が優先しますから、立場的にはおかしくはないということになります。
勿論これもあくまで一つの説ですが、この説が裏付けられる史料はおそらく出てはこないと思います。天武は天智の跡継ぎである大友皇子に反乱を起こして皇位を奪っています。その正当性を世間に知らしめる必要があったわけですから、天武の治世にまとめられた日本書紀などにそれを疑わせる何かが残っているとは思えませんし、もし本当に二人が兄弟で天武が正当な継承者ならば、最初からあるはずもない。
永遠に歴史の謎として残るのだろうとは思いますが、真実が知りたくてうずうずします……

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